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父が遺した手記に思う [父の歌集]

昨年の夏から26回にわたって、「父の歌集より」と題した記事を書いてきました。その後半は、出征した父が中国で詠んだ歌と手記です。その手記には頻繁に地名が記されております。朝鮮の釜山から始まって、中国の浦口が記され、以降にこのような地名がでています。文在門、南京、幕府山、鎮江、武昌、白水、汨羅、河夾塘、湘陰、金維山、長沙,岳麓山、岳州、新・河、雲・、道人磯、城陵磯、五里牌、岳陽樓、漢口、上海、常州、大場鎮。
                                                                                                                                                 
かつて読んだ書物によれば、戦地の兵士が家郷などに葉書を書くとき、自分の在所を記してはならないとされていたという。そうであろうと、兵士たちは自分がどこに居るかを知らされていたようです。行き先を知る小隊長が、隊員にその地名を告げたのでしょうか。たとえ知らされても、地名をメモに記す人は少なかったのではないか。地名をメモに記すにしても、漢字の地名を書くのは容易ではなさそうです。父の手記には上記のごとく、難しい文字を含む多くの地名が記されています。漢詩に親しんでいた父には、中国の地名に知識や関心があり、知っていた可能性はありますが、もしかすると、戦後になってメモから書き移す際に、正しい漢字名にしたのかも知れません。あるいは、親しい軍人仲間の中に、中国の地名に詳しい者がいたのかも知れません。いずれにしても、多くの地名が記されていることにより、中国における父の動静を、ある程度まで知ることができました。

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父の歌に思う [父の歌集]

父が遺した手書きの歌集を手にしても、一部に眼を通していただけでしたが、ブログで取り上げたことにより、初めて全ての歌と手記を読みました。
                                                                                                                      
16歳から38歳までに詠まれた歌が記されていますが、17歳時にこのような歌が詠まれています。
                                                                                                                                                 
      一草もむだにはなせそ(な為そ・・・・・・するな)父のためわが
  とりて来し草にしあれば
                                                                                                                                                
「・・・な・・そ」の構文が、私には懐かしく思えます。高校時代までの私は国語に対してさほどに関心はなく、歌にも興味がありませんでした。そのような私でしたが、古文の教科書にでていた「・・・な・・そ」の構文には興味をおぼえました。その記憶が遺っておりましたので、定年後に小説「造花の香り」(本ブログのサイドバー参照)を書いたとき、主人公に次のような歌を詠ませました。
                                                                                                                                                 
  時じくの嵐に若葉散り敷くも桜な枯れそ大和島根に
                                                                                                                                                 
特攻隊での出撃を間近に控えた主人公が、親友に遺すノートに記す歌として作ったものです。その小説には次のような歌もあります。出撃を前にした主人公が、婚約者へ贈る手紙に記す歌です。
                                                                                                                                                 
  枯るるなき造花に勝る花ありや愛しきひとの香ぞしのばるる
                                                   
これだけでは意味不明の歌ですが、小説の中ではそれなりに意味があります。これまでの生涯で、私は数えるほどしか歌を詠んでいないのですが、そのうちの2首を小説を書くために詠みました。特攻隊に関わる小説が、歌を詠む習慣のない私に歌を詠ませたことになります。小説の流れの中で作ったためか、上記の2首はごく自然に浮かんできました。
                                                   
17歳の父が「・・・な・・そ」の構文を使ったのは、もしかすると、私と同様に、その構文に興味を抱いたからではないか。そんな気がしなくもないのですが、現代風の歌のみならず、ときには万葉調の歌を詠んだ父にとっては、普通に使える用語だったのかも知れません。
                                                   
この記事を書いたいま、生前の父と歌や文学を語り合っていたなら、と思わずにはいられません。18歳で故郷を離れたとはいえ、年に幾日かは一緒に暮らしていたので、いくらでも機会はあったのですが。


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父の歌集より 26 最終回 [父の歌集]

佐世保についた父は、LST内で数日を過ごしてから宿舎に入り、その後、南風崎駅(はえのさきえき)から郷里に向かったとあります。WIKIPEDIAには<南風崎駅(はえのさきえき)は、長崎県佐世保市南風崎町にある、九州旅客鉄道(JR九州)大村線の駅である。難読駅の一つ。・・・・・・太平洋戦争後、1945年(昭和20年)10月から1950年(昭和25年)4月まで、中国・東南アジア方面各地からの復員者・引揚者がこの駅より専用列車に乗り込んだことで有名。>と記されています。                                                   


父が復員したのは、出征してから2年と35日が経った日でした。私は小学校(当時は国民学校)に入学した直後に父を見送り、3年生の1学期に復員した父を迎えたことになります。                                                   



      六月二十九日、針尾島宿舎を出で南風崎より乗車郷里に向ふ。

      針尾島にて無事帰国のことを電報せんとしたるも郵便局員の恐

      らくは電報到着より先に帰郷すべしと言ふに思止まる。益田駅

      待合室に寝て、翌三十日十時頃江南駅着、妻と晋のプラットホ

      ームに立つを見る。晋病気のため今市へ行かんとてなり、共に

      帰る。姉の家に立寄り長くなる。通報により母子供ら走り来る。

      家に帰り妻子に囲繞され垢塵を落し帰郷の喜び切なり。庭樹ま

      た依然として我を迎ふるを見心楽しむ。


復員の旅長かりしようやくに祖国の島の見えそめしかも

                                                   


江南駅とあるのは、家から最も近い山陰本線の駅です。私の生家から歩いて30分ほどのところにあり、高校時代の私はその江南駅から出雲市の高校に通いました。                                                  


「翌三十日十時頃江南駅着、妻と晋のプラットホームに立つを見る」とあります。列車を待っていた母と私の前でドアが開くと、父が姿を現しました。このときの状況を本ブログに書いたのが、2019年9月4日に投稿した記事「偶然の出会いに関わるある思い出」です。母と私が出雲市に向かった用件に記憶はなかったのですが、父の手記によれば、私が病気になったため、病院に向かおうとしていたようです。記憶があいまいですが、その頃の私は脚気にかかっていたのかもしれません。医師に膝頭をゴムのハンマーで叩かれたり、ふくらはぎを押してへこみ具合を確かめられたりしました。                                                   


駅で父と出会ったあと、母と私は病院行きを中止して、3人で自宅に向かう途中にある、父の姉の嫁ぎ先に立ち寄りました。                                                   


「庭樹また依然として我を迎ふるを見心楽しむ」とあります。生家の庭にはたくさんの庭木がありました。父には盆栽の趣味がありましたが、水涸れの虞を回避するために、鉢植えの木はすべて地植えにしてありました。父が出征してからは、盛夏に雨のない日が続いたときは、小学生の私が水やりをしました。あるとき、うっかり水やりを忘れたことを思い出した私は、夜にもかかわらず実施することにしました。母に止められても私は井戸に行き、かなりの時間をかけて木に水をかけました。その間、母は縁側に腰を下ろして、私を見守ってくれました。記憶はないのですが、出征する父に私は約束していたのでしょう、庭木を枯れないように心がけると。復員した父による、「庭樹また依然として我を迎ふるを見心楽しむ」なる手記を読んで、あらためて嬉しく思う次第です。                                                   



従軍中と復員途上に関わる手記は、その間に記されたメモを基に記され、故郷の村に帰ってからの部分は、記憶をもとに記されたものと思われます。歌集に記されている最後の歌も、自宅に落ち着いてから詠まれたのかもしれません。                                                  


父の手書きの歌集は、「復員の旅長かりしようやくに祖国の島の見えそめしかも」なる歌で終わっております。その後に45ページ分の用紙が空白のままに綴じられておりますので、帰国してからの歌を記すつもりだったのかもしれません。昭和12年の夏から昭和19年の春までの歌も記されず、7ページ分の空白の用紙が綴じられているのも、後ほど追記するつもりだったのでしょう。                                                   


父の歌集に記されている手記は、すべて旧仮名遣いによって書かれています。現在使われている仮名遣いは、1946年(昭和21年) 11月に公布された内閣訓令「かなづかい」が基になっているとのこと。ほとんどの国民は、昭和20年代のうちに現代仮名遣いに慣れたと思われます。父も戦後には現代仮名遣いを使っていましたから、手書きの歌集が記されたのは、戦後も間もない時期か、遅くとも、昭和20年代だったと思われます。                                                   


歌集に多くの空白ページを残したのは、その後も歌を詠み続けるつもりだったからでしょう。それにしては、歌を詠んでいる父の姿に記憶がありません。敗戦とその後に激変した価値観が、歌を詠む気持ちを失わせたのでしょうか。                                                   


生前の父と歌を話題にしたのは一度だけでした。その思い出を書いたのが、2015年9月9日に投稿した「父の歌集」です。その頃の私は、父が歌を詠んでいたことも、手書きの歌集を作っていたことも知りませんでした。今の私はブログや小説を書く文系人間ですが、かつては典型的な理系人間でした。父も私をそのように見ていたからでしょう、文学に関わる話題に誘うことはありませんでした。父の生前に歌や文学を語り合えなかった私は、今にしてようやく、このような形で父の歌集と向き合うことができました。                                                  


26回にわたる「父の歌集より」を読んでくださった方々に感謝しております。ありがとうございました。




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父の歌集より 25   従軍中に詠まれた歌 10 [父の歌集]

終戦時に中国にいた日本軍は、およそ110万人だったようです。日本の船舶には撃沈されたものが多く、中国からの復員には多くのLST(アメリカ軍の戦車揚陸艦)が使われたとのこと。アメリカ軍の協力があったにしても、膨大な人数の復員にはかなりの日数を要したようです。

                                          

中国の奥地で収容所暮らしをしていた父たちは、敗戦後も半年を経てようやく、復員に向けて移動したようです。



  二十一年二月十八日湘陰発、白水、泪羅、新牆河、岳州、雲渓を経て

  道人磯なる本属中隊に帰る。着せしは二十一日なり。四月中旬中隊は

  道人磯を発し城陵磯の宿舎に入る。復員の日近ければなり。ここにて

  帰路の携行食を準備す。 五月初旬岳州五里牌に集結、食糧、燃料を

  整へつつ出発命令を待つ。蛇、蛙など捕えて食用とする者ありき。

  中旬(大社祭の月に当れども何日とも定かならず)岳陽桜下にて大型

  民船に乗り麋口に向ふ。麋口にて数泊す。河岸の湿地に幕舎したるが

  雨のため特に多湿なりし。未帰還の邦人階上の窓より我等に手ふるを

  見て暗然たり。時折上陸して炊爨(スイサン)をしつつ南京に下る。

  南京にて一泊。城外にて露宿なり、ここより汽車にて上海に向ふ。

  蓋貨車にしてシートをもって蔽ふ。沿線を見るを許さずといふ。鎭江

  も常州も見ることなし。蘇州をかいまみる。上海にて又、未帰国の

  人の手ふるを見たり。上海市外にて下車恐らくは大場鎮ならんか、宿

  舎に入る。雨多くして陰湿の日多く丸木小屋にむしろを垂れてしきり

  たる、小さき土間のいぶせきこと極まれり。ここに居ること十日ばか

  りにして、ようやく・・桟橋より乗船す。船はアメリカの上陸用舟艇

  LSTなれども船長以下すべて日本人なれば安堵の思と共に祖国の山

  河に接するも一両日の間と思へば嬉しさ限りなし。海上波高く、船暈

  に苦しむ。佐世保湾に入り針尾島に上陸、宿舎に入る。船上に上陸を

  待つこと数日、山の緑色濃きと麦の黄なる色と、目にしみるが如

  りき。更にまた湾岸近く、半ば水没せる艦の赤く錆たるが、敗戦の姿

  を具象するに似たり。 

                                                   

「蛇、蛙など捕えて食用とする者ありき」なる文章から、厳しい食糧事情にあったことがうかがえます。「未帰還の邦人階上の窓より我等に手ふるを見て暗然たり」と「上海にて又、未帰国の邦人の手ふるを見たり」が、敗戦後に取り残され日本人を思わせます。
                                         

「湾岸近く、半ば水没せる艦の赤く錆たるが敗戦の姿を具象するに似たり」とあります。この文章が、小学生時代の記憶を思い出させました。父と伯父(父の長兄)が話し合っていたときのことです。復員した際の佐世保のことが話題になり、「日本の軍艦が赤さびをおびたままに放置されていた」と父が語りました。私はさしたる興味を覚えなかったのですが、どうしたわけか、今でも鮮明に記憶しております。




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父の歌集より 24  従軍中に詠まれた歌 9 [父の歌集]

出向先の民船隊から長沙に戻った父は、 昭和21年2月まで、湘陰の近くに設置された収容所で過ごしたとのこと。その前に武装解除されたとありますから、民家を収容所に当てるべく配慮したのは、中国の蒋介石軍だったのでしょう。

                                                   



    長沙に帰り、 月 下航して湘陰に至る ここにて武装解除

    後日湘陰東方台地に集合して点呼を受く、やがて東方の民家を

    収容所とせられ居住し、翌年二月に至る、師団はおほよそ湘陰

    を中心として集結し、岳州方面も亦一中心をなしゐたり

                                                   


    はからずも十九年十一月二日付、仝二十八日付の家郷よりの手

    紙二通受領す、一年前の手紙なり(時に十一月)されど、うれ

    しきことかぎりなく、打ち返し読みたり


        

白菊の花とり添えて送り来し妻のたよりのうれしかりけり


育ちゆく子らの姿もしのばれてうれしかりけり妻のたよりは


                                                   


戦後の混乱期でありながら、日本軍の収容施設に手紙が届いたとのこと。1年遅れで届いたことに、むしろ驚きを覚えます。日本が降伏してからの中国では、蒋介石の国民党軍と毛沢東の中国共産党軍の争いが激化しています。そんな状況にありながらも、中国側の協力があったのでしょうか。あるいは、中国への関与を強めていたアメリカが、旧日本軍に対する処遇にも関わっていたのでしょうか。中国からの復員兵士を帰還させるため、アメリカは上陸用舟艇LSTを提供しています。


                                          


11月2日付けと11月28日付けの手紙とありますから、母は月に1度か2度は手紙を書いていたようです。 

                                                   


戦地の兵士に送られた手紙には、親族や知人からだけでなく、学校が生徒に書かせた慰問文もあったようです。小説「造花の香り」(本ブログの左サイドバー参照)を書くために読んだ参考資料の中に、女学校で慰問文を書かせられた経験を記した文章がありました。そのような慰問文を父も読んだのかもしれませんが、手記に出てくるのは家族からの手紙だけです。もしかすると、女学生たちからの慰問文は、独身の兵士たちに渡されたのかもしれません。

                                                   


出向先からもとの隊にもどり、しばらく経った頃には、敗戦を知った直後の絶望的な感慨は消えていたようです。蒋介石軍から日本軍への対応方針が伝えられ、兵士たちの不安が和らいだのではないか。旧日本軍に対する中国の処遇と、異常なまでに過酷なソ連の処遇。その相違は何に由来するのか、ウクライナのことを含めて考えさせられます。

                                          


   十一月末不寝番中(文書類の所持を禁ぜられたれば記録等をちり
            紙に細書してかくし持ちゐたる時なれば)
                                          
妻のたより写す灯火の小暗きに冷雨しきりなり風も添ひ来ぬ
 
   十二月末正月の用意に餅をつきて
          (食糧事情急迫せる祖国の状況を聞きゐたれば)
 
ふるさとにいかなる年か迎ふらむ子等しのびつつ餅つく我は
 
食ふべきものもとぼしき国にゐて子等は如何なる年迎ふらむ
 
 
「食糧事情急迫せる祖国の状況を聞きゐたれば」と記されております。敗戦後の日本は深刻な食糧危機に陥り、都会だけでなく、田舎であっても非農家は食料調達に苦労しました。父の手記によれば、その状況が、中国奥地の日本軍収容所に伝わっていたことになります。
                                          
「文書類の所持を禁ぜられたれば記録等をちり紙に細書してかくし持ちゐたる時なれば」なる文章が、従軍中の歌と手記が記された状況を伝えています。敗戦前における歌や手記は、手帳に記されたメモに基づいたものであり、文書類の所持を禁じられた不寝番中の歌などは、ちり紙などのあり合わせの紙に記されたようです。

 


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父の歌集より 23  従軍中に詠まれた歌 8 [父の歌集]

民船隊に出向していた父は、丘州に碇泊中の8月17日に日本の敗戦を知ったとあります。
                                                  
戦前の日本人は思い込まされていたようです。「戦争に負けたなら、敵国によって日本は・・・・・・のようにされ、日本人は・・・・・・のように扱われる」と。・・・・・・に入る言葉は幾つもありますが、いずれの言葉も、今の日本人には想像もできないおぞましい言葉です。
                                                   
サイパン島でアメリカ軍に追い詰められたとき、在留日本人の多くが自殺しました。サイパン島の悲劇として知られる「万歳クリフ」の記録映像が、戦後70年余を経た今でもテレビで放映されることがあります。
                                                    
戦前の日本軍人に与えられた軍人勅諭には、「生きて虜囚の辱めを受くるなかれ」とあります。欧米諸国の軍隊ならば投降するような状況に至ったとき、日本軍は自決あるいは「万歳突撃(実質的には自殺行為)」による死を選びました。兵士たちは思い込まされていたのでしょう、「投降したならば、むしろ死を選んだ方がよかったと後悔するような結果になるだろう」と。      
                                                   
戦後の27年間をグアム島のジャングルに潜伏し、昭和47年に帰還できた横井庄一さんは、どんな気持ちで潜伏していたのだろう、と思います。帰国した横井さんは幾度も、「恥ずかしながら生きて還ってきました」なる言葉を口にしていました。
                                                   
                                                   
    八月十七日丘州碇泊中終戦を知る、はじめ疑ひ、つぎには
    茳然、やがて悲痛の情やみ難し、むなしき心の中にも思
    るくは、母のこと、妻子のことどもなりき、折りあらば
    らんとて書きおきし妻子への手紙も今はむなしければ焼
    妻が送りし下帯の新しきをつけて心を鎮めぬ
                                                   
    湘陰にて当時の思を
                                                   
年老いし母はいかにかおはすらむ我が子の我をなげきますらむ
ひたすらに吾を思ひてなげくらむ妻もしのばゆ子等もしのばゆ
ふたたびは相見むことも難からむ妻子いとほし来し方を思ふ
ふるさとに送るすべなき手紙焼きつつすこやかなれとひたに祈るも
今はとて妻がおこせし下帯の清きをつけて心鎮めぬ
幼き日あそび歩きし山川のありありと目にうかび来れる
                                                   
                                                   
手記によれば、出向先の民船隊から長沙に帰った後、湘陰に移ったようです。上記の歌は、湘陰に着いてから、敗戦を知った直後の思いを詠んだとあります。日本の敗戦を知ったとき、父は絶望的な心境になり、生きて日本に帰国することはできないだろう、と思ったようです。敗戦を知った際に父が抱いた感慨は、多くの兵士に共通するものだったのではないでしょうか。

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父の歌集より 22  従軍中に詠まれた歌 7 [父の歌集]

従軍中の歌や手記には、ところどころに、かなりの期間にわたる空白があります。その間には詠まれなかったのか、もとの手記が失われていたのか、歌集に纏める際に省かれたのか、手書きの歌集からは理由がわかりません。きょう紹介する手記と歌は、前回の分から二ヶ月後の、昭和20年7月末に記されたものです。その半月後、日本は敗戦に至ります。
 
   七月二十九日第三中隊(民船隊)に出向民船に乗る、一等
   兵一名、苦力二名あり、船中の生活快適にして閑暇も多し
   子らのおもかげ髣髴たること多し
                                                                                                                                                 
日中戦争に際して、日本軍には民船隊なるものがあったようです。インターネットで調べても、それがいかなるものかわかりません。父はその民船隊に出向させられ、中国人たちとともに民間の船に乗ったとのこと。「船中の生活快適にして閑暇も多し」が、私には不思議な記述に思われます。
                                          
まひなかひにかかりもとほる面影を払ひもあえず子は恋しけれ
とつ国の遠き境にありかよふ汝が面影にあこがるく父ぞ
おもかげの日に幾度かまなかひをもとほることの常となりにき
うつつなに子らの面影追ひてゐる我に気づきて心わびしき
別れ来て一年を経しいかにかも育ちしならむふるさとの子は
吾子が植えし樟の若木のすくすくと育てよかしとはるかに思ふ
                                                   
私は父が出征する直前に国民学校に入学しました。学校が新入生全員にくばった楠の苗木は、庭の隅に根付いています。「吾子が植えし」とありますが、父か母に手伝ってもらいました。
                                                   
 「まなかひにかかりもとほる面影を払ひもあえず子は恋しけれ」なる歌が、高校の国語教科書にあった歌を思い出させました。万葉集の山上憶良による歌「瓜食(は)めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆいづくより来りしものぞ眼交(まなかひ)にもとなかかりて安眠(やすい)し寝(な)さぬ」です。  父もまた、山上憶良の歌を思い浮かべつつ、前記の歌を詠んだのであろう、という気がします。


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父の歌集より21 従軍中に詠まれた歌 6 [父の歌集]

  三月初旬軍用道路構築作業に出づ、そら豆ののびたるを見る
                                                                                                                                                 
春されば蚕豆(そらまめ)の葉をもてあそぶ子ら思ひつつ土ほりにけり
蚕豆ののびのしるけしふるさとの子らは今年ももてあそぶらむ
たくましき生命動きて一せいに草萌えんとす焼けし河原に
                                                                                                                                                 
  三月十五日頃汨羅下流なる河夾塘を経て湘陰に行く
                                          
ほのぼのと柳芽ぶきてゐたりけり水のやせたる湘水の岸
    湘水・・・・・・湘江(揚子江の支流である大河)の別名
                                                                                                                                                   
      三月二十日衛生兵要員として中隊を出で・・大隊本部に至る
  二十五日仝所発、長沙に向かふ 二十七日 師団医務室を出で
  輜重隊本部(江藤隊)着、三十一日仝隊第二中隊(大寺隊)に
  至り指揮班に入る 中隊は長沙西部岳麓山の西にありき
           ・・は判読できない漢字(2文字)
                                                                                                                                                 
父の生前に聞いたことがあります、中国のどこに居たのかと。父は一言「長沙に居た」と答えただけでした。父がそこで口をつぐんだので、私はさらに問うことをやめました。出征してから10ヶ月後に長沙に至り、終戦までその周辺に滞在したようです。
                                                   
  五月若葉照る頃故郷の明るき砂丘と桑の色の・・思出されて
                                         
ふるさとの砂丘の畑は桑の芽ののびのしるけく蚕も生まれたらむ
大社祭近づきにけり吾が子らはいかにかすらむわびつつ思ふ        
      大社祭・・・・・・出雲大社の大祭礼(5月14日から三日間)
                                                                                                                                                 
  五月二十日に
                                         
大君の御楯たらむと出でし日のめぐり来りて一年を経し
産土に詣で祈らむうかららの姿しのばゆ若葉照る今日
      産土(うぶすな・・・・・・産土神の略、鎮守の神)
                                                                                                                                                 
  子らを夢見て
                                          
砂山に四人の吾子ら遊びゐて語らうさまをまざまざと見し
三歳の吾子の歩みのたどたどと砂山を行く心もとなさ    
      三歳の吾子・・・・・・満1歳だった三男
胡瓜もみのささやかにしてふる里の朝餉の膳を思い出したり   


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父の歌集より 20 従軍中に詠まれた歌 5 [父の歌集]

旧軍隊では兵士のかなりが日記を付けていたようです。父は日記に手記とともに歌を記していたのでしょう。中国で詠まれた歌のすべてが、心に浮かんだ言葉をそのまま書いたものと思われます。
                                         
   歩哨に立つ
                                                   
草の種子しきりにとびてゐたりけり秋日輝く衛戍地の原
      衛戍(えいじゅ)・・・・・・大日本帝国陸軍において、陸軍軍隊が永久に
  一つの地に配備駐屯することをいう。その土地を衛戍地と称した。
  (Wikipediaより)
                                                     
   行軍演習の途次
                                          
小春日に光り輝きゐたりけりほくけ開きし薄の穂群
焼くいもの香なつかし故郷の秋しのびつつ行く夕近き街
支那街の夕を行けば大餅のにほひしきりに空腹にしむ
                                                   
   銃剣術大会
                                         
小春日の光のどけき営庭におらびたけびつ兵はたたかふ
                                                     
   鎮江に来てはじめての便りを得たり
                                          
焼甘藷(やきいも)を食みつつ子等は噂すと妻は告げ来ぬいとしき子等よ
                                                   
   十二月末頃防寒シャツと共に蒸しいもの干したるを送り来ぬ
                                         
子等と共に作りし甘藷ぞ味はえと妻は送りぬうれしかりけり
                                                   
   二十年一月十九日、留守隊を挙げて本隊に追及せむとて鎮江を出発
   す。南京にて待機、やがて揚子江を遡航、武昌より汽車にて奥漢線
   白水の独歩五十二大隊に至る。我が属せしは第三中隊(溝口隊)な
   り。二月十一日、白水を立ち、徒歩汨羅に至る。
                                                   
漢詩を好んだ父は、ときおり岩波文庫の唐詩選などを開いていました。漢詩に疎い私でも、詩人であって政治家でもあった屈原を知っています。屈原ゆかりの汨羅を訪れて、父はどんな思いを抱いたことでしょう。
                                                   
汨羅に向かったのは、紀元節(今の建国記念日のもとになった日)である2月11日だったとのこと。その日は学校で記念式典があったはずですが、私にその記憶はありません。4月29日の天長節(戦前には天皇誕生日を天長節と称した)で、上級生たちと声を合わせて、天長節の歌を歌った記憶はあるのですが。(今日の良き日は大君の生まれたまいし良き日なり・・・・・・)
                                                   
吾子らいま御旗かかげて今日の日を祝ひてあらむ姿偲ばる
中隊に帰り行かむとみ雪ふみなづみつつ行く汝が父われは
                                          
戦前の記録映画などで、国の記念日を祝う国民の、日の丸の小旗を手にした姿を見ることができます。紀元節や天長節で旗を手にしていたのかどうか、私にその記憶はありません。天長節の歌や、出征兵士を送る歌の記憶はかなり鮮明に残っているのですが。
上記の歌の「み雪ふみなづみつつ行く」なる言葉が、2015年10月投稿の記事「戦時中の小学生……田舎の学校での思い出」 」を思い出させました。

 

  


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父の歌集より 19  従軍中に詠まれた歌 4 [父の歌集]

陸軍病院にひと月あまり入院していた父は、10月14日に退院して所属すべき隊にもどったようです。
                                                                                                                                                  
    十月十四日退院、十五日鎭江留守隊(中尾隊)に至る、
    十七日神嘗祭を赤飯もて祝ふ、あだかも郷村弥久賀社の祭なれば
ふるさとの祭の日なりうかららを心にしのびとほおろがみつ
幸魂奇魂吾を守りたまへうからも幸く守らせたまへ
たらちねも妻子らも武運いのりつつ詣でしならむ今日のみ祭に
                                                                                                                                                  
伊勢神宮で執り行われる神嘗祭(かんなめさい・・・・・・五穀豊穣の感謝祭)は 10月17日に行われるのですが、私の村の祭りも同じ10月17日です。私の生家から歩いて10分で行ける弥久賀神社は、出雲風土記(733年に編纂)にも、神門郡に存在する神社として記されています。出雲風土記では美久我社となっていますが、その場所として記されているのは、今の弥久賀神社の位置であり、現在は出雲観光ガイドに紹介記事が載っております。
                                                                                                                                                  
餓に苦しんだ各地の日本軍と較べたならば、支那派遣軍(日中戦争に際して派遣された日本陸軍)は食糧に恵まれていたようです。それにしても意外な感をおぼえます、「神嘗祭を赤飯もて祝ふ」なる言葉に。別の日に詠まれた歌では、空腹を嘆く気持が詠まれているのですが。父が歌に詠んだ昭和19年の神嘗祭の頃、フィリピンでは最初の特攻隊が出撃しています。
                                                                                                                                                  
    鎭江東南郊外丘陸地にて平群中尉計画指導する演習見学中
朝の霧未だはれやらぬ丘の上に秋のひばりの鳴きつづけたり
                                                                                                                                                  
    丘の上は一木も見えず、ただ古塔の上部半ば崩れ去りたるが
    見えるのみなり
いつの世にたてしものかも丘の上に半ば崩れし塔一つ見ゆ
                                                                                                                                                  
    丘のふもとよりうちつづく大豆畑は頂上稜線に及べり
秋深き大豆畑のひろがりのはるかにつづく黄いなるその色
甘藷の葉のややに色づきゐたりけりふるさとも今いも掘るならむ
くもり日の空気よどみてしづかなり遠き部落の声きこえ来る
                                                                                                                                                  
    十一月初旬はじめての行軍演習に軽装して出づ
麦すでに芽を出しゐたれ丘の上の朝の道ゆく心すかしも
刈田あとすき起しつつ牛叱る声のどかなり秋日和みて
小春日の刈り田の畔に幼子は独り遊びにふけりゐるかも
                                                                                                                   
中国で詠まれた父の歌には、働く農夫や遊んでいる子供が幾度も出てきます。日中戦争の不思議な情況と、戦闘に巻き込まれずにすんだ父の幸運を思います。

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父の歌集より 18  従軍中に詠まれた歌 3 [父の歌集]

昭和19年(1944年)の9月11日、父は急性腸炎にて陸軍病院に入院したとありますが、かなりの重症だったらしく、南京に置かれた中支防疫給水部に移されたとのこと。退院したのは10月14日とありますから、通常の急性腸炎ではなかったようです。
                                                                                                                                                  
  九月二十日頃中支防疫給水部に転送せらる、寝床のつれづれに
  しきりに故郷のことども思はれて
                                                                                                                                                  
病衣の肌寒々と冷えにける故郷の秋も深まりならむ
峡小田(たにおだ?)の垂穂しとどに露おきて霧おぼろなる故郷し思ほゆ
茸山に張りめぐらせる標縄に秋日照らむか故郷はいま
子等の声くぐもり聞こゆる茸山に光りかそけき故郷しのばゆ
露ふくむ実り田に立ち畑に立ち働き給ふ姿しのばゆ
ふるさとに残れる吾子ら甘藷畑にさざめきてあらめ秋深まれば
故郷のたよりを聞かずなりしよりすでに五十日となりにけるかも
久々に冷雨あかりて背にぬくき秋の日ざしのなつかしまれつ
吐く息のかすかに白く見えしより季節の移りをしみじみ思ふ
めされ来てすでに六月をすごしけり中支の秋も深まりにけり
 
                                                                                                                                                   
    村の祭も近づけば
                                                                                                                                                  
指折りて待ちつつあらむ子等の顔瞼に浮ぶ祭近づけば
たまさかの赤き着物をよろこびて人にほこりし吾子を思ふも
幼子の手ひきて神輿おがませし去年の祭の思はれにける
                                                                                                                                                  
私の村の祭りは10月17日です。父に連れられて神輿が通る様を見たようですが、5歳だった私にその記憶はありません。私に向けられた獅子舞の獅子頭におびえた記憶はかすかに残っているのですが。


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父の歌集より 17   従軍中に詠まれた歌 2 [父の歌集]

    はじめて故郷より便り来りぬ
                                                   
ふるさとの便りうれしも若草の子等すくすくと育ちゐるらし
送り来しうからの写真しみじみと見つめてあれば心怪しも
たどたどしき吾子の便りのかな文字を見つめて吾は心ともなし
                                                                                                                                                
出征中の父に私はハガキを書きました。母にすすめられても、小学校(当時は国民学校と呼ばれた)の1年生になったばかりの私には、書くべきことが思い浮かばず、母からヒントを与えられながら、習って間もないカタカナで、数行ほどの文字を綴っただけでした。父が歌集に書き残してくれたので、懐かしく思い出した次第です。わづか数行の拙い文章であろうと、父には貴重な便りだったはずです。父だけでなく、母の気持ちもわかるような気がします。 
                                                   
わがために陰膳すえて茶をいるく母の心に涙したれぬ
老松の梢透してさす日ざし砂にきらめく思ほゆ
ふるさとを遠おろかめば白砂のかがやく杜の目にありかよふ
                                                   
    本隊に追及せんとて南京集結、待機中幕府山より 八月末なり
                                                   
雲かげりここだうかべて長江は広く大きく流れたりけり
                                                  
     九月十一日急性腸炎のため南京第二陸軍病院に入院す
                                                   
父と同じ日に出征した同級生の父親は、戦時を無事に生き延びながら、復員の日を待っている間に、消化器系の病気で亡くなったと聞いております。
                                                   
えのころの実をついばみてゐたりけり病院の庭にあひるの群は
病院の朝のしじまやまなかひを動くともなく霧の流るし
患者独り死にてゐたりき朝さめて心むなしくただ見つめをり


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父の歌集より 16 に文章を追加 [父の歌集]

昨日の投稿記事「父の歌集より 16 出征兵士時代の歌 2」に文章を追加しました。追加した文章は下記文章の太字の部分です。

                                                   


父の歌集には戦闘に関する記述がなく、切迫した事態を伺わせる文章や歌は記されていません。射撃演習や行軍演習の合間に見た情景など、むしろ長閑な印象の歌が目立ちます。中国の子供や住民の様子を詠んだ歌がありますが、もしかすると、父が所属する部隊も、中国人に迷惑をかけていたのかも知れません。2020年12月18日に投稿した「『反日』や『自虐史観』を言い立てる者たちに読ませたい書物」によれば、食料が不足すれば中国人から奪い、川を渡る際に筏が必要となれば、中国人の家を壊してそれを作ったとのこと。父は中国でのことを話すことがなく、家族の者も問うことはありませんでした。中国での滞在場所を聞いたとき、「長沙に居た」と答えただけでした。

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父の歌集より 16  従軍中に詠まれた歌 1 [父の歌集]

出征してひと月半が経った頃の歌です。
                                                                                                                                                
父の歌集には戦闘に関する記述がなく、切迫した事態を伺わせる文章や歌は記されていません。射撃演習や行軍演習の合間に見た情景など、むしろ長閑な印象の歌が目立ちます。中国の子供や住民の様子を詠んだ歌もありますが、もしかすると父が所属する部隊も、中国人に迷惑をかけていたのかも知れません。2020年12月18日に投稿した「『反日』や『自虐史観』を言い立てる者たちに読ませたい書物」によれば、食料が不足すれば中国人から奪い、川を渡る際に筏が必要となれば、中国人の家を壊してそれを作ったとのこと。父は中国でのことを話すことがなく、家族の者も問うことはありませんでした。中国での滞在場所を聞いたとき、「長沙に居た」と答えただけでした。
                                                                                                                     
      
中国の地にありながら、常州の郊外に陸軍の演習場があったようです。日中戦争が7年余に及んだその頃、地域によってはそのような状況にあったということでしょうか。
                                                                                                                                                 
    七月十日頃にやありけむ射撃演習のためはじめて文在門
    教育隊営外に出でしをりに
                                                                                                                                                
城壁のほとりの草に咲きすめる露草の花はひそやかなるも
ひさびさに営外に出て畑つ物のびゆく見れば心たのしも
たまたまに風のわたればおほどかにゆらぎ光れるとうもろこしの葉
                                                                                                                                                
     はじめての行軍演習に城外北方に行きぬ
                                                                                                                                                 
白露にぬれし西瓜の葉を見れば心すがしも大陸の朝
露にぬれし西瓜畑のすがしさや大陸の朝は静かに明けし
いとけなき支那人の子が畑にゐて瓜の手入れにいそしみ居るも
水清きクリークのあり底砂に日かげゆらぎてあきつ飛び交う
                                                                                                                                                
    常州南門外演習場に日毎演練に行く
                                                                                                                                                 
街頭に甜瓜(マクワウリ)はむ支那人の日毎にふえて夏たけにけり
                                                                                                                                                 
    代用食に煮すぎしうどんを食はせられて
                                                                                                                                                
ふるさとの季節のもののなつかしき妻ならばかくすまじきものを
紫蘇の葉の香高きを瓜の実のすがすがしきを食みたく思ふ
                                                                                                                                                
    南門外演習場にて
                                                                                                                                                
一粒の苗代苺手にとりて心しみじみふるさとを思ふ
        苗代苺(なわしろいちご)・・・・・・野いちご
故郷も苗代苺熟れたらむ吾子等も日毎摘みつつあらむ
ふるさとを遠おろかめば目にうかぶ母の姿のなつかしきかも


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「父の歌集より 15」(1月20日投稿)に文章を追加 [父の歌集]

1月20日に投稿した「父の歌集より 15」に、40行ほど文章を追加しました。


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父の歌集より 15  出征兵士時代の歌 [父の歌集]

昭和12年(1937年)の夏以降から昭和19年(1944年)までに詠まれた歌は、なぜか記されていません。その間に詠まれた歌を選別し、後で書き加えるつもりだったのでしょうか、9ページ分の空白ページが閉じられています。歌を記したもとの用紙が見当たらないので、空白を埋めることはできません。その期間に4人の子供が生まれておりますから、私を含む子供について詠んだ歌が多かったと想像できるのですが。1ページに5首づつ記されているので、9ページには最大45首ほど記入できたはずです。
                                                                                                                     
私が小学校(戦前には国民学校と呼ばれた)に入学して間もない昭和19年(1944年)の5月、父は召集されて浜田連隊に入営しました。学校の校庭で行われた壮行式で、村人や生徒とともに並んで、私も「出征兵士を送る歌」を唄いました(付記)。6歳だった私に歌詞の意味はわからなかったのですが、今でも唄うことができます。父の壮行式しか記憶にないのですが、歌を覚えているのは、同じような壮行式に幾度も参加していたからでしょう。歌詞の1番は「わが大君に召されたる 命はえある朝ぼらけ 称えて送る一億の 歓呼は高く天をつく いざ征けつわもの日本男児」ですが、2番は出だしの「華と咲く身の感激を」しか記憶に残りませんでした。強く印象に残っているのは、壮行式の最後に、父が壇上で話していた姿と、最後に全員で万歳をしたことです。
                                                   
その壮行式で父と共に送られたのは、私の同級生の父親でした。その人も戦死することなく終戦を迎えながら、収容所で過ごした9ヶ月の間に病死したとのことです。父の手書きの歌集によれば、父も病気になって軍の病院に入院しています。非衛生的な環境での過酷な行軍など、発病の可能性大なる状況にあったとはいえ、太平洋の島や東南アジアで苦しんだ兵士と比べたならば、父は幸運だったと言うべきでしょう(「戦地での体験を語った物理学の先生    (2020.9.16)」参照)。
                                         
本ブログに父の詠歌を記していると、無事に生還してくれたことに対して、改めて感謝の念をおぼえます。そして、父の生前に歌集を読ませてもらわなかったことや、父の貴重な思い出を聞いておかなかったことを、とても残念に思います。
 
                                                   
父は昭和19年の春に召集され、中国へ出征しました。昭和12年春に詠まれた歌が記されたページから、9ページの余白を空けて、昭和19年の歌が記されております。
                                                   
                                                   
   Kに召集令状来る(K・・・・・・父の親友だった桑原氏)
大君の詔かしこみ出で立たす壮夫(ますらお)君に恙あらすな
                                                   
   仝五月我亦召集令来り五月 日入隊仝二十六日浜田発
   博多上船釜山にて乗車中支に向ふ
                                          
これ以降の歌は日本を離れてから詠まれた歌になります。父が中国へ向かった昭和19年は、日本の輸送船のかなりが、目的地に着くまでに撃沈される状況にありました。その危険を避けるためでしょう、父は朝鮮半島経由の列車で中国に向かっています。
                                         
浜田連隊を出発した日は5月26日と記されております。軍から家族に連絡があったのでしょう、母と私と伯父(当時すでに50代の半ばだった父の長兄)は浜田を訪れ、父を見送りました。多くの見送り人と駅の前に並んで、銃を肩に隊伍を組んで近づく兵士を迎えましたが、父の姿はわかりませんでした。兵士たちが乗り込んだ列車は窓が閉め切られたままでしたが、伯父と母の会話によれば、窓の内側にハンカチを押し当てている人が父だったようです。おそらくその前日に、出征兵士と家族の面会があったと思われますが、私にその記憶はまったくありません。
                                                   
                                                  
  北鮮にて
                                                   輸送車のひた走りゆく道の辺の野あやめの花目にしみて見ゆ
                                           
  仝じく
しろかきし水田に群れゐる白鷺のいよいよ白し影ひたしつつ
                                                   
  六月二日にやありけむ津浦線も浦口に近く満目唯波状に起伏する
  草原と水沢の間なりし
      津浦線・・・・・・天津と浦口(南京に近い都市)を結ぶ津浦鉄道
              水沢・・・・・・すいたく・・・・・・水のある沢あるいは湿地
やうやくに任地も近くなりにけり夏枯草(ウツボグサ)咲く中支の広野
      夏枯草・・・・・・カゴソウあるいはウツボグサと読む
中支那の広野をわたる六月の風にそよぎて輝く茅花
        茅花(つばな)・・・・・茅(ちがや)の花穂
幾山河遠く来りてもおのづから子等し思ほゆ茅花を見れば
                                                   
  六月六日南京を立ち常州に向ふ                                        
    南京から常州までの150Kmに近い道程を、重い背嚢(食料
    や銃弾など、総重量は40Kg程度に達したという)を背に
    て行軍したようです。1日に10時間以上を歩いたにしても、
    三日はかかったと思われます。肩にかついだ銃(4Kgの三八
    式歩兵銃)も重くじられたことでしょう。
クリークに銀とんぼいくつかとびてをり吾子とつりにしことしのばるる
クリークに菖蒲のびたり鯉のぼり立てつつあらめふるさとの子は
ふるさとの吾子はも庭に鯉のぼり立てつつあらめ菖蒲のびたり
われ三十八(みそや?)み軍人(いくさびと)とめされ来て麦秋の野をひた進みゆく
          われ三十八・・・・・・満36歳
み軍に出で征く我を見つめつつかすかに目ぬちうるませ給ひぬ
年老いし母はも日毎いのりつつ吾が子の我を待ち給ふらむ
すこやかにおはせど母は七十七わが帰るまで生きぬかせ給へ
    母は七十七・・・・・・満75歳
                                           
付記
小説「造花の香り」(本ブログの左サイドバーにて概要を紹介)に、出征する主人公のための壮行式が、国民学校の校庭で行われる場面がある。簡潔に描いたその情景を、私は父の壮行式を思い出しつつ書いた。
                                         
造花の香り 第三章 昭和十八年秋 より
 その日の午後、国民学校の校庭で行なわれた壮行式で、良太は村人からの声援をうけ、恩師でもある忠之の父親からは、心のこもった餞の言葉を贈られた。
  〈出征兵士を送る歌〉の斉唱をもって壮行式が終わると、家族と親戚はもとより近所の人にもつきそわれ、村内を通っている山陰本線の駅に向かった。子供のころから幾度となく汽車に乗り、そして降りた駅だった。
 汽車が動きだした。万歳の声とうち振られる国旗のなかに家族の姿があった。遠ざかるにつれて、家族の姿は人びとの中にまぎれていったけれども、国旗はなおしばらく、それ自体の存在を誇示するかのように見えていた。


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父の歌集より 14 [父の歌集]

昭和12年は1月のとんど焼の情景を詠んだ歌から記されています。歌に詠まれた子供たちは父の教え子たちでしょうか。
                                                   
                                                   
  昭和十二年  とんど焼
                                                    
書初を竹にはさみて荷ひつつさざめきつ行く子等の笑ましさ
二つ三つ餅をつなぎてうちふりつ走り行く子もたまたまにあり
雪消水にごり流るる溝川の根芹は芥を被りたりけり
火を放てばしばらくいぶり高々と燃え上りたり雪の河原に
焼落ちてくすぶる中に餅やきてゐる子等もあり雪投ぐる子もあり
左義長の河原いつしかに雪なげの場となりたり餘燼いぶりつ
          左義長(さぎちょう)・・・・・・とんど焼。小正月の火祭り行事
おのづから雪なげとなれば雪投にひた心なる童心のよさ
火も消えぬ雪投げも終りぬ幾群か群作りて子等帰りゆく
                                                   
                                                   
早春に母と結婚した父は、暖かくなった頃、母と連れだって三瓶温泉(志学温泉)に出かけます。
                                                   
枯草の広野明るき頃なれや白頭草も萌え出でにけり
       白頭草・・・・・・オキナグサの別名
白頭草の蕾なでつつ吾妹子の語らふ原に春日あまねし      
水樽の枯葉さやぎてありにけり妻と語らふ春の山辺に
登りきて尾根に息づく妻の肩大きく動くをいとほしみ見つ
吾妹子と唯二人ゐて思ふことなし日は暖に草萌えんとす


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父の歌集より 13 [父の歌集]

前回に続いて昭和11年に詠まれた歌を載せます。
                                                                                                                                                 
独身時代の私の母は、教師だった兄の任地である鎌手(島根県の西部)に行き、そこにしばらく滞在したとのこと。共稼ぎだった兄(夫婦共に教師)の家で、幼児の面倒をみたようです。父は婚約者(私の母)が滞在する鎌手を訪ね、数首の歌を詠んでいます。
                                                                                                                                                 
   鎌手にゆく                                                                                                                                  
しばらくをさかり住むべき吾妹子と思つつ吾はいきどほろしき
はるばると夜訪れて行きしかば驚きて出でぬいとしき吾妹
                                                                                                                                                 
早苗田に朝てる日ざし明ければしきり鳴きゐる遠行行子
        行行子(ギョウギョウシ)・・・・・オオヨシきりの別名
日は未だこの山かげをてらさざり紫の藤は咲きひそまりぬ
柿若葉光ゆらぎてゐたりけり積乱雲はややに動きつ
よしきりのしきりにさわぎゐたりけり雨雲ひくくひそまる湖に
雨もよほすや水輪描きつ水馬のあまた走りをりがまの群立ち
      水馬・・・・・・あめんぼ
曇る日の空をうつしてひそまれる湖底ゆのびし藻草動かず
窓近き柿の若葉に降る雨の思のほかに冷えたりにけり
雨雲のややに切れゆく夕明りならせる水田のうすら光りぬ
                                                                                                                                                 
 鎌手行                                                                                                                                                
麦秋の丘の小家のひそけさや門近くほすふかのひれかも
                                                                                                                                                 
虫とりつやもりは壁をはひゐたり宿直の夜の修善寺物語
       修禅寺物語・・・・・・岡本綺堂作の 戯曲   
  宿直・・・・・・数十年前までの学校では、教師が交代で学校に泊まる宿直
       当番制度がありました。
夜叉王が血にそむ面を手にとりて息つぎがてに見つむるところ
     夜叉王が血にそむ面を手にとりて・・・・・・修禅寺物語の主人公である夜叉
  王(面造り師)が、血に染まった面を持って眺める場面
日でり雲今日もうかびてゐたりけり青葉まぶしく目にしみて見ゆ
からつゆにかはき切りたる朝の道死にゐる蛇のうろこ光つ
梅雨はれて今朝の日ざしのうすうすと若竹の茎は光りたりけり
小春日の屋根にさす日の明るさや晩きとんぼの止りたる見ゆ
朝毎に来なく百舌の音いつしかに雀の声をまねびたるかも


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父の歌集より 12 [父の歌集]

昭和11年(1936年)に詠まれた歌です。教師になって7年目のこの年、2月からは婚約者に関わる歌が詠まれるようになります。その1年後に母と結婚したわけですが、晩年の母からしばしば、結婚に至るまでのことを聞かされたものです。
                                                                                                                                                 
風むかふ鴎の一羽光り見ゆ岩まき砕く荒海の空に
寒あきて和む端山立上る煙おほらかに青みたりけり
夕づきて堤にさす日の寂けさやのびつらしたる土筆は光り
アカシアの芽ぶきそめつつ砂山に日かげあかるしてりわたりけり
花ぐもる海のしづかさや一隻の漁船は沖にこぎさかりけり
        花曇り・・・・・・桜の花が咲く時期の曇った天気・春の季語
ぎぼうしゆの巻葉あかるく降りてゐる春雨は未だやまざりにけり
松の葉をもれすきて見ゆる春雨の空明くして芽木のさやけき
                                                                                                                                                 
二月一日
汝が妻となりなむ人に出すべき餅なればよく焼きねといふも
                                                                                                                                                 
寒あきのややに近づく夜の冷えを餅やきゐつつしづ心なけれ
飯もるとたゆなひながらさし出すその手にふれて心あやしも
此頃は歩む音さへ心つけてしづかになりぬ愛しき吾妹(わぎも)
酔ひて吐くわか背をなでつわぎも子は何かいひをり何かいひをり
短夜のあけの早さよわぎも子と語りてあれば外の面白みぬ
わぎも子に分れかへりゆく朝の道咲きさかりゐる月見草かも


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父の歌集より 11  [父の歌集]

昭和10年(1935年)に詠まれた歌です。

                                                                                                                                                 

砂山に日はくれはてて麦をやく火のあかあかともゆるひそけさ

照りつづき幾日へぬらむ此の雨に綿すがすがし露ふくむ花

松山を出づればひろごる新畑の甘藷未だ小さしとんぼうのとぶ

土用の日粉煙草吸へば午すぎをただに蝉なくことのものうさ

煙草つきて鑵に残りし粉煙草を吸ひつつあれば父し偲ばゆ

父死にてすでに三年をすぎにけり粉煙草をすひつつしみじみと思ふ

とんぼうの 太藺(ふとい)の下をとびてゐる乏しき水にうつる白くも

         太藺・・・・・・池や沼に生える1~2mの草

稲の花かすかににほふ雨あがり池にうつりて行く秋の雲

法師蟬鳴きどよもしてゐたりけり稲花に咲きてにほふ曇り日

山畑の粟の色づく頃なれや百舌の高音のすみとほりきこゆ

新稲のみのりそめたるこの朝けそこここに冴ゆる空銃の音

          空銃・・・・・・雀を追い払うために、竹筒の水にカーバイドを入れ、

        発生したガスに点火して爆発させる。

白々と桑のうれ葉にふりそそぐ今朝の雨かも秋冷えにけり

刈りとりて畑の隅によこたへし枯甘藷蔓に置ける初霜

いてふ(銀杏)の葉しきりに落ちてゐたりけり時雨の庭の風寒けきに

はるはると冬田の果に靄こめり凪ぐ月の夜を五位鳴きわたる

       五位・・・・・・五位鷺

とどろ波よする荒磯に立つ巌のゆるかぬ御代にあひしものかも

はるばると空に連なる五百重波海上の果に立つ雲のゆゆし

      五百重波(いほえなみ、いおえなみ)・・・・・・幾重にも重なって

  立つ波から立つにかかる言葉


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