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狭い庭での野菜作り [雑感]

狭い庭とはいえ日当たりが良いので、以前から野菜を作っている。


バイアム(別名:ジャワホウレンソウ、ひゆ菜)を栽培し始めたのは10年ほど前からだが、秋になると大量の種を落とすため、春になるとあちこちに芽をだす。7月頃から野菜として使うのだが、暑さに強いということもあり、いくら穫っても猛暑の中で繁茂している(注1)。肥料をまったく与えていない場所であろうと、雑草に負けない勢いで育つ生命力がある。連作障害や病害虫の心配もなく、暑さにも強くて作りやすいうえに、栄養素はほうれん草に勝るという。我が家にとってはありがたい野菜だが、不思議なことにスーパーではお目にかかれない。収穫してしばらく経つと葉が萎れるので、商品としては扱いにくいのであろうが、家庭菜園には好適な野菜である。庭に放置してあったプランターからも芽を出して、元気に枝葉を伸ばしているから、ベランダなどでのプランター栽培にも適していると思われる。


例年通りに今年もミニトマトを栽培し、3本の株から数百個(推定)の実を穫った。まだ多数の青い実がついているのだが、一本の株がいきなり枯れそうになり、葉が黄色になってきた。高温障害も考えられるのだが、病気の可能性があるので、殺菌剤(ウイルスやカビ対策)をスプレーして様子を見ることにした。


昨年に初めて作ったヤマノイモ(ナガイモ)だが、思いの外にうまくいったので、今年は栽培数を昨年の2倍ほどにした(注2)。昨年は巨大なキイロスズメ蛾の幼虫により、9月の中頃には葉の多くが食害されてしまったが、それでもかなり立派なナガイモが得られた。今年は昨年よりも葉が茂っているし、キイロスズメ蛾の幼虫を見張ってもいるので、昨年以上の出来映えを期待している。


生ゴミを庭に埋めているので、埋められた種からたくさんのカボチャが芽を出した。幾本かを放置しておいたら、まずまずのカボチャが3個できている。雨で受粉が妨げられなかったならば、もっとたくさんできた可能性がある。


毎年のことだが、防暑と省エネのため、ゴーヤの蔓と葉を利用した日よけ(グリーンカーテンと呼ばれる)を作っている。副産物としてのゴーヤがたくさん採れるはずだったが、今年は例年の数分の1しか実がつかない。猛暑でゴーヤが弱ったせいか、花粉を運ぶ虫が弱ったせいか、いずれにしても、こんなことは今年が初めてである。


春にはシュンギクと小松菜にキャベツも作ったのだが、しっかり収穫できたのはシュンギクだけで、小松菜とキャベツは虫喰いだらけになってしまった。寒い時期に作れるサニーレタスなどと異なり、暖かい時期には虫対策が必須である。


限られた場所で野菜を作る場合、連作障害対策に苦労する。実もの野菜ならば接木苗を使うことになるが、ヤマノイモなどではそうはいかず、毎年場所を変えるか、土を入れ替える必要がある。「有機肥料の多用が連作障害対策になる」との記事があったので、来年はその方法を試してみたいと思っている。使う有機肥料は、庭木を剪定した際の葉を利用した堆肥である。


(注1)バイアムの収穫方法
必要なだけの葉をちぎり取るか、茎をハサミで切り取る方法で収穫する。根元近くで切りとっても、すぐに新しい茎が伸び出してくる。味噌汁やオヒタシに利用しているのだが、ドンブリに一杯分のオヒタシを数日ごとに作っても、庭のバイアムは少しも減らず、繁茂し続けている。


(注2)ヤマノイモの植え付け
深さ30cmほど掘り下げてから、腐葉土(庭木の葉を利用)を混ぜて埋め戻し、その上に高さ40cm程度の畝を作る。そのままでは畝がくづれるので、古いスダレを利用した防壁で囲っている。種芋はホームセンターで購入した。昨年収穫した芋の切れ端を埋めてみたら、そのうちの2本が芽をだして、立派な蔓を伸ばしている。


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理系人間が理系の道を歩む理由 [教育]

多くの女性がそうであるように、私の妻は理系の科目を苦手にしていたという。「学校の数学の試験には難しい問題もあったはずだが、どんなやり方で頑張ってみたんだ」と訊いたところ、「難しそうな問題はどうせ解けないと思って、最初から手をつけず、答えを出せる計算問題だけを解いていた」とのこと。おそらくは、応用問題などにも眼を通し、少しは努力したのだろうが、早々に答を出すことをあきらめたのであろう。


理系の教科を苦手とする人の中には、私の妻のようなタイプが多そうに思える。能力がないから苦手にしているというより、理科や数学の問題に立ち向かおうとはしないタイプであり、成績も芳しからざるものとなる。理系の科目は知識を総合的に積み重ねながら学ぶものゆえ、知識に空白の部分があると、先には進めなくなる可能性がある。そのような人は学年が進むにつれて、理系教科の成績が低下するだろう。その人の理系の成績が悪いのは、勉強に対する取り組み方に主原因があるわけだが、当人は「自分は頭が悪い」と思い込むおそれがある。そして結局は、理系人間として学んでゆく人とは異なる道を歩んで行くことになる。そのようにして理系の学問から遠ざかったにしても、その人は理系の学問から敗退したわけではなく、別の道を選んだだけのことであり、それがその人の進むべき道だった、ということになろう。


理系の道を歩んだ私がこのように書くと、「理系人間にそう言われても、私が数学を苦手にしていたのは、やはり頭が悪いからだと思う」と言う人がいる一方で、「あなたが言う通りだと思う。数学はからきしだめだったが、そんなことなど気にもしないで、こんな人生を歩んでいる」と言う人もいるにちがいない。


私は小学生の頃から、理系の事象に興味をもった。電気に関することには特に強く惹かれ、長じては電気の分野の技術者になった。典型的な理系人間だと自覚しており、数学や理科の成績もかなり良かったのだが、それは中学3年の頃からであり、それ以前の成績はむしろ悪い方だった。強く自覚してはいなかったにしろ、電気など理系の事象に強く惹かれていた私にとって、数学や理科などの知識は必須だったから、そのことも、数学や理科の成績を向上させた理由のひとつであろう。そのような体験を持つ私は、本ブログに「教育」なるカテゴリーを置き、教育に関する記事を書いてきた。私の体験に関わる記事を含めて、それらが役立つようにと願っている。(記事の幾つかを付記として下記に列挙)


様々な性格と能力を有する人が、様々に関わり合いつつ、それぞれの道を歩み、人生を築いてゆく。理系人間を自認していた私だが、いまでは小説を書き(本ブログの左側サイドバー参照)、こうしてブログに記事を投稿している。文系人間としての日々を送っているとはいえ、科学技術などに関わるニュースや記事には、今でもことのほかに惹かれる。才能や能力がどうであれ、理系の事象に強く惹かれる人は理系人間である、と私は思う。


(付記)教育カテゴリーに投稿した記事の例

    青い部分をクリックすればその記事を読むことができます


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親の恩・・・・・・グライダー事故を振り返って思うこと [人生]

学生時代の一時期を、私は仙台郊外の寮で暮らした。数年前の秋、恒例になっているその寮の親睦会に参加し、数十年ぶりに先輩諸氏と再会したことがある。その際に、私と同室だった先輩のひとりから、私のグライダー事故にまつわる意外なことを聞かされた。


私がグライダー事故で重傷を負ったとの報せを受けて、父は駆けつけるようにして仙台まで来てくれたのだが、50歳でまだ若かったとはいえ、長い列車の旅に苦労したはずである。60年も昔のことで新幹線はなく、出雲からは一昼夜もの時間を要した時代であった。


うかつにも私は知らなかったのだが、仙台駅で父を迎えてくれたのが、寮で同室だったその先輩だったという。その先輩に向かって父が口にした最初の言葉は、「息子はまだ生きていますか」だったとのこと。先輩からそのことを聞かされたとき、私は父母と弟妹たちへの感謝の気持ちとともに、後悔の念をおぼえた。 


グライダー事故のことが家族の間で話題になることはなかったのだが、生前の父から一度だけ、「仙台に向かったあのとき、お前の骨を拾うことになるかも知れないと覚悟していた」と聞かされたことがある。父がどんな気持ちでその言葉を口にしたのか、まだ若かった私には慮ることができず、心配をかけたことを謝すこともなく、感謝の言葉も返さなかった。そのことを悔いる気持ちを抱きつつ、この記事を書いているところである。父はどんな気持ちで事故のことを口にしたのだろうか。霊能者を介して聞くことはできるだろうが(注1)、そんなことをしなくても、おそらくは20年以内にあの世で再会し、聞くことができるはずである。そのときは、諸々の思いをこめて、感謝の言葉を伝えたいと思う。


おそらくほとんどの人が、「親の恩」なる言葉を読んだり、聞かされたりしたはずである。読んだり耳にしたりした「親の恩」を、私は言葉の上ではすなおに受け入れていたのだが、むしろそれゆえに、そのことを深く考えようとはしなかった、という気がする。そうであろうと、人の心の内を慮る能力があれば良かったのだが、私にはそれが不足していたようである。


少年時代から小説に親しみ、登場人物たちの心境に思いを寄せる習慣を身につけていたなら、もう少しましな対応ができただろうか。今は小説を読むだけでなく自分でも書き(本ブログの左側サイドバーに概要を表示)、テレビではドラマも見るのだが、昔の私は理系の事象に対する興味が強く、小説などはさほどに読まなかった。小学生時代の私は成績劣等生だったにも拘わらず(注2)、電気に対して強い興味を抱き、ラジオや自動木琴演奏装置などに夢中になる少年だった。小説を読むことがあっても、登場人物たちの心境に思いを寄せる度合いは軽かったように思える。


父や母の恩を強く意識するようになったのは、小説を書くようになったからというより、やはり年齢によるものであろう。若くしてその域にある人もあろうが、未熟な私はそうではなかったということになる。難解な電気の参考書を読むかわりに、文系の書物に親しんでいたなら、あるいは、人の生き方について示唆を受ける縁に恵まれていたなら、若くして真の意味での親の恩を意識できたのかも知れない。


この記事を書いているうちに、「この記事がどこかの誰かに役立ってほしい」と願う気持ちになった。もしかすると、これもまた年齢のせいかも知れないのだが。



(注1)体験を通して霊魂の実在を識ることになった私は、霊に関する記事を幾度も投稿している。その幾つかを列挙しておく。



 霊魂の実在を信じない人たち(武本昌三氏のホームページ「ともしび」より)(2017年5月3日)




 (注2)小学生時代の私自身について、本ブログに幾度も記事を投稿している。その幾つかを、「教育カテゴリー」に投稿した記事と併せて以下に列挙しておく。





 理系人間と文系人間2016年7月27日)








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日本のアメリカ属国化を目指す政治家とは? [政治および社会]

8月16日の「きっこのブログ」に、「アメリカの属国として戦後レジームの完成を目指す安倍政権」なる記事が投稿された。安倍政権に批判的なきっこさんだが、その記事ではついに、政治家としての安倍晋三をこきおろすに至った。


その記事は、次のような文章で締めくくられている。

・・・・・・。  結局、自民党総裁の任期を3期に延長してまで安倍晋三が成し遂げたいことは、日本を完全なる「アメリカの属国」にすることであり、翁長知事の指摘の通り「戦後レジームの完成」こそが「安倍政権の目指しているゴール」なのだということが良く分かった。だから、今日は最後にハッキリと言わせてもらうけど、日本を愛する保守派の皆さん!右翼の皆さん!思想の左右に関係なく「日本が大好き」なすべての愛国者の皆さん!このまま今の安倍政権が続いたら、日本はケツの毛までアメリカにむしられてしまい、完全にアメリカの属国に成り果ててしまうから、今すぐに安倍晋三という稀代の売国奴を権力の座から引きずり降ろすために力を結集してほしい!‥‥って、マジでそう思った今日この頃なのだ。(引用おわり)


きっこさんはブログの記事を、「日本が大好きなすべての愛国者の皆さん」に呼びかける形で終えている。国民に愛国心を求める阿倍首相とその仲間たちだが、きっこさんが呼びかける愛国者の中には、阿倍首相たちはむろん含まれていない。


この国に生まれ育った国民のほとんどは、祖国であるこの国に対する愛着心を抱いているだろう。愛国心はそのような感情に根ざすものゆえ、政治や教育によって植え付けられるべきものではない。にもかかわらず、自民党にかぎらず保守派の政治家の中には、国民に愛国心を求める者がいる。戦前の日本では愛国心が強調されただけでなく、国に命を捧げることが美徳とされ、命を投げ出すことを強要された。それに逆らう者は売国奴の罵声を浴びたのだが、真に売国奴と呼ばれるべきは、国を破滅の淵に追い込み、国民と他国民に苦難を強いた、戦前の政治を担った者たちである。


「戦後レジームからの脱却」と「美しい日本を取り戻すこと」を目指すと言う安倍首相だが、きっこさんからは稀代の売国奴と見なされている。安倍首相の考え方や言動と、政治に向き合うその姿勢が、きっこさんに限らず多くの国民に不安を与えているはずである。このような政治家により、日本が再び道を誤り、将来に災いを生じなければよいのだが、と。


過激な表現も散見されるきっこさんの記事だが、保守派であろうと左翼であろうと、「きっこのブログ」のその記事(2018年8月16日 アメリカの属国として戦後レジームの完成を目指す安倍政権)に眼を通してもらいたいと思う。読む人ごとに受け取り方は様々であろうが、やや長いその記事を読めば、「安倍晋三は稀代の売国奴なり」と書きたくなったきっこさんの気持ちが、多くの人に伝わるはずである。

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終戦記念日に思うこと [戦争犠牲者追悼施設]

日本の敗北によって戦争が終わったことを知ったのは、村の神社に近い畑道を歩いているときだった。畑で働いていた中年女性が、通りかかった知人に向かって声をかけた、「負けてしまったねー、戦争」と。私は昼食を終えてから出かけていたはずだが、母からも近所の人たちからも敗戦を知らされていなかった。私が国民学校2年生だった昭和20年8月で、ラジオのある家が少なかった頃である。天皇の「玉音放送」は正午に始まったようだが、それを聴いた村人はごくわずかだったと思われる。


いかにも無念そうな「負けてしまったねー、戦争」であったが、声の主は敗戦を知った直後であっても畑に出ていたことになる。いかに大きなショックを受けようと、そのために畑仕事を休むわけにはいかなかったのだろう。私の父を含めて村の男の多くが出征しており、女と子供が農作業の重要な担い手だった時代である。私がどんな目的でそこを歩いていたのか記憶にないが、敗戦を知ったその時刻は、8月15日の午後2時から5時の間だったと思われる。晴れた暑い日で、日暮れまでには時間がある時刻だった。


私がもう少し早熟であったなら、戦争に負けたことを知って動揺したかも知れないのだが、7歳だった私は格別の感慨を覚えなかった。とはいえ、畑道で耳にした「負けてしまったねー、戦争」なる声と口調は鮮明に記憶している。特攻隊のことは国民学校1年生時の担任教師から聞かされたのだが、その時の先生の表情と口調も、今なお鮮明に記憶している(注)。大人が悲壮な思いをこめて口にする言葉は、幼少の者にも強い印象を残すということである。


きょうは平成時代で最後に迎える終戦記念日であり、戦争による犠牲者の慰霊に尽くされた今の天皇にとっては、全国戦没者追悼式に臨まれる最後の式典となった。天皇の声を耳にしていると、語られる言葉の多くが官僚による作文であろうと、その声には心が込められていると感じた。安倍首相の言葉も基本的なところは官僚の作文によるのだろうが、私にはそれが空々しいものに聞こえた。安倍首相の過去から現在に至る言動と、政治に向き合うその姿勢が、私にそんな思いを抱かせる。


日本武道館で行われた式典に先だって、安倍首相は千鳥ヶ淵戦没者墓園を訪れたという。その墓園にはむろん存在意義があるわけだが、12日に投稿した記事「靖国神社に代わるべき施設について」に記したように、本来ならあってしかるべき「大きな墓標」を建立してもらいたいものである。それは、戦争犠牲者の追悼施設であるのみならず、あの戦争を忘れないための記念碑となり、非戦を願う祈念碑となり、不戦を誓ううえでの象徴的な施設となるはずである。


(注)特攻隊について
私が書いた小説「造花の香り」(本ブログの左側サイドバーに概要を掲示)のあとがきに、特攻隊の話を聞かされたときのことが記されている。昭和19年の10月で、私は国民学校の1年生だった。2015年10月16日に投稿した本ブログの記事「特攻隊要員の搭乗機を見送った日のこと」には、私が特攻隊員たちの搭乗機を見送った思い出が記されている。
             
             
             
             
             



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靖国神社に代わるべき施設について [政治および社会]

8月15日の終戦記念日には、今年も自民党の議員たちが靖国神社を訪れるにちがいない。議員たちの個人的な信条によるものゆえ、その事実を伝える新聞も、批判がましいことは書けないだろう。


靖国神社に参拝する人たちも、「あそこは戦死者の慰霊と顕彰のための神社であり、戦争犠牲者一般のための施設ではない」と認識しているはずである。空襲などによる膨大な犠牲者を含む、全ての戦争犠牲者のための追悼施設を、この国は作ろうとしなかった。そのことに、多くの人が疑問を抱いていると思われ、かく言う私もそのひとりである。


2015年8月15日のブログに、「靖国神社に代わる追悼施設とは」なる記事を投稿し、2017年8月15日にはそれを再投稿している。今でもその考えに変わりがないので、くどいようだが、その記事をそのままここに載せることにした。
    
2015年8月15日の記事「靖国神社に代わる追悼施設とは」を再掲


  終戦記念日のきょうは全国戦没者追悼式が行われ、日本武道館からのテレビ中継があった。戦後も70年を経て、参加した遺族6000人のほとんどは高齢者である。
  白木の標柱に記された「全国戦没者之霊」なる文字を見ながら、私はあらためて思った。戦後の70年を経てもなお、戦争犠牲者を慰霊するための国立の施設は存在しない。靖国神社は戦死者を祀るとともに、戦死者を顕彰するためのものであり、原爆や空襲による犠牲者などは対象にしていない。靖国神社は本来の追悼施設とはなりえないことになる。
  靖国神社に代わる追悼施設を作るべしとの声があるけれども、それだと戦死者しか祀らない施設を新たに作ることになる。新たに作るのであれば、戦災による犠牲者をも含めた追悼施設でなければならず、それは靖国神社に代わるものではないはずである。
  靖国神社に代わるものとして、無宗教の追悼施設を作ろうとする案が提唱されている。それに対しては、追悼施設が無宗教ではあり得ないとの異論がある。
  戦争犠牲者を追悼するための施設はいかにあるべきか。それに対する私の見解を、終戦記念日のブログに書くことにした。
  戦争による犠牲者のための追悼施設を墓標と見なし、国立の慰霊施設として作ること。それが私の提案である。犠牲者が如何なる宗教を信じていたにしろ、そして追悼する人が如何なる宗教を信じているにしろ、その墓標を前にすることは可能である。ここで言う墓標は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑のごとき墓とは異なるもので、戦争犠牲者を悼むための象徴的な施設である。
  あの戦争の犠牲者を追悼するための施設は、あの戦争を忘れないための記念碑でもあり、非戦を願う祈念碑であって、不戦を誓ううえでの象徴的な施設でもある。遠い将来にわたって、日本人が過去を振り返り、不戦を誓い続けるうえでの象徴。そのような象徴たるべき墓標の建立こそが、戦争で犠牲になった人々の霊を慰め、その犠牲を無にしないための、最も望ましいあり方ではなかろうか。
このような考えを持つに至ったのは、小説「造花の香り」(本ブログの左側サイドバーにて概要を紹介)を書いているときだった。8月10日の記事「靖国神社の英霊たちが望むところは」にも引用したが、 特攻隊員を主人公とする「造花の香り」(アマゾンの電子書籍であるキンドル本として公開中)の中に、次のような文章がある。出撃基地で待機中の主人公が、親友に遺すノートに記した言葉である。


「造花の香り 第六章」より引用
…………今日は一緒に出撃する仲間たちと散歩にでかけ、辺りの景色を眺めながら雑談のひとときを過ごした。
 …………靖国神社を話題にしたとき、出撃に際して交わされる「靖国で会おう」という言葉は、気持を通い合わせるうえでの合言葉の如きものだと仲間が言った。軍とは関わりのない忠之にも理解できると思う。俺の隊にはキリスト教徒がいるのだが、その仲間ですら言うのだ。自分は靖国神社に祀られるつもりは全くないが、出撃に際しては靖国で会おうという言葉を口にするかも知れない。かく言う俺自身の気持を言えば、その言葉を残して出撃することになろうと、神社に留まるつもりは少しもない。神社の中に閉じこもっているより、俺の家族とお前や千鶴の気持にいつでも応えられるよう、宇宙の中で自由に羽ばたいていたいと思う。俺自身は靖国神社を必要としないが、家族にとっては靖国神社が俺の墓標の如き存在になるだろう。俺が英霊として崇敬されていることを確認できる場所にもなるだろう。それは俺の場合に限らないわけだが、キリスト教徒の場合にはどうであろうか。殉国の至情に燃えているその仲間のことを思えば、国に命を捧げた者のための象徴的な墓標は、靖国神社のほかにも必要ではないかと思う。日本人が過去を振り返り、未来を考えるためにも、空襲の犠牲者などをも対象にした、大きな墓標をしっかりと打ち建てるべきではないか。これを記しているうちに、俺はその実現を強く願うに至ったのだが、忠之はどう思うだろうか。  (引用おわり)


  作中の文章「これを記しているうちに、俺はその実現を強く願うに至ったのだが、忠之はどう思うだろうか」は、小説を書いているときの私自身の気持ちであった。
  このブログを読んでくださった方々は、はたしてどんな感想を抱かれるだろうか。共感してくださるにしろ、反発されるにしろ、少しでも多くのひとに読んでもらえるよう願っている。さらには、 8月10日の記事「靖国神社の英霊たちが望むところは」も併せて読んでいただきたいと思う。


 この記事を読んでくださったあなたは、如何なる感想をお持ちでしょうか。主旨に賛同していただけるなら、友人や知人の方々に、このブログの趣旨をお伝え願いたく、宜しくお願いします。


世界各地に戦勝記念碑はあっても、敗戦記念碑なるものは少ないと思われるが、未曾有の惨害と甚大な犠牲、そして、それがもたらした悲劇と悲しみを思えば、この国には巨大な追悼施設があってしかるべきではないか。その施設はあの戦争を忘れないための記念碑であり、非戦を願う祈念碑であって、不戦を誓ううえでの象徴的な施設でもあるはず。そのような施設が未だに存在しないことが、私には不思議なことに思われる。


付記


小説「造花の香り」を書くうえでの参考資料によって、特攻隊員の中には幾人ものキリスト教徒と幾人もの朝鮮人がいたことを知った。「彼等とその遺族は望んでいないにちがいない、靖国神社に祀られることを」と思った私は、小説の主人公に前記のような文章を書かせた。



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アメリカの戦争犯罪・・・・・・原爆攻撃と東京大空襲 [政治および社会]

6日の広島に続いて、9日のきょうは長崎での平和祈念式典が開催された。その一方で、国によって開催されてしてしかるべき式典でありながら、開催されたことがない式典がある。
                             
太平洋戦争の末期には、日本の都市はアメリカによる空襲を受け、甚大なる被害を蒙った。その中でもとくに、昭和20年3月10日深夜から11日未明にかけての東京大空襲は、100万人もの被災者と10万人を超える死者をだしている。広島と長崎の原爆に劣らぬ災厄を蒙ったにもかかわらず、平和祈念行事が大々的に行われる広島や長崎と異なり、3月10日は静かな慰霊行事(注)が行われるだけである。


被害の規模が突出していたにしろ、東京大空襲も全国的な空襲被害の中のひとつととらえられ、原爆被災とは区別されているのだろうか。空襲による被害は全国各地にまたがっており、東京以外の都市でも多くの死者を出しているから、東京だけを特別視しないというのだろうか。とはいえ、一夜にして甚大な被害を受けた3月11日未明の東京大空襲は、多くの一般人が暮らす街に対する全面的な爆撃であり、広島や長崎の原爆と同等の大虐殺である。東京をはじめとする主要都市は無差別爆撃により、膨大な犠牲者を出したわけだが、アメリカによるその戦争犯罪を、日本は告発していない(告発できなかったと言うべきか)


原爆の日には広島と長崎で慰霊と平和祈念の行事が行われるが、3月10日の東京で大々的な行事は行われず、いまの日本人の多くは、そのような大空襲があったことすら知らないままでいる。3月10日の前後には、朝日新聞の「声」欄に、毎年のように東京大空襲に関わる投書が載る。作家の早乙女勝元氏もその投稿者のひとりである。2018年3月10日の本ブログに、「早乙女勝元氏の投稿記事を読んで・・・・・・東京大空襲と東日本大震災を思う」なる記事を投稿しているので、読んで頂けたらと思う。(青い部分をクリックすればその記事が表示されます)


(注)東京都平和の日と祈念行事
東京都は「東京都平和の日条例」を制定し、3月10日を「東京都平和の日」と定めて、空襲犠牲者の追悼と平和祈念の式典を開催している。東京都のホームページによれば、今年も3月10日に東京都庁内で開催されている。

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81年前の修身教科書 [教育]

出雲の生家に滞在している間に、父が遺した書物を取りだしてみた。その中に、茶色に変色した古い教科書がある。表紙には「小学作法書」とあり、その脇には文部省調査と記されている。


巻末を見ると、昭和4年9月3日発行とあり、昭和11年3月5日129版改訂発行とある。父が遺したのは昭和11年版で、定価15銭(送料4銭)と表示されており、著作兼発行者は「帝国実行教育会」、発行所は「帝国教育学会」となっている。


見開きには文部省による「小学作法教授要項凡例」として、箇条書きで学童に教えるうえでの注意書きが記されている。


本文の最初に記されているのは、「国民精神作興に関する詔書」であり、「朕惟フニ国家興隆ノ本ハ国民精神ノ剛健ニ在リ之ヲ涵養シ之ヲ振作シテ以テ国本ヲ固クセサルヘカラス是ヲ以テ先帝意ヲ教育ニ留メサセラレ国體ニ基キ淵源ニ遡リ皇祖皇宗ノ遺訓ヲ掲ケテ其ノ大綱ヲ昭示シタマヒ後又臣民ニ詔シテ忠実勤倹ヲ勧メ信義ノ訓ヲ申ネテ荒怠ノ誠ヲ垂レタマヘリ・・・・・・」といった難解な文章である。かなり長い文章の最後は「・・・・・・力ヲ公益世務ニツクシ以テ国家ノ興隆ト民族ノ安栄社会ノ福祉トヲ図ルヘシ朕ハ臣民ノ協翼ニ頼リテ弥々国本ヲ固クシ以テ大業ヲ恢弘セムコトヲ翼フ爾臣民其レ之ヲ勉メヨ  御名御璽」となっている。


「申ネテ」は「かさねて」と、「誠」は「いましめ」と、「翼フ」は「こいねがう」と読むようふりがながつけられている。詔書の日付は大正12年11月10日である。


この書物の内容は、小学生に対して起居振る舞いなどを教えるものだが、歩き方や戸を開け閉めするやり方、食事に際しての口の動かし方、国旗の掲揚に関わる規則など、実にこまごまと指示している。人とのつきあい方や公衆道徳(公園のベンチの使い方や、落書きをしないことなど)についても、細部にわたって指示されている。


時に応じた振る舞い方を学んでおけば、後に役立つ場合も多いだろうが、その教科書の教え方は度が過ぎている、という気がする。起居振る舞いから歩き方など、個性に属すことにも規制が及ぶと、考え方まで型式にとらわれ、型にはまった思考や判断に陥りやすくなりそうに思える。


戦前から長らく教師を勤めていた父は、このような教科書を使って生徒を指導していたのだろうか。戦前の社会環境においては、政府の方針を無条件に受け入れるしかなかったわけだし、教師自身も、教科書の内容に疑問を抱かなかった可能性がある。


モリトモ・カケ問題で醜状を露わにした自民党だが、これからも道徳教育を復活すべく努めるだろう。公文書の改竄やイラク派兵に関する日報の隠蔽工作などを思えば、そして、特定秘密保護法と安全保障関連法に続いて、共謀罪法あるいはテロ等準備罪法とも呼ばれる改正組織犯罪処罰法、さらには集団的自衛権の行使容認を柱とした安全保障関連法を制定した安倍政権を思えば、国民がよほどしっかりと見張っていなければ、将来に悔いを残す法律が作られかねない。来年の参院選挙で自民党や公明党が惨敗すれば、その懼れが軽減されるのだが。せめて現有議席数を大きく減らすよう願っている。



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