ロビーコンサートの演奏者と聴衆 [音楽およびオーディオ]
実力がありながらも無名の演奏家 [音楽およびオーディオ]
Wikipediaのジョシュア・ベルの項より引用
〈ワシントン・ポスト紙の実験〉ワシントン・ポスト紙のコラムニスト、ジーン・ワインガーテン(英語版)の発案で、2007年1月12日の朝のラッシュ時、ベルは野球帽を被り、地下鉄ワシントンメトロのランファン駅にて、ストリートミュージシャンに扮する実験を行った。曲目は前日のコンサートと同じものであり、それもメジャーなものだった。その様子を隠しカメラで撮影したところ、実験の約45分間でこの横を1,097人が通過したものの、金を置いて行った客は28人、ちゃんと立ち止まって演奏を聞いたのは7人、この人物がベルだと気付いたのはたった1人だった。そして、ベルが客から得た金は、ベルだと気付いた一人から得た20ドルを除けば、わずか32.17ドルだった。
これは、たとえ近くで名演が行われていても、注意深く観察しなければ多くの人がそれに気付かないことを示した実験報告だとして、ヴェインガーテンは2008年のピューリッツァー賞を受賞している。また、ワシントン・ポストはこのビデオをYouTubeに投稿している。
YouTubeのその動画を見れば、上記の記事に記されている状況がよくわかる。忙しそうに行き交う人のほとんどは、演奏しているジョシュア・ベルに顔を向けることもない。
音楽に関わる実験には他にも面白い例がある。オーディオ機器は機種によって驚くほどの価格差があり、数百万円のアンプや1000万円のスピーカーがある一方で、1000円程度の製品もある。その価格差が音質にも相応に大きな差をもたらしているのか。そのような疑問に応えるには、ブラインドテストによる比較試聴が望ましく、日本だけでなく海外でも行われており、その結果が報告されている。そのひとつが、音楽之友社発行の雑誌「stereo」の2004年3月号に掲載されている。オーディオの愛好家たちが評者になって、幾種類ものアンプをブラインド評価したところ、300万円の有名ブランド製品が、9800円のデジタルアンプに負けたとのこと。オーディオ愛好家たちの間で話題になったできごとであり、今でもその結果をネットで見ることができる。
91歳の現役ピアニスト [音楽およびオーディオ]
聴こえなくても想像できる可聴周波数限界の音 [音楽およびオーディオ]
自動演奏ピアノで聴いた生演奏 [音楽およびオーディオ]
スピーカーに重低音再生能力を求めたくなるとき [音楽およびオーディオ]
スピーカーの製作・・・・・・OM-OF101はすばらしい [音楽およびオーディオ]
フジ子・ヘミング・・・・・・88歳の現役ピアニスト [音楽およびオーディオ]
辻井伸行のピアノ演奏 [音楽およびオーディオ]
パソコンスピーカーとネットラジオに感謝 [音楽およびオーディオ]
それでは時間についてはどうであろうか。10歳の子供にとっての一年は、20歳の大人の二年分に感じられるのだろうか。正比例とまでは言えないにしろ、そのような傾向はありそうである。記憶に遺る小学生時代の長さは、成人後の6年間よりたしかに長い。
今では百歳を超えて生きる人も珍しくはないが、その人から見れば、二百年前は自分の生きた長さの二倍にしか過ぎない。坂本龍馬が活躍した幕末は、100歳の人が生まれる50年前のことだから、さほどに昔のこととは思えないだろう。それどころか、400年前の関ヶ原の戦いも、自らが生きた年数の4倍ほど昔のことに過ぎない。高齢者にはそれが実感と言えるわけだが、若い人の場合はどうであろうか。まだ若くはあっても、上記のことに思い及べば、遠い過去がずいぶん近づいて来るだろう。・・・・・・
BGMにしているPeaceful Currents Radioが、いつものように素晴らしい音楽を提供しています。使っているのは安価なパソコン用スピーカーですが、BGMとしての音楽を不満なく聴くことができます。このような製品を開発した技術者たちに感謝しつつ、このスピーカーを愛用してゆくとしましょう。
ネットラジオをBGMにして書くブログの記事 [音楽およびオーディオ]
高齢者と音楽を聴く楽しみ [音楽およびオーディオ]
これを書いている今、パソコンにつないだ比較的に音質の良いスピーカーから、オーケストラとギターによる心地よい曲が流れています。ネットラジオの局名も演奏されている曲名も不明です。これを書き終えてから、局の名前を登録するこにしましょう。オーディオ装置を使わなくても、パソコンでそれなりの音楽をBGMにできるのだから、ありがたい世の中ではあります。
Calm Radioから流れ出した「ゴンドラの唄」 [音楽およびオーディオ]
このブログのタイトルは「喜多郎をBGMにブログを書こう」ですが、パソコンに向かう私の耳を喜ばせるのは、主にCalm Radioの音楽になりました。Calm Radio 内の様々なカテゴリーのうちで、もっとも聴くのは「Solo Piano」であり、モーツアルトやショパンなどを選ぶこともあります。この文章を書いている今も、心地よいピアノの曲が流れています。
ブログの原稿を書こうとしてパソコンに向かった昨日のことです。Calm Radioの「Solo Piano」を選ぶと、聴いたことのあるメロディーが流れ出てきました。日本人にはよく知られている「ゴンドラの唄」です。中山晋平作曲になる歌曲のメロディが、ピアノのソロ曲にアレンジされ、魅惑的な調べになっていました。
wikipediaで「ゴンドラの唄」を調べてみると、1915年(大正4年)に発表された歌謡曲であって、吉井勇作詞で中山晋平の作曲になるものとあります。芸術座公演になる演劇の劇中で松井須磨子によって歌われ、大正時代に流行したということです。「いのち短し 恋せよ少女 朱きくちびる褪せぬ間に」と唄いだされるその歌は、昭和になっても唄い続けられ、私にもなじみのある歌になっております。もしかすると、今の若い人の中にも、この歌を知る人があるのではと思います。とはいえ、「ゴンドラの唄」が流行したのは100年前の日本であり、「上を向いて歩こう」のように海外で知られることはなかったと思えるのですが、意外なことに、Calm Radioからそのメロディが流れ出ました。100年前に流行した歌でありながら、今の日本でも唄える人がいるのだから、それだけの魅力を秘めた歌だということでしょう。誰かによって編曲されたそのピアノ曲が、何かの縁によってCalmRadioで世界に流されたことになります。
誰によって編曲され、誰によって演奏されたのかわかりませんが(Calm Radioのサイトを表示すれば、曲目と演奏者がわかったはずですが、パソコン作業をしているうちに、次の曲に移ってしまいました。)、ピアノ曲としての「ゴンドラの唄」が、私の耳には実に心地よく聞こえました。作曲家と編曲者そして演奏者、さらには、それを選曲してくれた Calm Radio の担当者に敬意をいだきます。
スピーカーケーブルによって音質が変わる?……オーディオの科学と迷信 [音楽およびオーディオ]
スピーカーケーブルはアンプとスピーカーをつなぐ電線でありながら、1mあたり10万円を超える製品がある。電気に関わる技術者の私には、ごく普通のビニール線で間に合いそうに思えるのだが、高額なスピーカーケーブルを購入する人がいて、あちこちのサイトに 「ケーブルを替えたら明らかに音が良くなった」 などと感想を記している
ケーブルによって音が変わることはないと結論づける記事もあるはずだと思い、ネットを検索してみたところ、「オーディオの科学」なる面白いサイトがあった。
元京都大学工学部教授志賀正幸氏は、クラシック音楽の愛好家であって、バッハ音楽祭に参加するために、ドイツのライプツィヒまで出かけるような人だが(同氏のホームページに詳細な体験記が記されている)、そのホームページには、「オーディオの科学」なる興味深いページがある。
「オーディオの科学」には、オーディオに関する理論や技術に加えて、関連する様々な情報が盛り込まれている。その中にはスピーカーケーブルに関する記述があり、「物理的にはスピーカーケーブルで音が変わることはなく、カネをかけるのは無駄である」と記されている。
さらに検索してみたところ、「モンスターケーブル対針金ハンガー対決」なる記事(注1)が見つかった。アメリカで行われたブラインドテストの結果を報じたものである。それによると、80万円もの高額ケーブルと、衣服をかけるための針金ハンガーで作った代用ケーブルを、交互に使ってブラインドテストをしたところ、音質の差がわからなかったという。針金ハンガーは鉄かステンレスで作られているから、スピーカーケーブルとして使った場合、通常のビニール線とは比較にならないほどに劣るはずだが、超高額ケーブルとの差がわからなかったとのこと。どうやらやはり、高価なケーブルを使う必要はない、と結論づけても良さそうである。にもかかわらず、ケーブルによって音が変わるとする情報が広く行き渡っており、高額なケーブルが販売され続けている。
ネットの世界を覗いてみたら、スピーカーケーブルによって音が変わるかどうかを論じるサイトが幾つもあった。音が変わるとする人たちの中には、執拗なほどにそれを主張するのみならず、音は変わらないと主張する人を非難したり貶めたりする人がある。ブラインドテストによって確認すれば決着がつきそうなものだが、「音が変わる」と主張する人たちには、ブラインドテストにチャレンジしようという気はなさそうである。
高級ケーブルの販売業者が製品に対して自信があるのであれば、希望する者には試用品を貸し出すべきであろう。試用によって真に価値があるとわかれば、売れ行きが伸びる可能性があるゆえ、貸し出し方式は販売業者にとっても利点があるはずである。にもかかわらず貸し出しを渋るのであれば、その製品には価格に見合うだけの価値がないということであろう。もしかすると、ほとんどの業者は試用品の貸し出しを拒むかも知れないのだが。
運良く借りることができたなら、家族や友人たちに協力してもらい、ブラインドテスト方式で試聴すべきである。2015年11月21日の投稿記事「高級ブランド製品のブランド名を隠したとき……ある実験の興味ある結果」(注2)にも書いたが、音楽の友社主宰のブラインドテストにおいて、300万円のアンプが9800円のデジタルアンプより低く評価された事実がある。ブラインドテストでなかったならば、300万円のアンプは高い評価を受けたに違いない。
2016年12月31日に投稿した記事「評論家の言葉・・・・・・映画評とドラマ評そしてオーディオ機器の評価」は、次のような文章で終わっている。
「雑誌に掲載されるオーディオ機器の評論記事が、ブラインド試聴に基づいて行われるなら、記事に対する信頼度は高まり、ユーザーにとっては好ましいものとなる。そうであろうと、評論家やメーカーにとってはリスクを伴ううえに、費用と時間もかかるから、そのような方法が採用される見込みはなさそうである。結局のところは、オーディオにしろ映画にしろ、評論家の耳や感性を頼りにするのは程々にしたほうがよい、ということであろう。」
このブログに幾度も書いてきたように、私は自作のスピーカーを使って音楽を聴いている(注3)。オーディオマニアに言わせれば、私の耳が駄耳ゆえということになるのかも知れないのだが、私はその音質に満足しつつ音楽を聴いている。安価な自分のシステムで満足しているのは、むろんその音質を受け入れているからだが、これまで試聴してきた高級オーディオの音が、私の耳にはさほどに良いものに聞こえなかったことも、その理由のひとつである。(本ブログの「音楽およびオーディオ」のカテゴリーをクリックすれば関連する記事が表示される)
(注1) 「モンスターケーブル対針金ハンガー対決」
グーグルで検索すれば見ることができる。オーディオの世界における有名なできごとのひとつとされているようである。
(注2) 2015年11月21日の記事「高級ブランド製品のブランド名を隠したとき……ある実験の興味ある結果」の概要
著名バイオリニストのジョシュア・ベルがストリートミュージシャンに扮して演奏したところ、コンサートのプログラムと同じ曲目を演奏しても、通行人からは無視された。オーディオアンプのブラインドテストをしたところ、300万円の高級製品が1万円以下のアンプに負ける結果になった。
ジョシュア・ベルの実験はユーチューブで見ることができ、アンプに関するブラインドテストについては、その結果をネットで検索して見ることができる。
(注3) スピーカーの自作
自作スピーカー と入力して検索すれば、実に多くの情報が得られる。「3Dスパイラルホーンスピーカー」「JSP方式スピーカー」「絨毯スピーカー」「塩ビ管スピーカー」「ファンネルダクトスピーカー」等々、興味深いスピーカーについて知ることができる。私はここにあげたスピーカーをいずれも自作しており、気に入ったものをAVアンプに接続して使っている。
評論家の言葉・・・・・・映画評とドラマ評そしてオーディオ機器の評価 [音楽およびオーディオ]
新聞にはテレビ番組の評価欄がある。その文章に惹かれて番組を見たとき、見て良かったと思える場合もあれば時間を無駄にしたと思える場合もある。映画館で映画を観るのはせいぜい年に1回ほどだが、観ようと思うきっかけは、新聞などに掲載された映画評である。当然ながらテレビの場合同様に、満足できる場合もあれば不満を覚える場合もある。評論家にも個人的な好みや価値観があるわけだから、その評論にはそれが反映している可能性があるし、それを読んだ私にも、自分の好みに合わせるような形でそれを読み、受け止めている可能性がある。そうであるなら、映画に不満を覚えても映画評に不満を述べる資格はないことになる。
オーディオに関わる雑誌には必ずと言ってよいほど、スピーカーやアンプなどを評価する記事が載っている。数百万円のスピーカーやアンプなど、よほどのマニアであって余裕のあるひとしか手を出さないだろうと思える機種が、当然のごとく高い評価を受けていたりする。そのような高額製品の音を聴いてみようと思い、オーディオ店を訪れて聴いてみたことがある。これまで幾度か試聴しているのだが、私には感動するほどの音には聞こえなかった(注)。設置場所や設定の条件が適切ではなかった可能性があるし、私が高級機にふさわしい耳の所有者ではない可能性も充分に有り得る。私はその機器が高額製品と知って試聴したのだが、その製品のブランドを隠して誰かに試聴させたなら、どんな結果になっただろうか。もしかすると、私と同様に、感動するほどの音質とは思わないひとも、少なからずいるような気がする。
かつて行われたアンプのブラインドテスト(音楽之友社主宰)で、300万円のアンプが1万円以下の機種より低評価となったことがある(「ブラインドテスト 音楽之友社」で検索すればテストの詳細を知ることができる)。評者は高級オーディオの愛好者たちであり、いわゆる耳の肥えたひとたちだったようである。テストの条件が変われば(会場の音響効果や使用するスピーカーなど)異なる判定結果になったかも知れないのだが、いずれにしても、そのブラインドテストで低い評価を受けた300万円のアンプは、オーディオ雑誌などでは高い評価を受けていたに違いない。記事を書いたオーディオ評論家の耳は、その音をどのようなものとして聴いていたのだろうか。
雑誌に掲載されるオーディオ機器の評論記事が、ブラインド試聴に基づいて行われるなら、記事に対する信頼度は高まり、ユーザーにとっては好ましいものとなる。そうであろうと、評論家やメーカーにとってはリスクをともなううえに、費用と時間もかかるから、そのような方法が採用される見込みはなさそうである。結局のところは、オーディオにしろ映画にしろ、評論家の耳や感性を頼りにするのは程々にしたほうがよい、ということであろう。
(注)オーディオ店でのスピーカーの試聴
2015年9月15日の記事「自作スピーカーと音楽を聴く楽しみ」には、高級スピーカーを試聴してもさほどの音質とは思えなかったこと、スピーカーを買い換える代わりにスピーカーの自作にチャレンジしたこと、そしてその結果が記されている。
Calm Radio を聴きながら [音楽およびオーディオ]
昨年10月8日の「モーツァルトのながら聴き」には、次のような文章が綴られています。「クラシックにかぎらず、ジャズにフォークソングにイージーリスニング系など、心地良く聴くことが出来さえすれば、私の耳が拒絶することはありません。インドネシャ音楽のガムランも案外にいけると思っていますし、これを書きながら聴いているBGMは、パソコンスピーカーから流れるギター曲です。」
パソコンに向かうときに聴くのは、CDから取り込んだものよりも、ネットラジオの曲を聴くことが多くなりました。そのBGMは、パソコンにUSBケーブルで接続された安価なスピーカーから聞こえます。価格のわりには意外なほどに音質が良く、実にありがたいスピーカーです。ありがたい世の中になったと言うべきでしょうか。あるいは、このようなスピーカーに不満を覚えない、私の耳に感謝すべきかもしれません。先ほど書いたように、いま流れているのはBaroque音楽で、初めて聴く曲ですが、私にはとても心地良いBGMです。インターネットラジオをBGMにすると、このようにして、聴いたことのない曲を、聞くともなしに聴くことができます。
カナダのトロントを本拠としているらしい Calm Radioは、実に幅広いジャンルの音楽を扱っています。クラシックでは Calm Radio-Chopinのように、作曲家ごとに選ぶことができますし、曲目のジャンル別に選ぶこともできます。Baroque音楽の前には、Calm Radio-Solo piano&Guitar で ギター音楽を聴いていました。
Radio Mozart の場合同様に、この局にもありがとうと伝えたい。そんな気持ちになります。
Radio Mozartを聴きながら [音楽およびオーディオ]
「Radio Mozart」は日がな一日モーツアルトの曲を聴かせてくれる、実にありがたいネットラジオです。曲名がアナウンスされることなく、聴き慣れた曲やこれまで聴いたことのない曲が、次からつぎへと聞こえてきます。私にとってはこれに勝るBGMはありません。
いま聞こえているのは、どうやら歌劇のなかのアリアのようです。これまで興味を覚えなかったジャンルですが、これもまた、BGMとして心地良く聴くことができます。ありがとうラジオモーツアルトと言いたいところですが、この発信元はどこにあるのでしょうか。
いま検索してみたところ、どうやらフランスのマルセーユにあるようです。くわしいことはわかりませんが、その発信元に感謝しつつ、これからも聴き続けようと思います。
浅田真央や羽生結弦もミスをすることがある……ピアニストのミスタッチも大目に見よう [音楽およびオーディオ]
このふたりに共通しているのは、デビューに至るまでの経緯があるにせよ、多くのファンがいることである。
そのようなフジ子・ヘミングだが、ネットの世界ではミスタッチが多いと執拗に指摘されている。演奏家のそのようなミスを責める人たちは、どんな気持ちで音楽を聴いているのだろうか。私はフジ子・ヘミングに好意的とはいえファンではないが、その演奏に対して不満はない。意識を集中して聴いていないためなのか、耳が良くないためなのか、ミスタッチのことなど全く気にしないで、ショパンの曲やチャイコフスキーの協奏曲などを聴くことができる。チャイコフスキーのピアノ協奏曲はライブ録音だから、録音に際して録り直しはしていないはずである。
フジ子・ヘミングへの不満を記した中に、「ラ・カンパネラのテンポが遅くて聴くに耐えないのは、フジ子・ヘミングには速く弾く能力がないからだ」なる文章があった。私には納得できない文章である。指揮者によって交響曲などの演奏時間に差があるように、リストが作成した楽譜にどんな速度が指示されていようが、演奏者の解釈には幅があってもよいはずではないか。演奏者ごとに解釈の相違があってこそ、聴く者には楽しみが増すのではないか。私はフジ子・ヘミングのラ・カンパネラを聴いて、もっと速く弾いてほしいと思ったことはない。
辻井伸行に対しても、たくさんの賞賛の言葉がある一方で、批判的な言葉が幾つもある。そのような言葉を読んで、私はフジ子・ヘミングの場合同様に違和感を覚えた。その演奏が気に入らないというのであれば、それ以降は聴かなければよいだけのことである。演奏家の欠点をあげつらうことは、その演奏を好むひとの感性を否定し、貶めることでもある。ネットの世界でそのような言葉を公表することに、どんな意義と目的があるのだろうか。
数十年も昔のことだが、ある作曲家がテレビの番組で、「歌謡曲を音楽と呼ぶのはおこがましい」といった主旨の発言をした。音楽に深く携わるひとたちには、私のような素人とは異なる感性の持ち主もあろうが、私はその言葉に違和感を覚えた。様々な音楽を聴く私には、演歌の中にも気に入ったものがある。演歌もジャズもクラシックも、さらには、シンセサイザー曲やタンゴや映画音楽も、私にとっては音楽である。音楽に対する感性はひとそれぞれであり、演奏家に対する好みもひとそれぞれのはずである。
天才的な演奏家やスポーツ選手であろうと、ときにはミスをおかすであろう。フィギュアスケートの浅田真央や羽生弓弦ですら、ジャンプで幾度も転倒することがある。そのようなミスをしたときであっても、彼らは見ている者に感動をもたらす。音楽の演奏においても同様に、ささやかなミスに気をとられることなく、その楽曲に耳を傾ければよいのだ、と私は思う。コンサートの聴衆は審査員ではないのだから、おおらかな気持ちで聴けばよいではないか。聴衆とともに演奏家自身が楽しめるような雰囲気があってこそ、理想的な演奏会になると思うのだが。
フジ子・ヘミングに関わる記事が眼についたので、興味を抱いて読んでみたところ、演奏技術に稚拙なところがあると記されていた。それではというわけで、フジ子・ヘミングや辻井伸行のネット世界での評判を調べてみると、私には不思議に思える記事がたくさんあった。そのことが今日の記事を書かせるに至った。
合唱団で歌ったハレルヤコーラス [音楽およびオーディオ]
ユーチューブで検索してみたところ、フォレスタに関わるたくさんの動画があったので、聴き慣れている歌の幾つかを聴いてみました。
洗煉されたその歌唱には、たしかに人を惹きつけるものがあります。この場合の「人」はおもに中年以上の年代と言えますが、このグループには若いファンもいることでしょう。
合唱の魅力に惹きつけられるひとは多いようです。年末が近づいてきますと、各地でベートーベンの第九が演奏されますが、かなりの一般人がその合唱に加わっていると聞きます。
今の私を知る知人たちには意外でしょうが、私はかつて合唱団に入ったことがあります。とはいえ、臨時に編成された高校の合唱団でした。
高校1年の秋か初冬の頃でした。音楽の時間が終わると、担当の蔵清蔵先生(注1)から「松江で開かれる高校生の音楽会(注2)でハレルヤコーラスをやりたいので、希望する者があれば参加してほしい」と聞かされました。好奇心の強い私はその言葉に惹かれ、隣席の友人に呼びかけて一緒に参加することにしました。
それからの数週間(一週間あまりだったかも知れません)、放課後の音楽教室で、混声4部合唱の練習に加わりました。男の団員が20人ほどだったのに対して、女の方は2倍以上の人数でした。(注3)
蔵先生に代わって上級生の米山道雄さんが指導されることがあり、意外な感じを受けましたが、しっかりした指揮ぶりに違和感は覚えませんでした。初めて体験する合唱で、私はバスの声部を歌うことになりました。中学校の授業で教えられたので、楽譜を読むことはできましたが、それにまして役立ったのは、いうまでもなく練習に際して受ける指導でした。
松江市公会堂での催しには、島根県内の幾つかの高校が参加していましたが、それがどんな名称で行われていたのか、私にはまったく記憶がありません。記憶に残っているのは、指揮をとられた蔵先生の表情と自分たちのハーモニー、客席にもどって聴いた幾つかの歌声、そして、友人と交わした言葉だけです。私は前から3列目で歌いましたが、その他大勢の合唱団の一員ということもあり、少しもあがることなく、ひたすら指揮者を見ながら歌いました。
同じような状況で、それ以降にも「天地創造」と「カルメンの闘牛士の行進」を歌っていますが、それがいつだったのか思い出せません。ハレルヤコーラスを歌った次の年だったのでしょうか。ささいなことを記憶しておりながら、それより重要と思われることを思い出せないのだから、記憶とはほんとうに不思議なものです。これを書きながら思いました。日記をつけていたなら、それを読み返すことで詳細な記憶が蘇るだろうに。
高校を卒業してからは音楽に関わることなく、聴いて楽しむだけで今に至っています。私は技術者としての人生を過ごしてきましたが、合唱の練習を指導された米山さんは音楽の道を歩まれ(注4)、今も現役でご活躍とのこと。蔵先生は米山さんの才能を認めて練習を任されたわけですが、島根大学学術情報リポジトリなるサイトに、蔵先生のピアノに関する三つの論文が掲載されていることがわかりました。温厚なクリスチャンだった蔵先生は、天国でピアノを奏でておいでかも知れません。
今日のブログは友人からのメールで知った、話題の合唱集団フォレストについて書くつもりでした。ところが、「第九」の合唱について記すと昔のことが思い出され、自分の思い出話を記す結果になりました。ブログを書いていると、このような文章を記すこともある。そんな想いを抱きつつ、今日のブログを終えるとします。
(注1)蔵清蔵
昭和28年当時の出雲高校で音楽を担当。最初の授業が始まる前に、先生は黒板に自分の名前を書いて、「上から読んでも下から読んでも蔵清蔵です」と自己紹介された。ある日の授業で先生はピアノを弾いてくださった。私が初めて聴くことになった「エリーゼのために」を、ピアノ音楽も良いものだなと思いつつ,弾き終わられるまで耳を傾けた。
(注2)昭和28年の秋に行われたはずだが、音楽会の名称は思い出せない。
(注3)あいまいな記憶にもとづく推定
(注4)この文章を記すに際してネットで調べたところ、米山道雄さんは作曲家になり、島根県の音楽教育に貢献されただけでなく、出雲芸術アカデミーの学長として、今なお現役で活躍しておられるとのこと。
高級ブランド製品のブランド名を隠したとき……ある実験の興味ある結果 [音楽およびオーディオ]
Wikipediaのジョシュア・ベルの項より引用
〈ワシントン・ポスト紙の実験〉ワシントン・ポスト紙のコラムニスト、ジーン・ワインガーテン(英語版)の発案で、2007年1月12日の朝のラッシュ時、ベルは野球帽を被り、地下鉄ワシントンメトロのランファン駅にて、ストリートミュージシャンに扮する実験を行った。曲目は前日のコンサートと同じものであり、それもメジャーなものだった。その様子を隠しカメラで撮影したところ、実験の約45分間でこの横を1,097人が通過したものの、金を置いて行った客は28人、ちゃんと立ち止まって演奏を聞いたのは7人、この人物がベルだと気付いたのはたった1人だった。そして、ベルが客から得た金は、ベルだと気付いた一人から得た20ドルを除けば、わずか32.17ドルだった。
これは、たとえ近くで名演が行われていても、注意深く観察しなければ多くの人がそれに気付かないことを示した実験報告だとして、ヴェインガーテンは2008年のピューリッツァー賞を受賞している。また、ワシントン・ポストはこのビデオをYouTubeに投稿している。(引用おわり)
YouTubeのその動画を見れば、上記の記事に記されている状況がよくわかる。忙しそうに行き交う人のほとんどは、演奏しているジョシュア・ベルに顔を向けることもない。
この実験が騒音の少ない場所で行われたにしても、通行人の足を止めることはなかったかも知れないのだが、演奏者がジョシュア・ベルとわかっていたら、騒がしい場所であっても多くの人が集まったことだろう。
上記の記事には、「これは、たとえ近くで名演が行われていても、注意深く観察しなければ多くの人がそれに気付かないことを示した実験報告だとして、ヴェインガーテンは2008年のピューリッツァー賞を受賞している」とあるが、たとえ立ち止まって注意深く観察したところで、多くの人は名演奏とは思わなかったのではなかろうか。演奏される曲目がなんであろうと、その奏者は無名のストリートミュージシャンなのだから。
音楽に関わる実験には他にも面白い例がある。オーディオ機器は機種によって驚くほどの価格差があり、数百万円のアンプや1000万円のスピーカーがある一方で、1000円程度の製品もある。その価格差が音質にも相応に大きな差をもたらしているのか。そのような疑問に応えるには、ブラインドテストによる比較試聴が望ましく、日本だけでなく海外でも行われており、その結果が報告されている。そのひとつが、音楽之友社発行の雑誌「stereo」の2004年3月号に掲載されている。オーディオの愛好家たちが評者になって、幾種類ものアンプをブラインド評価したところ、300万円の有名ブランド製品が、9800円のデジタルアンプに負けたとのこと。オーディオ愛好家たちの間で話題になったできごとであり、今でもその結果をネットで見ることができる。
高級ブランドの超高額製品を購入した人たちの多くは、その音質に満足していることだろう。それに勝る音質を望むことはできないと思えるのだから。同じその製品のブランド名がわからないようにして、数十分の一の価格で売り出したなら、売れ行きはどうなるであろうか。それを買った人は音質に満足しつつも、さらなる高音質を求めたくなるのではないか。世間にはそれよりはるかに高額な製品があるわけだから。
音質をきちんと評価できる能力さえあれば、価格にまどわされることなく製品を見抜くことも可能であろうが、それもかなり難しそうである。人の価値判断がブランドや価格に影響されるからこそ、ブラインドテストによる評価が意味を持つわけだが、先に紹介した記事にも見られるごとく、オーディオに精通しているはずの人たちにとっても、音質の評価は容易ではなさそうである。結局のところは、そういったことを意識しつつ、自分で納得できる製品を選ぶしかないと言えそうである。
9月15日の記事「自作スピーカーと音楽を聴く楽しみ」に書いたように、数十万円から百万円程度のスピーカーを試聴しても、私の耳にはさほどに良い音に聴こえなかった。いまでは自作のスピーカーで音楽を聴いているわけだが、それでもさしたる不満を覚えないのは、私の耳がいわゆる「駄耳」であるためであろうか。たとえそうであろうと、高級機を追い求めたがらないこの耳を頼りに、私はこれからも音楽を楽しもうと思う。