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技術開発をチームで推進する場合の問題点……私の経験より [雑感]

私はかつて電機会社にいたが、ある日のこと、上司からこんな言葉で叱責された。「君は特性を改善して賞をもらったが(付記1参照)、そんなことより、製品の不良率を下げてほしい。会社の仕事がどういうものか、君はまだわかっていないようだ」

  撮像管(付記2)の特性改善に努めていた私は、上司のその言葉を聞いて思った。原価を低減したい気持ちはわかるが、他社よりも性能が劣る事態になったなら、製品が売れなくなってしまうではないか。技術員の中に一人くらいはいてもいいだろうに、特性を改善すべく努める者が。

  撮像管を作っている同業他社は、撮像管の開発メーカーであるRCA社(付記3)とノウハウ契約しており、性能に勝れた新型管を作ることができた。新しい情報が入らない私の会社では、高性能化は独力で行うしかなかったのだが、どうにか他社と渡り合える状況にはあった。
  入社して4年が経っていたその頃、すなわち今から50年も昔のことだが、私は撮像管の高感度化に注力し、かなりの成果をあげて社長賞(正式な名称を忘れたので、ここでは社長賞としておく)をもらっていた。そうであろうと、しばしば遅刻する私は上司の覚えが悪かったのか、叱責されることも多かった。遅刻することになった主な理由は、夜おそくまで原書や学会誌の論文に眼を通すなど、必要な知識の吸収に努めていたからである。私が書いた小説「防風林の松」(アマゾンの電子書籍として公開中の、青春小説・恋愛小説)(左側サイドバーにて概要を紹介)(小説投稿サイトの「カクヨム」や「小説家になろう」などで読むことができる)には、その当時を振り返りつつ書いたところがある。この小説の主人公は中学生まで落ちこぼれだったが、そこから抜け出して技術者となり、スピーカーの開発に情熱を燃やすのだが、その姿には私自身が少なからず投影されている。(中学1年生までの私は学校の成績が悪かった。そこから抜け出した体験をもつ私は、読んでくださる人の参考に供すべく、本ブログに「教育」なるカテゴリーを設け、幾つもの記事を投稿している) 

  上司の意向にそうべく努めつつも、私は撮像管の高感度化を求め続けた。そうこうするうちに、私の開発案が当時の通産省に認められ、かなりの補助金をもらえることになった。

  保存してある申請書のコピーを開いてみると、苦心して書いた説明資料や図面が載っており、懐かしさを強くおぼえる。その表紙には「鉱工業技術試験研究補助金申請書」と記され、試作研究題目は「特殊光導電体膜を利用した高性能ビジコンの実用化試作」となっている。申請書の日付は昭和41年4月10日である。申請先として記されているのは「通商産業大臣三木武夫殿」である。開発の中心となる私は、その時点で入社して5年の社員だったから、主任研究者の欄には部長の氏名と肩書が記されている。
  会社の企画調査室長にともなわれて通産省に行き、ふたりの審査官に向かって申請書の主旨を必死になって説明したことなど、今となればやはり懐かしく思い出される。
  補助金をもらえたことは良かったのだが、試作研究を進めてゆく過程で、私はずいぶん苦労することになった。
  困難を伴う技術開発が、設計図に従う作業のごとくに進むわけがない。にもかかわらず、開発会議の席で私は責められた。「前回の試作結果がわかったのだから、それをもとにした次の試作案はすぐに作れるはずだ。試作案を出してくれないと、試作作業を担当する者を遊ばせておくことになる」
  測定データなどを分析しても答えが見つからず、適切な試作案をすぐには作れない状況にあっても、私はやむを得ず妥協して、それまでの試作条件を少し変えただけの、間に合わせとも言える実験案を提出したりした。
  目標をかなり下回ったとはいえ、社長賞を得た製品に勝る性能を実現できて、どうにかその開発は終わった。その製品は日立レントゲン社(後に日立メディコと社名が変わり、現在は日立製作所に吸収合併されている)のX線テレビ装置に採用されて(付記4)、かなりの期間にわたって売れ続けたし、会社の製品であるテレビカメラにも使われた。それなりに活躍できた撮像管であったが、20年ほどで姿を消すことになった。半導体を用いる撮像素子が実用化され、撮像管の時代を終わらせたからである。
   ここまでは私の回顧談とも言える記事だが、きょうの記事で言いたいことは、開発業務を管理する者のあり方である。かつての私の上司は、当時の企業における一般的な姿だったかも知れないのだが、今の日本の企業においてはどうであろうか。まさかとは思うが、時代と状況が変わった今でも、部下のやる気に水をさす管理者がいるのかも知れない。
   私が会社から賞をもらうことになった業績は、通常業務の中で見つけた現象をヒントに、数回の試作を行うことで得られた。会社としての開発業務ではなく、通常業務の中でなされたために、その作業の全てを私がひとりで行った。補助金での開発も私がひとりで行っていたなら、どんな結果になっていたことだろう。その仕事の内容を考えれば、ひとりでの遂行が好ましかったと思えるのだが、同じようなことが、様々な企業においてもあり得るだろう。
   むろん仕事の内容にもよるわけだが、企業での開発業務の多くは開発チームとして進められる。開発の中心となる技術者がリーダーとなる場合はともかく、かつての私の開発チームのごとく、職場の上位者が管理者となる場合もあるだろう。そうであろうと、管理者が縁の下の支え役のごとき立場でリードするなら、技術者たちの思考を妨げることなく、その開発作業を順調に進めることができると思う。
  勝れた発明や業績は、その目標に執念と情熱を抱く人によってなされるもので、研究開発費などはむしろ副次的な要因だと思う。青色LEDでノーベル賞を得た中村修二氏も、ノーベル化学賞を得た田中耕一氏も、企業内での仕事で賞を得ている。幸運に恵まれた要素があったにしても、執念をもやして目標に取り組んだ結果にちがいない。
  技術立国日本を確たるものとするうえで、意欲に燃える技術者が、経営者にまして大きな役割をはたすのではないか。田中氏や中村氏のような技術者が、存分に夢を追い、それを実現できる環境が、多くの企業において実現すればと思う。その環境に影響を及ぼすのは、企業のあり方にもまして、開発グループの管理者のあり方ではなかろうか。限られた経験にもとづく独善的な考え方かも知れないのだが、私にはそのように思える。

 付記1                                    ビジコンなる撮像管(付記2参照)の特性改善に努めていた私は、試作作業の過程で見つけたヒントをもとに、数回の実験で高感度化に成功した。独自に開発した製品ということで、HS201なる名称で品種登録された。その功績に対して私が得たのは、ひと月の賃金に相当する賞金だった。

 付記2 撮像管とは                            テレビカメラの中で、光学像をテレビ信号に変える役割をはたす真空管。今では超高感度カメラ用にのみ使われ、一般には半導体の撮像素子が使われている。

付記3 RCA社とは                            テレビの歴史に名を残す会社で、撮像管やカラーテレビの方式など、主要な技術の多くを発明し、実用化した。アメリカで1919年に創立されたこの名門企業は、ビデオディスクの開発に係わる膨大な出費と、その商品化にともなう商業的な失敗により、1986年には姿を消す結果となった。RCA は Radio Corporation of America の略称である。

 この会社が出していた赤い表紙の RCA Review  には、撮像管に関わる論文も数多く掲載されていた。ひとり暮らしのアパートにそのコピーを持ち帰り、夜おそくまで読みふけったことが懐かしく思い出される。小説「防風林の松」を書くに際して、主人公に同様の体験をさせることになった。

付記4                                      付記1に書いたHS201の中には、RCA社製のビジコンの2倍以上の感度を示すものがあった。通産省からの補助金によって改良される以前に、日立レントゲン社によってX線テレビ装置に採用されていた。 

 

 

 


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