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靖国神社の存在意義 [戦争犠牲者追悼施設]

靖国神社に対しては様々な考え方があり、議論の対象になってきたけれども、以前の私はさほどに関心が無かった。そんな私だったが、小説「造花の香り」(本ブログの左サイドバーにて概要を紹介。小説投稿サイトの「カクヨム」や「小説家になろう」でも自由に読むことができる)を書いたことにより、強い関心を抱くことになった。というわけで、本ブログで幾度も靖国神社をとりあげている。(付記1参照)
                                           
霊魂の実在を知っている私は(付記2参照)、戦死者の霊が靖国神社に居るとは思っていない。そうであろうと、靖国神社には存在価値があると考えている。戦死者とその遺族の思いがこめられた対象だからである。
                                           
特攻隊員の遺書には、「靖国の神になる」「自分に会いたくなったら靖国神社に来てほしい」などの言葉が記されているものがある。その一例として、特攻隊員植村眞久が幼い愛児に遺した遺書を、ここで紹介させてもらいたいと思う。「雲ながるる果てに」など特攻隊員の遺稿集に掲載されたためであろうか、あちこちに引用されている文章である。ユーチューブでは、俳優だった鶴田浩二がこの遺書を涙ながらに読んだあと、「同期の桜」を歌う動画が見られる。(ユーチューブ:同期の桜 鶴田浩二 涙の遺書朗読)
                                           
特攻隊員植村眞久の愛児への遺書
  
  素子
  素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入つたこともありました。
  素子が大きくなつて私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。私の写真帳も、お前の為に家に残して在ります。
  素子といふ名前は私がつけたのです。
  素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。
  私はお前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合せになつたのをみとどけたいのですが、 若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても決して悲しんではなりません。
  お前が大きくなつて、父に会いたい時は九段(注:戦前には靖国神社を意味した)へいらつしやい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。またお前の祖父様、祖母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、 御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護つて居ります。優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。
   お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。
   昭和十九年○月吉日 
                                           
 植村素子ヘ
   追伸、素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。
                                           
ネットに出ている遺書の写真を見ると(1枚目の文章しか見ることができないのだが)、流布されている上記の文章には省略されたところがありそうである。
                                           
ネットにて、成人した素子さんが文金高島田に振袖を着て、靖国神社で奉納舞をしている写真を見ることができる。日本舞踊「桜変奏曲」だったとのこと。写真には、故植村氏の戦友たちとされる人達の姿も撮されている。
                                           
戦死者の遺族や仲間を失いながら生き残った戦友たちが、靖国神社に特別な感情を抱くのは当然であろう。生き残った元特攻隊員のなかには、「靖国で会おう」を合い言葉に出撃した仲間に対して、負い目を覚えつつ靖国神社を訪ねた人もいたようである。そのようなひとには貴重な靖国神社だが、将来においてはどうであろうか。一部の右翼主義者によって、愛国の象徴にされたり、自衛隊賛美の手段にされたりしなければよいのだが。
                                           
付記1 靖国神社について書いた本ブログの記事

付記2 本ブログに投稿した霊魂の実在に関わる主な記事


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全国戦没者追悼式に思う [戦争犠牲者追悼施設]

終戦記念日恒例の全国戦没者追悼式が、例年通りに武道館で行われた。これまでは6000人程度だった参加遺族も、コロナ禍の渦中ということもあり、今年の参加者は10分の1だった。たとえコロナ問題がなかったにしても、遺族が高齢となったいま、参加者は減ってゆくはずである。


この式典で追悼の対象とされるのは、「全国戦没者之霊」と記された白木の標柱である。この式典のテレビ中継を見るたびに、私は疑問と不満を抱いてきた。戦争犠牲者のための国立慰霊碑が、未だに建立されないのはどうしたことか。というわけで、8月15日の本ブログには、そのことを書くのが恒例になっている。それらをここに列挙してみる。








クリックすればいずれも読んでもらえるのだが、「戦争犠牲者の追悼について・・・・・・慰霊碑・記念碑・そして祈念碑」をここに引用してみる。


戦争犠牲者の追悼について……慰霊碑・記念碑・そして祈念碑(2015.8.17投稿)より


きょうの記事は、8月15日に書いた「靖国神社に代わる追悼施設とは」の続きであるが、広島の原爆死没者慰霊碑のことから書きはじめようと思う。
  広島平和記念公園にあるその慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれている。この「過ちは 繰返しませぬから」なる言葉の主語がなんであるのか、これまで繰り返し問われてきたが、広島市のホームページによれば、「ヒロシマの悲劇を繰返すなは人類共有の願であり、『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』の主語は『人類全体』である。原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないからである」となっている。
「過ちは 繰返しませぬから」の主語は「全人類」とのこと。戦争の過ちを犯してきた、あるいは過ちを犯す虞のある「人類」は、全人類の中のどんな「人類」であろうか。
 戦争を望んだ者や戦争を引き起こした者、戦争を煽った者と煽られた者、深く考えることなく付和雷同した者、心ならずも戦争に協力した者、非戦を願いながらも何もなし得なかった者、そして、罪なき人々を無残に殺戮した者たち。これらの「・・・・・・者」たちは、当然ながら「過ちは繰返しませぬから」の主語になろうが、「・・・・・・者」に該当しない者もまた、異なる意味では主語になり得るだろう。過去を悔い、犠牲者に謝罪する立場にあるのは、上記の「・・・・・・者」たちだが、未来に向かって平和を誓う立場に立てば、人類すべてがあの言葉の主語となる。広島市の見解に対して異論を唱えるむきも多いらしいが、私はその見解を妥当なものと考える。
 8月15日に記した記事で、戦争の記憶を伝える記念碑として、そして平和を祈る祈念碑として、大きな墓標を建立すべく提案したのだが、それが実現した場合、その碑銘にふさわしいのは如何なる言葉だろうか。広島や長崎の原爆被災は膨大なものであったが、それよりもはるかに多い犠牲者を対象とする慰霊碑であり、永遠の非戦を願い、不戦を誓う祈念碑である。戦争を体験した者が抱く戦争を憎む気持ちを、将来の日本人に伝え続けるための象徴である。大きなその墓標に刻まれる碑銘は、将来の日本人に過去を振り返らせ、不戦を誓い続けさせるものでなければならない。そのような祈念碑の建立が、遠くない日に実現するよう願っている。

 この記事に対するあなたの感想は如何でしょうか。主旨に賛同していただけるなら、友人や知人の方々に、このブログの趣旨をお伝え願いたく、宜しくお願い致します。
 


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戦争犠牲者慰霊碑が果たす役割 [戦争犠牲者追悼施設]

令和になって最初の全国戦没者追悼式が行われ、式場の日本武道館には5300人の遺族が参加したという。朝日新聞夕刊の1面には、会場に向かう高齢の参加者たちの写真が載っているのだが、参列した遺族の30%は戦後産まれだという。それにしてもである、このような式典が追悼施設ではなく、武道館のような会場で行われる状態がいつまで続くのだろうか。


きょうは本ブログを開設してから5回目の終戦記念日になる。8月15日に投稿してきた記事は、ほとんどが戦争犠牲者のための慰霊に関わる記事であり、当然ながら靖国神社にも触れている。2019年2月6日に投稿した記事「靖国神社と仏壇・・・・・・霊魂の居場所について」の末尾には、それらの記事が列挙され、クリックすればもとの記事を読んでもらえるようにしてある。きょうの記事の末尾にも、それらの記事を列挙しておく。



戦争に勝った側が戦勝記念碑を作るのは、凱旋門のようにいくつも例がある。敗戦した側が作るのは、敗戦記念碑ではなく慰霊碑であり、原爆に被災した広島と長崎や、大空襲で一夜に10万人以上も犠牲にされた東京には、慰霊と平和を祈念する施設がある。本来ならば、国によって建立されるべきはずの慰霊と平和祈念のための国立施設は、不思議なことに未だに存在しない。


史上空前の第二次世界大戦に関わり、原爆被災を含む空前の痛苦と災害を蒙ったこの国でありながら、国によって建立されるべき慰霊碑がない。そのような施設の建立に執拗に反対する者たちは、靖国神社があれば充分だと主張しているのだが、靖国神社は戦死した兵士を祀る神社であって、原爆を含む空襲による犠牲者などには関わりのない施設である。にもかかわらず国立の追悼施設に反対する者たちは、異常なほどに狭量な人間としか思えないのだが、多くの国民がそのことに言及しないのはなぜであろうか。



国立の追悼施設が作られたなら、それは慰霊碑を超えた存在になるだろう。将来の日本人は、日本史を学ぶ過程であの戦争を知ることになるわけだが、首都のどこかに建立された大きな慰霊碑は、学校教育にもまして、反戦の思想を如実に伝えるだろう。その慰霊碑に刻まれる言葉によって、その碑は戦争犠牲者の慰霊碑にとどまらず、あの戦争を悔いる記念碑となり、反戦平和を願う祈念碑となり、ひいては、世界中に平和の尊さを訴える象徴的な存在にもなり得るだろう。あの戦争を歴史の中に閉じ込めることなく、戦争を憎む感情を永続的に、そして眼に見える形で遺してこそ、あの戦争によって犠牲になった、国内外の膨大な犠牲者を真に慰め、その犠牲を無駄にしないことになるはずである。


付記

戦争犠牲者の追悼施設に関わる過去の投稿記事



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終戦記念日に思うこと [戦争犠牲者追悼施設]

日本の敗北によって戦争が終わったことを知ったのは、村の神社に近い畑道を歩いているときだった。畑で働いていた中年女性が、通りかかった知人に向かって声をかけた、「負けてしまったねー、戦争」と。私は昼食を終えてから出かけていたはずだが、母からも近所の人たちからも敗戦を知らされていなかった。私が国民学校2年生だった昭和20年8月で、ラジオのある家が少なかった頃である。天皇の「玉音放送」は正午に始まったようだが、それを聴いた村人はごくわずかだったと思われる。


いかにも無念そうな「負けてしまったねー、戦争」であったが、声の主は敗戦を知った直後であっても畑に出ていたことになる。いかに大きなショックを受けようと、そのために畑仕事を休むわけにはいかなかったのだろう。私の父を含めて村の男の多くが出征しており、女と子供が農作業の重要な担い手だった時代である。私がどんな目的でそこを歩いていたのか記憶にないが、敗戦を知ったその時刻は、8月15日の午後2時から5時の間だったと思われる。晴れた暑い日で、日暮れまでには時間がある時刻だった。


私がもう少し早熟であったなら、戦争に負けたことを知って動揺したかも知れないのだが、7歳だった私は格別の感慨を覚えなかった。とはいえ、畑道で耳にした「負けてしまったねー、戦争」なる声と口調は鮮明に記憶している。特攻隊のことは国民学校1年生時の担任教師から聞かされたのだが、その時の先生の表情と口調も、今なお鮮明に記憶している(注)。大人が悲壮な思いをこめて口にする言葉は、幼少の者にも強い印象を残すということである。


きょうは平成時代で最後に迎える終戦記念日であり、戦争による犠牲者の慰霊に尽くされた今の天皇にとっては、全国戦没者追悼式に臨まれる最後の式典となった。天皇の声を耳にしていると、語られる言葉の多くが官僚による作文であろうと、その声には心が込められていると感じた。安倍首相の言葉も基本的なところは官僚の作文によるのだろうが、私にはそれが空々しいものに聞こえた。安倍首相の過去から現在に至る言動と、政治に向き合うその姿勢が、私にそんな思いを抱かせる。


日本武道館で行われた式典に先だって、安倍首相は千鳥ヶ淵戦没者墓園を訪れたという。その墓園にはむろん存在意義があるわけだが、12日に投稿した記事「靖国神社に代わるべき施設について」に記したように、本来ならあってしかるべき「大きな墓標」を建立してもらいたいものである。それは、戦争犠牲者の追悼施設であるのみならず、あの戦争を忘れないための記念碑となり、非戦を願う祈念碑となり、不戦を誓ううえでの象徴的な施設となるはずである。


(注)特攻隊について
私が書いた小説「造花の香り」(本ブログの左側サイドバーに概要を掲示)のあとがきに、特攻隊の話を聞かされたときのことが記されている。昭和19年の10月で、私は国民学校の1年生だった。2015年10月16日に投稿した本ブログの記事「特攻隊要員の搭乗機を見送った日のこと」には、私が特攻隊員たちの搭乗機を見送った思い出が記されている。
             
             
             
             
             



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靖国神社に代わる追悼施設とは その2 [戦争犠牲者追悼施設]

終戦記念日のきょうは全国戦没者追悼式が行われ、日本武道館からのテレビ中継があった。戦後も72年を経た式典であり、参加した遺族等は約6200人だったという。


一昨年の8月15日にも、「靖国神社に代わる追悼施設とは」なるタイトルの記事を投稿している。さきほどその記事を読み返した結果、ふたたびここに掲載したくなった。


2015年8月15日の記事「靖国神社に代わる追悼施設とは」より転載


終戦記念日のきょうは全国戦没者追悼式が行われ、日本武道館からのテレビ中継があった。戦後も70年を経て、参列した遺族6000人のほとんどは高齢者である。


白木の標柱に記された「全国戦没者之霊」なる文字を見ながら、私はあらためて思った。戦後の70年を経てもなお、戦争犠牲者を慰霊するための国立の施設は存在しない。靖国神社は戦死者を祀るとともに、戦死者を顕彰するためのものであり、原爆や空襲による犠牲者などは対象にしていない。したがって、靖国神社は本来の追悼施設とはなりえない。


靖国神社に代わる追悼施設を作るべしとの声があるけれども、それだと戦死者しか祀らない施設を新たに作ることになる。新たに作るのであれば、戦災による犠牲者をも含めた追悼施設でなければならず、それは靖国神社に代わるものではないはずである。


靖国神社に代わるものとして、無宗教の追悼施設を作ろうとする案が提唱されている。それに対しては、追悼施設が無宗教ではあり得ないとの異論がある。


戦争犠牲者を追悼するための施設はいかにあるべきか。それに対する私の見解を、終戦記念日のブログに書くことにした。


戦争による犠牲者のための追悼施設を墓標と見なし、国立の慰霊施設として作ること。それが私の提案である。犠牲者が如何なる宗教を信じていたにしろ、そして追悼する人が如何なる宗教を信じているにしろ、その墓標を前にすることは可能である。ここで言う墓標は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑のごとき墓とは異なるもので、戦争犠牲者を悼むための象徴的な施設である。


あの戦争の犠牲者を追悼するための施設は、あの戦争を忘れないための記念碑でもあり、非戦を願う祈念碑であって、不戦を誓ううえでの象徴的な施設でもある。遠い将来にわたって、日本人が過去を振り返り、不戦を誓い続けるうえでの象徴。そのような象徴たるべき墓標の建立こそが、戦争で犠牲になった人々の霊を慰め、その犠牲を無にしないための、最も望ましいあり方ではなかろうか。


このような考えを持つに至ったのは、小説「造花の香り」を書いているときだった。2015年8月10日の記事「靖国神社の英霊たちは何を望むのか」にも引用したが、 特攻隊員を主人公とする「造花の香り」(本ブログの左サイドバーに紹介記事あり。アマゾンの電子書籍であるキンドル本として公開中)の中に、次のような文章がある。出撃基地で待機中の主人公が、親友に遺すノートに記した言葉である。

「造花の香り 第六章」より引用
…………今日は一緒に出撃する仲間たちと散歩にでかけ、辺りの景色を眺めながら雑談のひとときを過ごした。
 …………靖国神社を話題にしたとき、出撃に際して交わされる「靖国で会おう」という言葉は、気持を通い合わせるうえでの合言葉の如きものだと仲間が言った。軍とは関わりのない忠之にも理解できると思う。俺の隊にはキリスト教徒がいるのだが、その仲間ですら言うのだ。自分は靖国神社に祀られるつもりは全くないが、出撃に際しては靖国で会おうという言葉を口にするかも知れない。かく言う俺自身の気持を言えば、その言葉を残して出撃することになろうと、神社に留まるつもりは少しもない。神社の中に閉じこもっているより、俺の家族とお前や千鶴の気持にいつでも応えられるよう、宇宙の中で自由に羽ばたいていたいと思う。俺自身は靖国神社を必要としないが、家族にとっては靖国神社が俺の墓標の如き存在になるだろう。俺が英霊として崇敬されていることを確認できる場所にもなるだろう。それは俺の場合に限らないわけだが、キリスト教徒の場合にはどうであろうか。殉国の至情に燃えているその仲間のことを思えば、国に命を捧げた者のための象徴的な墓標は、靖国神社のほかにも必要ではないかと思う。日本人が過去を振り返り、未来を考えるためにも、空襲の犠牲者などをも対象にした、大きな墓標をしっかりと打ち建てるべきではないか。これを記しているうちに、俺はその実現を強く願うに至ったのだが、忠之はどう思うだろうか。  (引用おわり)

 作中の文章「これを記しているうちに、俺はその実現を強く願うに至ったのだが、忠之はどう思うだろうか」は、小説を書いているときの私自身の気持ちであった。
 このブログを読んでくださった方々は、はたしてどんな感想を抱かれるだろうか。共感してくださるにしろ、反発されるにしろ、少しでも多くのひとに読んでもらえるよう願っている。さらには、 8月10日の記事「靖国神社の英霊たちは何を望むのか」も併せて読んでいただきたいと思う。

 この記事を読んでくださったあなたは、如何なる感想をお持ちでしょうか。主旨に賛同していただけるなら、友人や知人の方々に、このブログの趣旨をお伝え願いたく、宜しくお願いします。(旧記事よりの転載おわり

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戦争犠牲者の追悼について……慰霊碑・記念碑・そして祈念碑 [戦争犠牲者追悼施設]

 きょうの記事は、8月15日に書いた「靖国神社に代わる追悼施設とは」の続きであるが、広島の原爆死没者慰霊碑のことから書きはじめようと思う。
  広島平和記念公園にあるその慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれている。この「過ちは 繰返しませぬから」なる言葉の主語がなんであるのか、これまで繰り返し問われてきたが、広島市のホームページによれば、「ヒロシマの悲劇を繰返すなは人類共有の願であり、『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』の主語は『人類全体』である。原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないからである」となっている。
「過ちは 繰返しませぬから」の主語は「全人類」とのこと。戦争の過ちを犯してきた、あるいは過ちを犯す虞のある「人類」は、全人類の中のどんな「人類」であろうか。
 戦争を望んだ者や戦争を引き起こした者、戦争を煽った者と煽られた者、深く考えることなく付和雷同した者、心ならずも戦争に協力した者、非戦を願いながらも何もなし得なかった者、そして、罪なき人々を無残に殺戮した者たち。これらの「・・・・・・者」たちは、当然ながら「過ちは繰返しませぬから」の主語になろうが、「・・・・・・者」に該当しない者もまた、異なる意味では主語になり得るだろう。過去を悔い、犠牲者に謝罪する立場にあるのは、上記の「・・・・・・者」たちだが、未来に向かって平和を誓う立場に立てば、人類すべてがあの言葉の主語となる。広島市の見解に対して異論を唱えるむきも多いらしいが、私はその見解を妥当なものと考える。
 8月15日に記した記事で、戦争の記憶を伝える記念碑として、そして平和を祈る祈念碑として、大きな墓標を建立すべく提案したのだが、それが実現した場合、その碑銘にふさわしいのは如何なる言葉だろうか。広島や長崎の原爆被災は膨大なものであったが、それよりもはるかに多い犠牲者を対象とする慰霊碑であり、永遠の非戦を願い、不戦を誓う祈念碑である。戦争を体験した者が抱く戦争を憎む気持ちを、将来の日本人に伝え続けるための象徴である。大きなその墓標に刻まれる碑銘は、将来の日本人に過去を振り返らせ、不戦を誓い続けさせるものでなければならない。そのような祈念碑の建立が、遠くない日に実現するよう願っている。

 この記事に対するあなたの感想は如何でしょうか。主旨に賛同していただけるなら、友人や知人の方々に、このブログの趣旨をお伝え願いたく、宜しくお願い致します。

靖国神社に代わる追悼施設とは [戦争犠牲者追悼施設]

  終戦記念日のきょうは全国戦没者追悼式が行われ、日本武道館からのテレビ中継があった。戦後も70年を経て、参加した遺族6000人のほとんどは高齢者である。
  白木の標柱に記された「全国戦没者之霊」なる文字を見ながら、私はあらためて思った。戦後の70年を経てもなお、戦争犠牲者を慰霊するための国立の施設は存在しない。靖国神社は戦死者を祀るとともに、戦死者を顕彰するためのものであり、原爆や空襲による犠牲者などは対象にしていない。したがって、靖国神社は本来の追悼施設とはなりえない。
 靖国神社に代わる追悼施設を作るべしとの声があるけれども、それだと戦死者しか祀らない施設を新たに作ることになる。新たに作るのであれば、戦災による犠牲者をも含めた追悼施設でなければならず、それは靖国神社に代わるものではないはずである。
  靖国神社に代わるものとして、無宗教の追悼施設を作ろうとする案が提唱されている。それに対しては、追悼施設が無宗教ではあり得ないとの異論がある。
  戦争犠牲者を追悼するための施設はいかにあるべきか。それに対する私の見解を、終戦記念日のブログに書くことにした。
 戦争による犠牲者のための追悼施設を墓標と見なし、国立の慰霊施設として作ること。それが私の提案である。犠牲者が如何なる宗教を信じていたにしろ、そして追悼する人が如何なる宗教を信じているにしろ、その墓標を前にすることは可能である。ここで言う墓標は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑のごとき墓とは異なるもので、戦争犠牲者を悼むための象徴的な施設である。
 あの戦争の犠牲者を追悼するための施設は、あの戦争を忘れないための記念碑でもあり、非戦を願う祈念碑であって、不戦を誓ううえでの象徴的な施設でもある。遠い将来にわたって、日本人が過去を振り返り、不戦を誓い続けるうえでの象徴。そのような象徴たるべき墓標の建立こそが、戦争で犠牲になった人々の霊を慰め、その犠牲を無にしないための、最も望ましいあり方ではなかろうか。
   このような考えを持つに至ったのは、小説「造花の香り」(本ブログの左サイドバーにて概要を紹介)を書いているときだった。8月10日の記事「靖国神社の英霊たちは何を望むのか」にも引用したが、 特攻隊員を主人公とする「造花の香り」(アマゾンの電子書籍であるキンドル本として公開中)の中に、次のような文章がある。出撃基地で待機中の主人公が、親友に遺すノートに記した言葉である。

「造花の香り 第六章」より引用
…………今日は一緒に出撃する仲間たちと散歩にでかけ、辺りの景色を眺めながら雑談のひとときを過ごした。
 …………靖国神社を話題にしたとき、出撃に際して交わされる「靖国で会おう」という言葉は、気持を通い合わせるうえでの合言葉の如きものだと仲間が言った。軍とは関わりのない忠之にも理解できると思う。俺の隊にはキリスト教徒がいるのだが、その仲間ですら言うのだ。自分は靖国神社に祀られるつもりは全くないが、出撃に際しては靖国で会おうという言葉を口にするかも知れない。かく言う俺自身の気持を言えば、その言葉を残して出撃することになろうと、神社に留まるつもりは少しもない。神社の中に閉じこもっているより、俺の家族とお前や千鶴の気持にいつでも応えられるよう、宇宙の中で自由に羽ばたいていたいと思う。俺自身は靖国神社を必要としないが、家族にとっては靖国神社が俺の墓標の如き存在になるだろう。俺が英霊として崇敬されていることを確認できる場所にもなるだろう。それは俺の場合に限らないわけだが、キリスト教徒の場合にはどうであろうか。殉国の至情に燃えているその仲間のことを思えば、国に命を捧げた者のための象徴的な墓標は、靖国神社のほかにも必要ではないかと思う。日本人が過去を振り返り、未来を考えるためにも、空襲の犠牲者などをも対象にした、大きな墓標をしっかりと打ち建てるべきではないか。これを記しているうちに、俺はその実現を強く願うに至ったのだが、忠之はどう思うだろうか。  (引用おわり)

 作中の文章「これを記しているうちに、俺はその実現を強く願うに至ったのだが、忠之はどう思うだろうか」は、小説を書いているときの私自身の気持ちであった。
 このブログを読んでくださった方々は、はたしてどんな感想を抱かれるだろうか。共感してくださるにしろ、反発されるにしろ、少しでも多くのひとに読んでもらえるよう願っている。さらには、 2015年8月10日の記事「靖国神社の英霊たちは何を望むのか」(記事のカテゴリーは靖国神社)も併せて読んでいただきたいと思う。

 この記事を読んでくださったあなたは、如何なる感想をお持ちでしょうか。主旨に賛同していただけるなら、友人や知人の方々に、このブログの趣旨をお伝え願いたく、宜しくお願いします。


靖国神社の英霊たちは何を望むのか [戦争犠牲者追悼施設]

 特攻隊員を主人公とする小説「造花の香り」(アマゾンの電子書籍であるキンドル本として公開中。本ブログの左サイドバーにて概要を紹介)は、主人公である良太の元婚約者が、良太の親友と一緒に靖国神社を訪ねるところから始まる。彼らが靖国神社を訪れるのは、祭神の良太に会うためというより、良太の願望を実現したいがためである。
 主人公が特攻隊員となって出撃する物語ということもあり、「造花の香り」には靖国神社に関わる記述が幾度も現れるのだが、あとがきでは靖国神社に触れていない。というわけで、靖国神社についての見解をここに記すことにした。
 「靖国で会おう」を合い言葉に死んでいった身内を想い、靖国神社に格別な感情を抱くひとがいる一方で、その存在を否定するひとも少なくはない。国民に戦争を受け入れさせ、戦死をも許容させるうえで、靖国神社が大きな役割を果たしたからである。
 国民と他国の人々を痛苦の極みに置き、悲嘆の底につき落としたあの戦争は、当時の為政者たちによる、究極の過ちとも言える政策によってもたらされた。自存自衛のための戦争として、あの戦争を正当化する声もあるようだが、内外に極限の痛苦と悲劇をもたらす戦争を、そして、日本を破滅のふちに追い込んだあの戦争を、いかなる言葉をもってしても擁護することはできない。にもかかわらず、靖国神社はあの戦争を正当化しているかに見える。あの戦争を不当なものとしたなら、戦争に駆り出して、苦悶のうちに死なせたひとに対して申し開きできない、というのであろうか。戦争の正当化をもって戦死を美化したならば、戦死者の霊を愚弄することになるはず。戦没者の御霊に対して過去の過ちを深く謝罪すること、それこそが正しいあり方ではないのか。
 戦死した身内の者に想いを致し、靖国神社を心の拠り所としているひとはともかく、身内に戦死者がいないにも拘わらず、靖国神社を尊崇しているひとたちは、いかなる心情を抱いているのだろうか。戦没者に対する畏敬と哀悼の念?それとも・・・・・・・?
 日本を戦争のできる国(一部の政治家が口にする普通の国?)にすべく意図する者にとっては、英霊を祀る神社は貴重な存在であろう。そう思えば、靖国神社に参拝した政治家の、「国に命を捧げた英霊に尊崇の念を表し、その霊を慰める」なる言葉が、どうしても気になってくる。英霊と呼ばれている御霊たちは、政治家たちのその言葉を聞いて、もしかすると不安を覚えているのではないか。憎んでも憎みきれない戦争により、いつかまた、新たな「英霊」が祀られることになりはしないだろうか、と。
このように書いた私だが、靖国神社を否定するつもりはまったくない。靖国神社を尊崇する遺族と、戦争を呪いつつ犠牲になりながらも、英霊として祀られることに救いを求めていた御霊があるからである。とはいえ、英霊と称されている御霊たちには、無限に拡がる霊界で、自由に楽しく暮らしてもらいたい。狭い神社の中に鎮座しているよりも、その方がはるかに好ましく、御霊たちも望むところだろう。霊魂の実在を知っている私にすれば、そのように願わずにはいられない。
特攻隊員を主人公とする小説「造花の香り」(アマゾンの電子書籍であるキンドル本として公開中。本ブログの左側サイドバーに概要を表示)の中に、次のような文章がある。鹿屋の出撃基地で待機中の良太が、親友に遺すノートに記した言葉である。

「造花の香り 第六章」より引用
 …………今日は一緒に出撃する仲間たちと散歩にでかけ、辺りの景色を眺めながら雑談のひとときを過ごした。
 …………靖国神社を話題にしたとき、出撃に際して交わされる「靖国で会おう」という言葉は、気持を通い合わせるうえでの合言葉の如きものだと仲間が言った。軍とは関わりのない忠之にも理解できると思う。俺の隊にはキリスト教徒がいるのだが、その仲間ですら言うのだ。自分は靖国神社に祀られるつもりは全くないが、出撃に際しては靖国で会おうという言葉を口にするかも知れない。かく言う俺自身の気持を言えば、その言葉を残して出撃することになろうと、神社に留まるつもりは少しもない。神社の中に閉じこもっているより、俺の家族とお前や千鶴の気持にいつでも応えられるよう、宇宙の中で自由に羽ばたいていたいと思う。俺自身は靖国神社を必要としないが、家族にとっては靖国神社が俺の墓標の如き存在になるだろう。俺が英霊として崇敬されていることを確認できる場所にもなるだろう。それは俺の場合に限らないわけだが、キリスト教徒の場合にはどうであろうか。殉国の至情に燃えているその仲間のことを思えば、国に命を捧げた者のための象徴的な墓標は、靖国神社のほかにも必要ではないかと思う。日本人が過去を振り返り、未来を考えるためにも、空襲の犠牲者などをも対象にした、大きな墓標をしっかりと打ち建てるべきではないか。これを記しているうちに、俺はその実現を強く願うに至ったのだが、忠之はどう思うだろうか。  (引用おわり)


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