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ロビーコンサートの演奏者と聴衆 [音楽およびオーディオ]

「八十路にて詠む歌 55(2023.11.16」に、大府市役所で行われるロビーコンサートを詠んだ〈市役所のロビーにて聴くコンサート無名の奏者と無名の聴き手〉なる歌を投稿しました。
                                                                                                                                               
数日前の7日にもロビーコンサートがあり、ピアノの伴奏によるコントラバスの演奏という珍しいものでした。開演直前にロビーを訪れると、用意されたイス(推定100席あまり)はほぼ満席でした。平日の日中ですから、ほとんどが高齢者であり、若い聴衆は幼児を抱いた母親だけでした(10人ほど)。
                                                                                                                                                
母親に抱かれた幼児の多くは1歳程度に見えましたが、意外なことに、演奏中に声を出す子供はいませんでした。私の隣席にも親子づれがいたのですが、幼児の表情は実に穏やかに見えました。とはいえ、コンサートに乳幼児を連れた聴衆が参加するのは、ロビーコンサートならではのことでしょう。
                                                                                                                                                
ピアノとコントラバスともに、奏者は愛知県出身の若い女性でした。ガラスとコンクリートで囲まれたロビーですから、コントラバスの低音が強調されて耳障りなところもありましたが、聴いて良かったと思える演奏でした。
                                                                                                                                                
バイオリンなどの独奏曲にはピアノの伴奏がつきます。そのような演奏を聴くたびに、私は不思議に思います。バイオリンあるいはコントラバスとピアノは、演奏される音楽の上ではほとんど対等と思えるのに、どうしてピアノは伴奏とされているのだろうか。もしかすると、バイオリンの方を伴奏と呼んでも良さそうな曲があるのかも知れないのだが。

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実力がありながらも無名の演奏家 [音楽およびオーディオ]

八十路にて詠む歌 54(11月8日 投稿)」を投稿したら、以前に投稿した記事「高級ブランド製品のブランド名を隠したとき・・・・・・ある実験の興味ある結果(2015.11.21)」を思い出した。ワシントンの地下鉄駅で、バイオリニストのジョシュア・ベルがストリートミュージシャンに扮して演奏したところ、行き交う人のほとんどから無視された。演奏者が無名であれば、いかに勝れた演奏がなされても無視されることが、実験的に示されたできごとである。
                                                   
                                         
あるブログに面白いことが書かれていた。著名なバイリニストであるジョシュア・ベルに関わる記事である。その記事を確かめようと思い、ウィキペディアでジョシュア・ベルの項を見ると、次のような記事があった。
                                         

Wikipediaのジョシュア・ベルの項より引用
〈ワシントン・ポスト紙の実験〉ワシントン・ポスト紙のコラムニスト、ジーン・ワインガーテン(英語版)の発案で、2007年1月12日の朝のラッシュ時、ベルは野球帽を被り、地下鉄ワシントンメトロのランファン駅にて、ストリートミュージシャンに扮する実験を行った。曲目は前日のコンサートと同じものであり、それもメジャーなものだった。その様子を隠しカメラで撮影したところ、実験の約45分間でこの横を1,097人が通過したものの、金を置いて行った客は28人、ちゃんと立ち止まって演奏を聞いたのは7人、この人物がベルだと気付いたのはたった1人だった。そして、ベルが客から得た金は、ベルだと気付いた一人から得た20ドルを除けば、わずか32.17ドルだった。
これは、たとえ近くで名演が行われていても、注意深く観察しなければ多くの人がそれに気付かないことを示した実験報告だとして、ヴェインガーテンは2008年のピューリッツァー賞を受賞している。また、ワシントン・ポストはこのビデオをYouTubeに投稿している。

YouTubeのその動画を見れば、上記の記事に記されている状況がよくわかる。忙しそうに行き交う人のほとんどは、演奏しているジョシュア・ベルに顔を向けることもない。
この実験が騒音の少ない場所で行われたにしても、通行人の足を止めることはなかったかも知れないのだが、演奏者がジョシュア・ベルとわかっていたら、騒がしい場所であっても多くの人が集まったことだろう。
上記の記事には、「これは、たとえ近くで名演が行われていても、注意深く観察しなければ多くの人がそれに気付かないことを示した実験報告だとして、ヴェインガーテンは2008年のピューリッツァー賞を受賞している」とあるが、たとえ立ち止まって注意深く観察したところで、多くの人は名演奏とは思わなかったのではなかろうか。演奏される曲目がなんであろうと、その奏者は無名のストリートミュージシャンなのだから。
                                         

音楽に関わる実験には他にも面白い例がある。オーディオ機器は機種によって驚くほどの価格差があり、数百万円のアンプや1000万円のスピーカーがある一方で、1000円程度の製品もある。その価格差が音質にも相応に大きな差をもたらしているのか。そのような疑問に応えるには、ブラインドテストによる比較試聴が望ましく、日本だけでなく海外でも行われており、その結果が報告されている。そのひとつが、音楽之友社発行の雑誌「stereo」の2004年3月号に掲載されている。オーディオの愛好家たちが評者になって、幾種類ものアンプをブラインド評価したところ、300万円の有名ブランド製品が、9800円のデジタルアンプに負けたとのこと。オーディオ愛好家たちの間で話題になったできごとであり、今でもその結果をネットで見ることができる。
高級ブランドの超高額製品を購入した人たちの多くは、その音質に満足していることだろう。それに勝る音質を望むことはできないと思えるのだから。同じその製品のブランド名がわからないようにして、数十分の一の価格で売り出したなら、売れ行きはどうなるであろうか。それを買った人は音質に満足しつつも、さらなる高音質を求めたくなるのではないか。世間にはそれよりはるかに高額な製品があるわけだから。
音質をきちんと評価できる能力さえあれば、価格にまどわされることなく製品を見抜くことも可能であろうが、それもかなり難しそうである。人の価値判断がブランドや価格に影響されるからこそ、ブラインドテストによる評価が意味を持つわけだが、先に紹介した記事にも見られるごとく、オーディオに精通しているはずの人たちにとっても、音質の評価は容易ではなさそうである。結局のところは、そういったことを意識しつつ、自分で納得できる製品を選ぶしかないと言えそうである。

9月15日の記事「自作スピーカー音楽を聴く楽しみ」に書いたように、数十万円から百万円程度のスピーカーを試聴しても、私の耳にはさほどに良い音に聴こえなかった。いまでは自作のスピーカーで音楽を聴いているわけだが、それでもさしたる不満を覚えないのは、私の耳がいわゆる「駄耳」であるためであろうか。たとえそうであろうと、高級機を追い求めたがらないこの耳を頼りに、私はこれからも音楽を楽しもうと思う。  (再掲おわり)                                         
                                          
もしかすると、実力がありながらも、コンテストなどでの入賞を逃したがゆえに、無名のままに終わる演奏家も少なくないのかもしれない。


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91歳の現役ピアニスト [音楽およびオーディオ]

テレビでフジコ・ヘミングに関わる番組を見た。2月22日のNHK BS1で放映された「フジコ・ヘミング 魂のピアニスト心の旅 ショパンの面影探してスペイン・マヨルカ島」である。


NHKのドキュメント番組『ETV特集』「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映されたのは、今から24年前の2月だったという。私はその番組を見て、高齢のそのピアニストに興味をおぼえたのだが、その後におけるフジコ・ヘミングの活躍を、まったく予想することはできなかった。番組で披露された演奏は良かったし、すぐれた演奏家のひとりだとは思ったのだが。



私はその程度に受けとったのだが、NHKの番組は大きな反響を呼び、フジコ・ヘミングは人気ピアニストの一人となり、世界で活躍するに至った。その様子を伝えるニュースに接するたびに、フジコ・ヘミングの成功に祝意をおぼえ、高齢ながらの活躍に敬意と驚きをおぼえてきた。私より6歳ほど年上の91歳だという。



先日の番組「フジコ・ヘミング 魂のピアニスト心の旅 ショパンの面影探してスペイン・マヨルカ島」で、フジコ・ヘミングはショパンの数曲を弾いた。歩くときには手押し車につかまって、ゆっくりとしか歩けないらしいが、テンポの速いピアノ曲も弾きこなしている。



演奏を聴いていて、おかしなところがあると思っていたら、番組内でフジコ・ヘミングが言った、「何度もまちがっちゃった」と。その言葉を聞いて、以前に投稿した記事を思い出した。2016年1月11日に投稿した記事「浅田真央や羽生結弦もミスをすることがある・・・・・・ピアニストのミスタッチも大目に見よう」である。



フジコ・ヘミングに声援を贈りながら演奏を楽しむひとたちは、ミスタッチを気にしていないに違いない、私と同様に。フジコ・ヘミングにかぎらず、演奏のどこかでまちがえる演奏家は多いと思われるが、私はいっこうに気にしない。というより、ほとんどの場合、ミスタッチに気づかないのだが。



91歳のピアニストであるフジコ・ヘミングさん。まだまだ演奏を楽しみ、聴衆を楽しませてもらいたいものである。

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聴こえなくても想像できる可聴周波数限界の音 [音楽およびオーディオ]

年齢を重ねるにつれ、高い周波数の音が聴こえにくくなる。とはいえ、たとえ聴こえなくても、可聴限界周波数の音を想像することはできる。音は低い音から高い音まで連続的に変化して聞こえるので、その限界の音を想像することができるからである。
                                                                                                                                                
人間には聞えない超音波を犬などは聴くことができるのだが、おそらく、犬が認識する超音波の音は、人間が聴く周波数の高い音と同じようなものであろう。
                                                                                                                                                 
80代の半ばにさしかかった私の耳も、高い周波数に対する感度が低下しているはず。そうであろうと、若い頃と変わりなく音楽を楽しむことができる。クラシック音楽の演奏会を撮したユーチューブを見ると、聴衆のかなりが高齢者である。中には高域の音が聞こえない人もいることだろう。そうであろうと、音楽を楽しむことはできそうである。聞こえない音を想像などしなくても。
                                                   
この記事を書いて想った、耳が聞こえなくなったベートーベンは、どんな気持ちで音楽と向き合い、どんな気持ちで第9交響曲を作曲したのだろうか。2月12日に投稿した記事「宮沢賢治は理系と文系の垣根を越えていた」は、「賢治がせめて60代まで生きたなら、そしてモーツアルトが60歳まで生きていたなら、そして・・・・・・と思う。」なる文章で終わっている。ベートーベンは56歳まで生きたけれども、音楽家としての道半ばで聴力を失った。健全だった聴力の記憶をもとに、多くの傑作を遺したのだから、「ベートーベンが聴力を失わなかったならば・・・・・・」はないのだが、その耳が健全であってほしかったとつくづく思う。ベートーベン自身のために。


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自動演奏ピアノで聴いた生演奏 [音楽およびオーディオ]

数日前に、あるところで自動演奏ピアノの演奏を聴きました。用件の合間に聴いたので、ショパンのノクターンとシューマンのトロイメライしか聴けなかったのですが、意外なほどに好ましい演奏でした。ピアノのそばに近寄り、鍵盤とペダルの動く様子を見たのですが、ピアニストの演奏もかくやと思わせられる動き方でした。BGM用に使われていたそのピアノには、金色に輝くヤマハのマークがついていました。
                                                                                                                                                 
ヤマハのホームページによれば、私がみたピアノは「ディスクラビア エンスパイア」なる製品です。その製品を紹介する記事はこのように書き始められています。
                                                                                                                                                  
奏者がいないのにひとりでに鍵盤やペダルが動き、ピアノ音楽を奏でる自動演奏ピアノ。大勢の人が集まる場での生ピアノのBGMの提供や、また「ピアノは弾けないけれど、自宅でピアノの生演奏を楽しみたい」という人の要望に応えてきました。
                                                                                                                                                 
ヤマハの自動演奏機能付きピアノの歴史は1982年にスタート。個人練習に便利な消音機能を搭載したり、演奏を記録・再生する精度を上げたりしながら進化を遂げ、2016年12月20日に7年ぶりの新シリーズ「ディスクラビア エンスパイア」が登場しました。
                                                                                                                                                 
「ディスクラビア エンスパイア」の特長は、ピアノソロはもちろん、スピーカー+アンプ(またはアンプ内蔵型スピーカー)を組み合わせれば、コンチェルトやトリオなどの多彩な楽曲を楽しめること。
                                                   
自動演奏ピアノには、すでに100年以上の歴史があるようです。初期のものは風圧を利用したものらしいが、電気が使われるようになると電磁石を利用したものになった。現在の自動演奏ピアノも電磁石を利用しているわけですが、コンピューター制御によって、高度な演奏が可能になっているとのこと。
                                                                                                                                               
私がピアノ自動演奏装置のことを知ったのは、小学校6年生のときですから、今から70年あまりも昔のことです。戦前に発行された「子供の科学」で自動演奏ピアノを知った私は、4月7日に投稿した「木琴自動演奏装置を設計した少年時代の思い出」に書いたように、木琴自動演奏装置を作りたいと思い、幾つもの図面を書いたものです。それから70年あまりが経ってようやく、自動演奏ピアノの実物を眼にし、演奏を聴くことができました。昔の子供の科学で紹介されていた自動演奏ピアノは、電磁石を利用するもので、子供でも理解できるような単純なものでした。私が聴いた自動演奏ピアノは、コンピューター制御によって高度な演奏を聴かせてくれたのですが、昔と変わりなく、打鍵には電磁石を利用しています。夢中で取り組んだ自動木琴演奏装置のことを思い出しつつ、すばらしい生演奏に聴きいりました。
                                                   
よほどの実力がないかぎり、コンピュータ相手の将棋に勝つことは難しそうです。コンピューター制御による自動演奏ピアノが名演奏と認定されるような時代。自動演奏ピアノが奏でるBGMを聴いて、意外に早く、そんな時代が訪れるのではないか、という気がしました。


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スピーカーに重低音再生能力を求めたくなるとき [音楽およびオーディオ]

高齢になって15000ヘルツの音が聴こえなくなっても、聞こえる限界の高い周波数の音を想像することができる。同じように、周波数の低い音についても、低音の限界を想像することができる。
                                                   
重低音の出ないスピーカーで音楽を聴いていると、しばしば欲求不満を覚えることになる。音楽の流れの中で、ここは重低音が聴こえるべきだと感じられるところで、期待する音よりも高い周波数の音が聴こえる場合である。CDや音楽番組を聴いてそのような不満を覚えたとき、音質を調整して低音を強調しても、不本意な低音が強まるだけで、期待する低音は聴こえない。
                                                   
以前に使っていた3WAYのスピーカーは35ヘルツまで再生できることになっていた(測定したわけではないが、35ヘルツの音は出ていなかったような気がする)。自作した3Dスパイラルホーンスピーカー(竹中正明氏考案)は、10cmのユニットを使っておりながら、音質がよく、低音も3WAYスピーカーとさほどに変わらなかった。というわけで、大きな3WAYスピーカーは2階の部屋に置いたままになっている(自作スピーカーと音楽を聴く楽しみ 2015.9.15 参照)。
                                                   
昨年の秋、久しぶりにスピーカーを作ったところ、それまで使っていた3Dスパイラルホーンスピーカーよりも、低音再生能力が優れている(スピーカーの製作・・・・・・OM-OF101はすばらしい(2021.12.7 参照)。3WAYスピーカーで男のアナウンサーの声を聴くと、声がこもって聞こえたのだが、新しく作ったスピーカーにはそれがない(3Dスパイラルホーンスピーカーもこもらなかった)。音質も私の好みにかなっているので、それ以来、そのスピーカーを使うことになった。音質に対する不満が少ないせいか、以前よりも音楽を聴く時間が増えたように思う。
                                                   
私はスピーカーについてまったくの素人だが、これまでに幾つものスピーカーを作ってきた(自作スピーカーと音楽を聴く楽しみ 2015.9.15 参照)。80代の半ばにさしかかろうとしておりながら、新しいスピーカーを作りたくなっている。「音工房Z」の大山氏が図面を公表されている、ダブルバスレフに近い形式のスピーカーである。ファンネルダクトスピーカーに使っているユニットを転用するつもりだが、さて、どうなることやら。


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スピーカーの製作・・・・・・OM-OF101はすばらしい [音楽およびオーディオ]

CDやユーチューブで音楽を楽しむために使ってきたスピーカーは、茨城県の竹中正明氏が考案され、ネットで公開された3Dスパイラルホーンスピーカーである(「自作スピーカーと音楽を聴く楽しみ(2015.9.15)」参照)。自作したそのスピーカーにほぼ満足しているので、スピーカーの製作から遠ざかっていたのだが、久しぶりにチャレンジすることになった。
                                                                                
そのきっかけはネットで見かけた情報である。音楽之友社はこの数年、ムック本の付録にスピーカーユニットを付けているが、今年の付録はオンキョー製のOM-OF101である。オンキョーが新しく開発した特許製品であり、オンキョーとしての発売に先だって、音楽之友社の付録として発売するのだという。スピーカーを自作する人たちの間で好評を得ており、アマゾンのクチコミ評価でも高く評価されている。優秀なスピーカーを製作する工房として知られる音工房Zの大山氏も、そのユニットをかなり高く評価している。そのような記事を読んでいるうちに、OM-OF101なるユニットを使ってみたくなった。
  
前回の製作から7年ほど経って、まもなく84歳になる私だが、これまでに5種類ほど作った経験があるので、さほどに苦労することはないはず。というわけで、音楽之友社の「これならできる特選スピーカーユニット 2021年版 オンキヨー編」を買うことにした。アマゾンではすでに売り切れていたけれども(9月下旬)、楽天で購入することができた(その数日後、楽天でも売り切れになった)。
  
届いたオントモムックには、「匠筆者が製作したOM-OF101用エンクロージャー」として、4種のエンクロージャーが載っている。私はDB30と名付けられたものを作ることにした。低域の再生に勝れるダブルバスレフ方式である。
  
板材には保管しておいたMDF材の端材を使ったので、ユニット購入代にスピーカー用端子や塗料などを含めても、かかった費用は8000円あまりである。(ネットで調べてみたら、ダイソーなどの百均で買ったMDF材を使い、OM-OF101用のエンクロージャーを作った人がいる)
  
鳴らし始めてしばらくは、さほどに良い音質とは思えなかったが、これまでに作ったスピーカー同様、エージングが進むにつれて良くなってきた。これまで使ってきた3Dスパイラルホーンスピーカー(H-L102型)も、小型ユニットにも拘わらず豊かな低音を聴かせてくれるが、OM-OF101を使ったDB30の方がより低い周波数まで再生可能である。音質チェック用のCDで試してみると、50ヘルツまでは充分に聞える。とはいえ、いわゆるハイ上がりの特性らしく、バイオリンの高音部がうるさく、人の声もサ行が耳に刺さってくる。
  
ひと月ほど使い続けるうちに、ハイ上がりは気になるものの、低音再生の魅力に惹かれ、3Dスパイラルホーンスピーカーに戻れなくなった。ハイ上がり特性とはいえ、音質はとても勝れている。というわけで、ハイ上がりを修正することにした。スピーカーとアンプの間に、コイルと抵抗(コイルと並列に接続)を挿入すればよい。(PST回路・・・・・・ネットに多くの情報あり)
  
近くに中西電機工業のショールームがあり、電子部品を売ってくれるので、10オームと15オームの抵抗部品を数個づつ買ってきた。コイルには、中古の0.47mHのものを使うことにした(ずいぶん以前に使っていたパイオニアの3ウェイスピーカーを処分したとき、ネットワークの部品は残しておいた。スコーカーには音質に勝れるという空芯コイルが使われていたので、今回はそのコイルを使うことにした)
  
コイルと並列に接続する抵抗値を変えては試聴した結果、7.5オーム(15オームの抵抗を2個並列)で満足できる結果になった。心地よく聴けるので、試聴のつもりでかけたCDを聴き続けただけでなく、ユーチューブの音楽も聴き続けることになった。3Dスパイラルホーンスピーカーにサブウーファーを加えて、鼓童(太鼓演奏集団)などの太鼓演奏を聴いたこともあったが、OM-OF101を使ったDB30は、サブウーファーなしでも充分に、太鼓の迫力を楽しむことができる。AVアンプを使ってサイドやリアのスピーカーも鳴らすと、太鼓演奏やイーグルスなどをさらに楽しめる。
  
好んで聴くCDにモーツアルトのピアノ協奏曲があるのだが、パソコンに向かってこの記事を書いている今は、音量を下げたショパンのピアノ協奏曲第2番が聞えている。「音楽の友」がすばらしい付録をつけてくれたおかげで、心地よいBGMを耳にしながら、こうしてパソコンに向かうことができる。
  
スピーカーの自作はさほどに難しいものではないが、手を出しにくい人も多いと思われる。今では幾つもの会社(音工房Z、コイズミ無線、共立エレショップなど)がエンクロージャーの組み立てキットを売り出しているから、その気になりさえすれば、苦労しないで自作できるはずである。音楽之友社がOM-OF101を再販売するかもしれないとの情報もあるが、調べてみたら、ヤフーオークションに出品されている。OM-OF101の他にも、勝れたスピーカーユニットは多々あるのだが、価格の割に勝れている点で、OM-OF101は貴重なユニットだと思う。
                                                   
付記
鼓童などの太鼓演奏を聴くにはサラウンドが好ましいのだが、AVアンプと4個以上のスピーカーを必要とする。私はヤマハのAVアンプと幾つもの自作スピーカーを使っているが、もっと簡単にサラウンドを楽しめる可能性がある。数千円の中国製のデジタルアンプと、やはり数千円のスピーカーを購入し、テレビと併用するならば、太鼓演奏やエレキバンドなどをサラウンドで聴くことができそうである。


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フジ子・ヘミング・・・・・・88歳の現役ピアニスト [音楽およびオーディオ]

フジ子・ヘミングは奇蹟のピアニストと呼ばれる。88歳でありながら、活発な演奏活動をしていることも、「奇蹟・・・・・・」と呼ばれる理由のひとつであろう。
  
昨年12月には、「よこすか芸術劇場」での演奏会で、モーツアルトのピアノ協奏曲21番とリストのラ・カンパネラを演奏している。私はユーチューブでその演奏を聴いた。演奏される楽曲に耳を傾けながら、88歳という高齢者が演奏しているそれに驚嘆した。
  
その演奏は年齢を思わせないが、フジ子・ヘミングは演奏後に語っている。「コロナ禍の中を聴きにきてくださった方々に感謝しております。私は老いぼれで、第2次世界大戦ではコロナ禍よりもひどい体験をしたから、それと比べるならコロナ禍はたいしたことはないと思えるのだが、皆さんはしっかりマスクをして、感染しないよう気をつけてください」
  
奇蹟のピアニストとして復活し、90歳に近づきながらも活躍しているフジ子・ヘミング。重なる不運を乗り越え、高齢に至って花を咲かせたこのピアニストには、さらなる奇蹟を見せてほしいものである。

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辻井伸行のピアノ演奏 [音楽およびオーディオ]

テレビを買い換えてから(付記1参照)、ユーチューブで音楽を聴くようになりました。


辻井伸行が演奏するピアノ協奏曲を聴いたら、別の演奏も聴きたくなって、2時間ほどをテレビの前で過ごすことになりました。最初のうちはサウンドバーで聴いていたのですが、途中からはAVアンプを介して、自作の3Dスパイラルホーンスピーカー(付記2参照)で聴きました。


天賦の才と驚異的な努力が奇蹟のピアニストを生み出し、その演奏を聴く者にそれを聴く悦びをもたらした。まだ若い辻井伸行さんは、これから先の長きにわたり、その演奏を聴く者に、聴く悦びを与え続けることになります。テレビを観ながら願いました、視る能力を与えられることのなかった辻井伸行さんが、悦び多い人生を歩まれるようにと。


付記1 大型テレビの魅力(2021.3.3)



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パソコンスピーカーとネットラジオに感謝 [音楽およびオーディオ]

先日の記事「ネットラジオをBGMにして書くブログの記事」の続きです。


ネットラジオを初めて聴いたとき、その音楽を聴きながらネットサーフィンを始めようとしたところ、聴き続けたかったその音楽は消えました。ネットラジオをBGMにしながらネットサーフィンをするには、ウェブブラウザーを別のものにしなければなりません。


インターネットラジオと両立させるためには、Internet Explorer以外のブラウザーを導入すればよいのですが、自分でやるのがおっくうになり、息子にやってもらいました。 普段は自分の年齢を意識しない私ですが、パソコンの設定に関わる作業がおっくうになっているのは、やはり歳のせいでしょう。自分でやるしかない場合には、相当にやっかいな作業であろうと取り組めるのですが、手伝ってもらえそうな場合には助力を頼みたくなります。


というわけで、新たにFirefoxなるブラウザーを導入し、ネットラジオはFirefoxで利用しております。いま調べてみたところ、2016年2月29日に「Radio Mozartを聴きながら」なる記事を投稿していますから、Firefoxをインストールしてからすでに2年以上が経っています。過去に投稿したその記事の日付を見るまで、ネットラジオを聴きはじめたのは1年くらい以前だったような気がしていました。経過した時間の長さを短く感じるようになったことも、パソコンの設定に関わる作業を繁雑に思うようになったことと同様に、年齢のせいかも知れません。普段は年齢を意識していないとはいえ、能力は80歳という年齢なりになっているということでしょう。


ここまで書いたら過去に投稿した記事「アメリカは150年前まで奴隷制の国だった」を思いだしました。調べて見ると、2017年11月14日に投稿したもので、つぎのように書き出されています。




    子供の頃に遊び慣れていた場所を数十年ぶりに訪れると、道幅の狭さなどに驚かされることがある。幼かった頃に見慣れていた事物を、身長が2倍になってから見たなら、相対的に二分の一に感じるのかもしれない。
  それでは時間についてはどうであろうか。10歳の子供にとっての一年は、20歳の大人の二年分に感じられるのだろうか。正比例とまでは言えないにしろ、そのような傾向はありそうである。記憶に遺る小学生時代の長さは、成人後の6年間よりたしかに長い。
  今では百歳を超えて生きる人も珍しくはないが、その人から見れば、二百年前は自分の生きた長さの二倍にしか過ぎない。坂本龍馬が活躍した幕末は、100歳の人が生まれる50年前のことだから、さほどに昔のこととは思えないだろう。それどころか、400年前の関ヶ原の戦いも、自らが生きた年数の4倍ほど昔のことに過ぎない。高齢者にはそれが実感と言えるわけだが、若い人の場合はどうであろうか。まだ若くはあっても、上記のことに思い及べば、遠い過去がずいぶん近づいて来るだろう。・・・・・・


ネットラジオに親しんできた2年あまりが、今の私には1年ほどの長さに感じられるわけですが、「80歳だからそんなものだろう」と思うだけです。


思いつくままに書き進めたら、インターネットラジオとは関わりの無い記事になっていました。せっかく書いた記事だから、タイトルを変えてこのまま投稿することにします。


BGMにしているPeaceful Currents Radioが、いつものように素晴らしい音楽を提供しています。使っているのは安価なパソコン用スピーカーですが、BGMとしての音楽を不満なく聴くことができます。このような製品を開発した技術者たちに感謝しつつ、このスピーカーを愛用してゆくとしましょう。

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ネットラジオをBGMにして書くブログの記事 [音楽およびオーディオ]

この記事を書きながら聴いているBGMは、ネットラジオの Peaceful Currents Radio です。初めて聴くギターとオーケストラによる曲が、実に心地よく聞こえます。


ブログの記事を書く際のBGMとして、これまでは Calm Radio でモーツアルトやピアノのソロ曲などを流していたのですが、最近はネットラジオの Peaceful Currents Radio も利用しています。ネットラジオをBGMにしてからは、CDからパソコンに取り込んである楽曲のことを忘れておりました。というわけで、ブログのタイトルを「喜多郎をBGMにブログを書こう」としておりながら、喜多郎がBGMになることはありません。


ネットラジオの好ましいところは、聴きたい音楽の分野を選ぶと、その分野の様々な曲を聴けることです。ここまで書いてきたところで、 Peaceful Currents Radio から Calm Radio の Classical Piano に切り替えてみたら、先ほどまでとは異質なピアノ曲が、実に心地よく流れ出してきました。きょうはこのままピアノの音色を耳にしながら、記事を書き進めるとしましょう。 


CDの場合は好きな曲を繰り返し聴くことが多いのですが、ネットラジオの場合には、送られてくる音楽を、聴くともなしに聴くことになります。Calm Radio でモーツアルトを選んだ場合には、聴き慣れた曲目が幾つも流れだしてきますが、Calm Radio - Baroque を選んだり、Peaceful Currents Radio を選ぶと、ほとんどが初めて聴く曲になります。私のBGMにはそのほうが好ましく感じられます。


先ほどから聞こえているピアノの曲は、曲名も作曲者もわかりませんが、その調べをBGMに気分良くここまで書いてきました。


BGMから喜多郎が消えるとなれば、ブログのタイトルも替えた方が良いのでは?、という気がしてきました。さて、どうしたものやら。

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高齢者と音楽を聴く楽しみ [音楽およびオーディオ]

音楽を好む私は、クラシックから演歌まで様々なものを聴きます。このブログのタイトルを「喜多郎をBGMにブログを書こう」としたように、喜多郎が作曲演奏する楽曲も好んで聴いています。


喜多郎の曲には高い周波数の音がしばしば現れます。そのようなシンセサイザー曲を聴きながら思った、私はその楽曲を、喜多郎が意図した通りに聴いているのだろうか。高齢になるにつれて周波数の高い音に対する感度が低下するとのこと。極めて高い音域の音が聴えているような気がしていても、もしかすると、喜多郎の音楽にはさらに高い周波数の音が含まれているのかもしれない。


というわけで、自分の耳がどの程度の周波数まで聞き分けられるのか、調べてみることにしました。インターネットで検索してみたら、利用できそうなサイトが幾つも見つかりました。早速そのひとつを使って調べてみると、11000ヘルツまで聴くことができます。12000ヘルツであっても、耳を塞いだ場合とそうでない場合に明らかな差が認められるが、音というより「耳を刺激する何か」といった感じですから、聞こえているとは言えないでしょう。念のために、他のサイトを利用してみましたが、ほぼ同じような結果になりました。


12000ヘルツが聴こえないので、私の耳も老化していることになります。80歳にしてはかなり良い耳と言えそうですが、20000ヘルツ程度まで聴けるとされる若い頃と今を比べるならば、あきらかに衰えていることになります。そうであろうと自覚的には、音楽を聴くうえで何らの支障もありません。初めて喜多郎を聴いたカセットテープ(まだCDがなかった頃に購入したもの)を今になって再生してみると、若かった頃に聴いたときと変わらない感覚で聴くことができます(カセットテープゆえ、特に高い周波数の音は入っていないと思われますが)。


クラシック音楽のテレビ番組では、しばしば客席の様子が映し出されます。演奏会場が日本であろうと外国であろうと、あきらかに高齢と思われる聴衆が多いのですが、その高齢者たちもしっかり演奏を楽しんでいるようです。どうやら、高音域の感度が低下していても、音楽を楽しむ上では支障がなさそうです。とはいえ、高音域の感度がある程度以上に低下したなら、その楽しみも低下するでしょう。たとえ若くても、ヘッドフォンを多用すると、大きな音の影響で高音域の感度が低下して、元に戻らなくなるという。耳の老化を促進する因子として、大きな音を聴き続けること以外にも、タバコや動脈硬化などがあげられています。私の耳が比較的に良いのは、それらの因子と関わりがないからかも知れません。これから先も音楽を楽しめるよう、耳を労ってゆくとしましょう。
                       
これを書いている今、パソコンにつないだ比較的に音質の良いスピーカーから、オーケストラとギターによる心地よい曲が流れています。ネットラジオの局名も演奏されている曲名も不明です。これを書き終えてから、局の名前を登録するこにしましょう。オーディオ装置を使わなくても、パソコンでそれなりの音楽をBGMにできるのだから、ありがたい世の中ではあります。

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Calm Radioから流れ出した「ゴンドラの唄」 [音楽およびオーディオ]

このブログのタイトルは「喜多郎をBGMにブログを書こう」ですが、パソコンに向かう私の耳を喜ばせるのは、主にCalm Radioの音楽になりました。Calm Radio 内の様々なカテゴリーのうちで、もっとも聴くのは「Solo Piano」であり、モーツアルトやショパンなどを選ぶこともあります。この文章を書いている今も、心地よいピアノの曲が流れています。

ブログの原稿を書こうとしてパソコンに向かった昨日のことです。Calm Radioの「Solo Piano」を選ぶと、聴いたことのあるメロディーが流れ出てきました。日本人にはよく知られている「ゴンドラの唄」です。中山晋平作曲になる歌曲のメロディが、ピアノのソロ曲にアレンジされ、魅惑的な調べになっていました。

wikipediaで「ゴンドラの唄」を調べてみると、1915年(大正4年)に発表された歌謡曲であって、吉井勇作詞で中山晋平の作曲になるものとあります。芸術座公演になる演劇の劇中で松井須磨子によって歌われ、大正時代に流行したということです。「いのち短し 恋せよ少女 朱きくちびる褪せぬ間に」と唄いだされるその歌は、昭和になっても唄い続けられ、私にもなじみのある歌になっております。もしかすると、今の若い人の中にも、この歌を知る人があるのではと思います。とはいえ、「ゴンドラの唄」が流行したのは100年前の日本であり、「上を向いて歩こう」のように海外で知られることはなかったと思えるのですが、意外なことに、Calm Radioからそのメロディが流れ出ました。100年前に流行した歌でありながら、今の日本でも唄える人がいるのだから、それだけの魅力を秘めた歌だということでしょう。誰かによって編曲されたそのピアノ曲が、何かの縁によってCalmRadioで世界に流されたことになります。

誰によって編曲され、誰によって演奏されたのかわかりませんが(Calm Radioのサイトを表示すれば、曲目と演奏者がわかったはずですが、パソコン作業をしているうちに、次の曲に移ってしまいました。)、ピアノ曲としての「ゴンドラの唄」が、私の耳には実に心地よく聞こえました。作曲家と編曲者そして演奏者、さらには、それを選曲してくれた Calm Radio の担当者に敬意をいだきます。


スピーカーケーブルによって音質が変わる?……オーディオの科学と迷信 [音楽およびオーディオ]

スピーカーケーブルはアンプとスピーカーをつなぐ電線でありながら、1mあたり10万円を超える製品がある。電気に関わる技術者の私には、ごく普通のビニール線で間に合いそうに思えるのだが、高額なスピーカーケーブルを購入する人がいて、あちこちのサイトに 「ケーブルを替えたら明らかに音が良くなった」 などと感想を記している

ケーブルによって音が変わることはないと結論づける記事もあるはずだと思い、ネットを検索してみたところ、「オーディオの科学」なる面白いサイトがあった。
元京都大学工学部教授志賀正幸氏は、クラシック音楽の愛好家であって、バッハ音楽祭に参加するために、ドイツのライプツィヒまで出かけるような人だが(同氏のホームページに詳細な体験記が記されている)、そのホームページには、「オーディオの科学」なる興味深いページがある。

「オーディオの科学」には、オーディオに関する理論や技術に加えて、関連する様々な情報が盛り込まれている。その中にはスピーカーケーブルに関する記述があり、「物理的にはスピーカーケーブルで音が変わることはなく、カネをかけるのは無駄である」と記されている。

さらに検索してみたところ、「モンスターケーブル対針金ハンガー対決」なる記事(注1)が見つかった。アメリカで行われたブラインドテストの結果を報じたものである。それによると、80万円もの高額ケーブルと、衣服をかけるための針金ハンガーで作った代用ケーブルを、交互に使ってブラインドテストをしたところ、音質の差がわからなかったという。針金ハンガーは鉄かステンレスで作られているから、スピーカーケーブルとして使った場合、通常のビニール線とは比較にならないほどに劣るはずだが、超高額ケーブルとの差がわからなかったとのこと。どうやらやはり、高価なケーブルを使う必要はない、と結論づけても良さそうである。にもかかわらず、ケーブルによって音が変わるとする情報が広く行き渡っており、高額なケーブルが販売され続けている。

ネットの世界を覗いてみたら、スピーカーケーブルによって音が変わるかどうかを論じるサイトが幾つもあった。音が変わるとする人たちの中には、執拗なほどにそれを主張するのみならず、音は変わらないと主張する人を非難したり貶めたりする人がある。ブラインドテストによって確認すれば決着がつきそうなものだが、「音が変わる」と主張する人たちには、ブラインドテストにチャレンジしようという気はなさそうである。

高級ケーブルの販売業者が製品に対して自信があるのであれば、希望する者には試用品を貸し出すべきであろう。試用によって真に価値があるとわかれば、売れ行きが伸びる可能性があるゆえ、貸し出し方式は販売業者にとっても利点があるはずである。にもかかわらず貸し出しを渋るのであれば、その製品には価格に見合うだけの価値がないということであろう。もしかすると、ほとんどの業者は試用品の貸し出しを拒むかも知れないのだが。

運良く借りることができたなら、家族や友人たちに協力してもらい、ブラインドテスト方式で試聴すべきである。2015年11月21日の投稿記事「高級ブランド製品のブランド名を隠したとき……ある実験の興味ある結果」(注2)にも書いたが、音楽の友社主宰のブラインドテストにおいて、300万円のアンプが9800円のデジタルアンプより低く評価された事実がある。ブラインドテストでなかったならば、300万円のアンプは高い評価を受けたに違いない。

2016年12月31日に投稿した記事「評論家の言葉・・・・・・映画評とドラマ評そしてオーディオ機器の評価」は、次のような文章で終わっている。
「雑誌に掲載されるオーディオ機器の評論記事が、ブラインド試聴に基づいて行われるなら、記事に対する信頼度は高まり、ユーザーにとっては好ましいものとなる。そうであろうと、評論家やメーカーにとってはリスクを伴ううえに、費用と時間もかかるから、そのような方法が採用される見込みはなさそうである。結局のところは、オーディオにしろ映画にしろ、評論家の耳や感性を頼りにするのは程々にしたほうがよい、ということであろう。」

このブログに幾度も書いてきたように、私は自作のスピーカーを使って音楽を聴いている(注3)。オーディオマニアに言わせれば、私の耳が駄耳ゆえということになるのかも知れないのだが、私はその音質に満足しつつ音楽を聴いている。安価な自分のシステムで満足しているのは、むろんその音質を受け入れているからだが、これまで試聴してきた高級オーディオの音が、私の耳にはさほどに良いものに聞こえなかったことも、その理由のひとつである。(本ブログの「音楽およびオーディオ」のカテゴリーをクリックすれば関連する記事が表示される)

(注1) 「モンスターケーブル対針金ハンガー対決」
グーグルで検索すれば見ることができる。オーディオの世界における有名なできごとのひとつとされているようである。

(注2) 2015年11月21日の記事「高級ブランド製品のブランド名を隠したとき……ある実験の興味ある結果」の概要

著名バイオリニストのジョシュア・ベルがストリートミュージシャンに扮して演奏したところ、コンサートのプログラムと同じ曲目を演奏しても、通行人からは無視された。オーディオアンプのブラインドテストをしたところ、300万円の高級製品が1万円以下のアンプに負ける結果になった。

ジョシュア・ベルの実験はユーチューブで見ることができ、アンプに関するブラインドテストについては、その結果をネットで検索して見ることができる。

(注3) スピーカーの自作
自作スピーカー と入力して検索すれば、実に多くの情報が得られる。「3Dスパイラルホーンスピーカー」「JSP方式スピーカー」「絨毯スピーカー」「塩ビ管スピーカー」「ファンネルダクトスピーカー」等々、興味深いスピーカーについて知ることができる。私はここにあげたスピーカーをいずれも自作しており、気に入ったものをAVアンプに接続して使っている。


評論家の言葉・・・・・・映画評とドラマ評そしてオーディオ機器の評価 [音楽およびオーディオ]

新聞にはテレビ番組の評価欄がある。その文章に惹かれて番組を見たとき、見て良かったと思える場合もあれば時間を無駄にしたと思える場合もある。映画館で映画を観るのはせいぜい年に1回ほどだが、観ようと思うきっかけは、新聞などに掲載された映画評である。当然ながらテレビの場合同様に、満足できる場合もあれば不満を覚える場合もある。評論家にも個人的な好みや価値観があるわけだから、その評論にはそれが反映している可能性があるし、それを読んだ私にも、自分の好みに合わせるような形でそれを読み、受け止めている可能性がある。そうであるなら、映画に不満を覚えても映画評に不満を述べる資格はないことになる。

オーディオに関わる雑誌には必ずと言ってよいほど、スピーカーやアンプなどを評価する記事が載っている。数百万円のスピーカーやアンプなど、よほどのマニアであって余裕のあるひとしか手を出さないだろうと思える機種が、当然のごとく高い評価を受けていたりする。そのような高額製品の音を聴いてみようと思い、オーディオ店を訪れて聴いてみたことがある。これまで幾度か試聴しているのだが、私には感動するほどの音には聞こえなかった(注)。設置場所や設定の条件が適切ではなかった可能性があるし、私が高級機にふさわしい耳の所有者ではない可能性も充分に有り得る。私はその機器が高額製品と知って試聴したのだが、その製品のブランドを隠して誰かに試聴させたなら、どんな結果になっただろうか。もしかすると、私と同様に、感動するほどの音質とは思わないひとも、少なからずいるような気がする。

かつて行われたアンプのブラインドテスト(音楽之友社主宰)で、300万円のアンプが1万円以下の機種より低評価となったことがある(「ブラインドテスト 音楽之友社」で検索すればテストの詳細を知ることができる)。評者は高級オーディオの愛好者たちであり、いわゆる耳の肥えたひとたちだったようである。テストの条件が変われば(会場の音響効果や使用するスピーカーなど)異なる判定結果になったかも知れないのだが、いずれにしても、そのブラインドテストで低い評価を受けた300万円のアンプは、オーディオ雑誌などでは高い評価を受けていたに違いない。記事を書いたオーディオ評論家の耳は、その音をどのようなものとして聴いていたのだろうか。

雑誌に掲載されるオーディオ機器の評論記事が、ブラインド試聴に基づいて行われるなら、記事に対する信頼度は高まり、ユーザーにとっては好ましいものとなる。そうであろうと、評論家やメーカーにとってはリスクをともなううえに、費用と時間もかかるから、そのような方法が採用される見込みはなさそうである。結局のところは、オーディオにしろ映画にしろ、評論家の耳や感性を頼りにするのは程々にしたほうがよい、ということであろう。

(注)オーディオ店でのスピーカーの試聴 

2015年9月15日の記事「自作スピーカーと音楽を聴く楽しみ」には、高級スピーカーを試聴してもさほどの音質とは思えなかったこと、スピーカーを買い換える代わりにスピーカーの自作にチャレンジしたこと、そしてその結果が記されている。


 


Calm Radio を聴きながら [音楽およびオーディオ]

今この記事を書きながら聴いているのは、曲名を知らないBaroque音楽です。ブログの名称は「喜多郎をBGMにブログを書こう」となっていますが、好んで聴くのはむろん喜多郎にかぎらず、様々なジャンルの音楽を聴いております。
昨年10月8日の「モーツァルトのながら聴き」には、次のような文章が綴られています。「クラシックにかぎらず、ジャズにフォークソングにイージーリスニング系など、心地良く聴くことが出来さえすれば、私の耳が拒絶することはありません。インドネシャ音楽のガムランも案外にいけると思っていますし、これを書きながら聴いているBGMは、パソコンスピーカーから流れるギター曲です。」

パソコンに向かうときに聴くのは、CDから取り込んだものよりも、ネットラジオの曲を聴くことが多くなりました。そのBGMは、パソコンにUSBケーブルで接続された安価なスピーカーから聞こえます。価格のわりには意外なほどに音質が良く、実にありがたいスピーカーです。ありがたい世の中になったと言うべきでしょうか。あるいは、このようなスピーカーに不満を覚えない、私の耳に感謝すべきかもしれません。先ほど書いたように、いま流れているのはBaroque音楽で、初めて聴く曲ですが、私にはとても心地良いBGMです。インターネットラジオをBGMにすると、このようにして、聴いたことのない曲を、聞くともなしに聴くことができます。

カナダのトロントを本拠としているらしい Calm Radioは、実に幅広いジャンルの音楽を扱っています。クラシックでは Calm Radio-Chopinのように、作曲家ごとに選ぶことができますし、曲目のジャンル別に選ぶこともできます。Baroque音楽の前には、Calm Radio-Solo piano&Guitar で ギター音楽を聴いていました。

Radio Mozart の場合同様に、この局にもありがとうと伝えたい。そんな気持ちになります。

Radio Mozartを聴きながら [音楽およびオーディオ]

このブログは「喜多郎をBGMにブログを書こう」ですが、この記事を書きながら聴いているのは、インターネットラジオの「Radio Mozart」です。私の前で音楽を奏でているスピーカーは、パソコンにUSBケーブルで接続されたものです。そんなスピーカーとはいえ、実に心地良い音が聞こえています。昨年9月15日の記事「自作スピーカーと音楽を聴く楽しみ」や、昨年10月8日の記事「モーツァルトのながら聴き」に書いたように、安価ながらも音質の良いオーディオ機器がありますから、パソコンに向かうときのBGM用として、少しの不満もなく使うことができます。

「Radio Mozart」は日がな一日モーツアルトの曲を聴かせてくれる、実にありがたいネットラジオです。曲名がアナウンスされることなく、聴き慣れた曲やこれまで聴いたことのない曲が、次からつぎへと聞こえてきます。私にとってはこれに勝るBGMはありません。

いま聞こえているのは、どうやら歌劇のなかのアリアのようです。これまで興味を覚えなかったジャンルですが、これもまた、BGMとして心地良く聴くことができます。ありがとうラジオモーツアルトと言いたいところですが、この発信元はどこにあるのでしょうか。

いま検索してみたところ、どうやらフランスのマルセーユにあるようです。くわしいことはわかりませんが、その発信元に感謝しつつ、これからも聴き続けようと思います。


浅田真央や羽生結弦もミスをすることがある……ピアニストのミスタッチも大目に見よう [音楽およびオーディオ]

   ピアニストとして活躍している日本人に、若い辻井伸行や高齢のフジ子・ヘミングがいる。
このふたりに共通しているのは、デビューに至るまでの経緯があるにせよ、多くのファンがいることである。             
  そのようなフジ子・ヘミングだが、ネットの世界ではミスタッチが多いと執拗に指摘されている。演奏家のそのようなミスを責める人たちは、どんな気持ちで音楽を聴いているのだろうか。私はフジ子・ヘミングに好意的とはいえファンではないが、その演奏に対して不満はない。意識を集中して聴いていないためなのか、耳が良くないためなのか、ミスタッチのことなど全く気にしないで、ショパンの曲やチャイコフスキーの協奏曲などを聴くことができる。チャイコフスキーのピアノ協奏曲はライブ録音だから、録音に際して録り直しはしていないはずである。
   フジ子・ヘミングへの不満を記した中に、「ラ・カンパネラのテンポが遅くて聴くに耐えないのは、フジ子・ヘミングには速く弾く能力がないからだ」なる文章があった。私には納得できない文章である。指揮者によって交響曲などの演奏時間に差があるように、リストが作成した楽譜にどんな速度が指示されていようが、演奏者の解釈には幅があってもよいはずではないか。演奏者ごとに解釈の相違があってこそ、聴く者には楽しみが増すのではないか。私はフジ子・ヘミングのラ・カンパネラを聴いて、もっと速く弾いてほしいと思ったことはない。
   辻井伸行に対しても、たくさんの賞賛の言葉がある一方で、批判的な言葉が幾つもある。そのような言葉を読んで、私はフジ子・ヘミングの場合同様に違和感を覚えた。その演奏が気に入らないというのであれば、それ以降は聴かなければよいだけのことである。演奏家の欠点をあげつらうことは、その演奏を好むひとの感性を否定し、貶めることでもある。ネットの世界でそのような言葉を公表することに、どんな意義と目的があるのだろうか。
数十年も昔のことだが、ある作曲家がテレビの番組で、「歌謡曲を音楽と呼ぶのはおこがましい」といった主旨の発言をした。音楽に深く携わるひとたちには、私のような素人とは異なる感性の持ち主もあろうが、私はその言葉に違和感を覚えた。様々な音楽を聴く私には、演歌の中にも気に入ったものがある。演歌もジャズもクラシックも、さらには、シンセサイザー曲やタンゴや映画音楽も、私にとっては音楽である。音楽に対する感性はひとそれぞれであり、演奏家に対する好みもひとそれぞれのはずである。

  天才的な演奏家やスポーツ選手であろうと、ときにはミスをおかすであろう。フィギュアスケートの浅田真央や羽生弓弦ですら、ジャンプで幾度も転倒することがある。そのようなミスをしたときであっても、彼らは見ている者に感動をもたらす。音楽の演奏においても同様に、ささやかなミスに気をとられることなく、その楽曲に耳を傾ければよいのだ、と私は思う。コンサートの聴衆は審査員ではないのだから、おおらかな気持ちで聴けばよいではないか。聴衆とともに演奏家自身が楽しめるような雰囲気があってこそ、理想的な演奏会になると思うのだが。
 
フジ子・ヘミングに関わる記事が眼についたので、興味を抱いて読んでみたところ、演奏技術に稚拙なところがあると記されていた。それではというわけで、フジ子・ヘミングや辻井伸行のネット世界での評判を調べてみると、私には不思議に思える記事がたくさんあった。そのことが今日の記事を書かせるに至った。



合唱団で歌ったハレルヤコーラス [音楽およびオーディオ]

  友人から届いたメールによれば、BS日テレには「こころの歌」なる番組があり、フォレスタという合唱集団が出演しているとのこと。テレビの歌番組を見ない私には、まったくなじみのない名前です。
  ユーチューブで検索してみたところ、フォレスタに関わるたくさんの動画があったので、聴き慣れている歌の幾つかを聴いてみました。
  洗煉されたその歌唱には、たしかに人を惹きつけるものがあります。この場合の「人」はおもに中年以上の年代と言えますが、このグループには若いファンもいることでしょう。
  合唱の魅力に惹きつけられるひとは多いようです。年末が近づいてきますと、各地でベートーベンの第九が演奏されますが、かなりの一般人がその合唱に加わっていると聞きます。

  今の私を知る知人たちには意外でしょうが、私はかつて合唱団に入ったことがあります。とはいえ、臨時に編成された高校の合唱団でした。
  高校1年の秋か初冬の頃でした。音楽の時間が終わると、担当の蔵清蔵先生(注1)から「松江で開かれる高校生の音楽会(注2)でハレルヤコーラスをやりたいので、希望する者があれば参加してほしい」と聞かされました。好奇心の強い私はその言葉に惹かれ、隣席の友人に呼びかけて一緒に参加することにしました。
  それからの数週間(一週間あまりだったかも知れません)、放課後の音楽教室で、混声4部合唱の練習に加わりました。男の団員が20人ほどだったのに対して、女の方は2倍以上の人数でした。(注3)
  蔵先生に代わって上級生の米山道雄さんが指導されることがあり、意外な感じを受けましたが、しっかりした指揮ぶりに違和感は覚えませんでした。初めて体験する合唱で、私はバスの声部を歌うことになりました。中学校の授業で教えられたので、楽譜を読むことはできましたが、それにまして役立ったのは、いうまでもなく練習に際して受ける指導でした。
  松江市公会堂での催しには、島根県内の幾つかの高校が参加していましたが、それがどんな名称で行われていたのか、私にはまったく記憶がありません。記憶に残っているのは、指揮をとられた蔵先生の表情と自分たちのハーモニー、客席にもどって聴いた幾つかの歌声、そして、友人と交わした言葉だけです。私は前から3列目で歌いましたが、その他大勢の合唱団の一員ということもあり、少しもあがることなく、ひたすら指揮者を見ながら歌いました。
  同じような状況で、それ以降にも「天地創造」と「カルメンの闘牛士の行進」を歌っていますが、それがいつだったのか思い出せません。ハレルヤコーラスを歌った次の年だったのでしょうか。ささいなことを記憶しておりながら、それより重要と思われることを思い出せないのだから、記憶とはほんとうに不思議なものです。これを書きながら思いました。日記をつけていたなら、それを読み返すことで詳細な記憶が蘇るだろうに。
 高校を卒業してからは音楽に関わることなく、聴いて楽しむだけで今に至っています。私は技術者としての人生を過ごしてきましたが、合唱の練習を指導された米山さんは音楽の道を歩まれ(注4)、今も現役でご活躍とのこと。蔵先生は米山さんの才能を認めて練習を任されたわけですが、島根大学学術情報リポジトリなるサイトに、蔵先生のピアノに関する三つの論文が掲載されていることがわかりました。温厚なクリスチャンだった蔵先生は、天国でピアノを奏でておいでかも知れません。
   
   今日のブログは友人からのメールで知った、話題の合唱集団フォレストについて書くつもりでした。ところが、「第九」の合唱について記すと昔のことが思い出され、自分の思い出話を記す結果になりました。ブログを書いていると、このような文章を記すこともある。そんな想いを抱きつつ、今日のブログを終えるとします。 

(注1)蔵清蔵
昭和28年当時の出雲高校で音楽を担当。最初の授業が始まる前に、先生は黒板に自分の名前を書いて、「上から読んでも下から読んでも蔵清蔵です」と自己紹介された。ある日の授業で先生はピアノを弾いてくださった。私が初めて聴くことになった「エリーゼのために」を、ピアノ音楽も良いものだなと思いつつ,弾き終わられるまで耳を傾けた。

(注2)昭和28年の秋に行われたはずだが、音楽会の名称は思い出せない。

(注3)あいまいな記憶にもとづく推定

(注4)この文章を記すに際してネットで調べたところ、米山道雄さんは作曲家になり、島根県の音楽教育に貢献されただけでなく、出雲芸術アカデミーの学長として、今なお現役で活躍しておられるとのこと。

高級ブランド製品のブランド名を隠したとき……ある実験の興味ある結果 [音楽およびオーディオ]

    あるブログに面白いことが書かれていた。著名なバイリニストであるジョシュア・ベルに関わる記事である。その記事を確かめようと思い、ウィキペディアでジョシュア・ベルの項を見ると、次のような記事があった。

Wikipediaのジョシュア・ベルの項より引用
〈ワシントン・ポスト紙の実験〉ワシントン・ポスト紙のコラムニスト、ジーン・ワインガーテン(英語版)の発案で、2007年1月12日の朝のラッシュ時、ベルは野球帽を被り、地下鉄ワシントンメトロのランファン駅にて、ストリートミュージシャンに扮する実験を行った。曲目は前日のコンサートと同じものであり、それもメジャーなものだった。その様子を隠しカメラで撮影したところ、実験の約45分間でこの横を1,097人が通過したものの、金を置いて行った客は28人、ちゃんと立ち止まって演奏を聞いたのは7人、この人物がベルだと気付いたのはたった1人だった。そして、ベルが客から得た金は、ベルだと気付いた一人から得た20ドルを除けば、わずか32.17ドルだった。
これは、たとえ近くで名演が行われていても、注意深く観察しなければ多くの人がそれに気付かないことを示した実験報告だとして、ヴェインガーテンは2008年のピューリッツァー賞を受賞している。また、ワシントン・ポストはこのビデオをYouTubeに投稿している。(引用おわり)

  
YouTubeのその動画を見れば、上記の記事に記されている状況がよくわかる。忙しそうに行き交う人のほとんどは、演奏しているジョシュア・ベルに顔を向けることもない。
  この実験が騒音の少ない場所で行われたにしても、通行人の足を止めることはなかったかも知れないのだが、演奏者がジョシュア・ベルとわかっていたら、騒がしい場所であっても多くの人が集まったことだろう。
上記の記事には、「これは、たとえ近くで名演が行われていても、注意深く観察しなければ多くの人がそれに気付かないことを示した実験報告だとして、ヴェインガーテンは2008年のピューリッツァー賞を受賞している」とあるが、たとえ立ち止まって注意深く観察したところで、多くの人は名演奏とは思わなかったのではなかろうか。演奏される曲目がなんであろうと、その奏者は無名のストリートミュージシャンなのだから。

   音楽に関わる実験には他にも面白い例がある。オーディオ機器は機種によって驚くほどの価格差があり、数百万円のアンプや1000万円のスピーカーがある一方で、1000円程度の製品もある。その価格差が音質にも相応に大きな差をもたらしているのか。そのような疑問に応えるには、ブラインドテストによる比較試聴が望ましく、日本だけでなく海外でも行われており、その結果が報告されている。そのひとつが、音楽之友社発行の雑誌「stereo」の2004年3月号に掲載されている。オーディオの愛好家たちが評者になって、幾種類ものアンプをブラインド評価したところ、300万円の有名ブランド製品が、9800円のデジタルアンプに負けたとのこと。オーディオ愛好家たちの間で話題になったできごとであり、今でもその結果をネットで見ることができる。
高級ブランドの超高額製品を購入した人たちの多くは、その音質に満足していることだろう。それに勝る音質を望むことはできないと思えるのだから。同じその製品のブランド名がわからないようにして、数十分の一の価格で売り出したなら、売れ行きはどうなるであろうか。それを買った人は音質に満足しつつも、さらなる高音質を求めたくなるのではないか。世間にはそれよりはるかに高額な製品があるわけだから。
   音質をきちんと評価できる能力さえあれば、価格にまどわされることなく製品を見抜くことも可能であろうが、それもかなり難しそうである。人の価値判断がブランドや価格に影響されるからこそ、ブラインドテストによる評価が意味を持つわけだが、先に紹介した記事にも見られるごとく、オーディオに精通しているはずの人たちにとっても、音質の評価は容易ではなさそうである。結局のところは、そういったことを意識しつつ、自分で納得できる製品を選ぶしかないと言えそうである。

   9月15日の記事「
自作スピーカー音楽を聴く楽しみ」に書いたように、数十万円から百万円程度のスピーカーを試聴しても、私の耳にはさほどに良い音に聴こえなかった。いまでは自作のスピーカーで音楽を聴いているわけだが、それでもさしたる不満を覚えないのは、私の耳がいわゆる「駄耳」であるためであろうか。たとえそうであろうと、高級機を追い求めたがらないこの耳を頼りに、私はこれからも音楽を楽しもうと思う。
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