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元特攻隊員による戦記「修羅の翼  零戦特攻隊員の心情」を読んで [政治および社会]

10月2 日に投稿した「戦後75年目に出版された戦没学生の日記」に関連する記事です。


小説「造花の香り」本ブログの左サイドバーに概要を記す。小説投稿サイトの「小説家になろう」や「カクヨム」にも投稿中を書くに際して、多くの参考資料に眼を通したのだが、角田和男著「修羅の翼」もそのひとつであった。先日訪れた図書館でそれを目にしたら、再度読んでみたくなった。


あとがきによれば、戦闘機搭乗員として数年を戦い、特攻隊要員として終戦を迎えた著者が、その体験記を書くことにしたのは、戦後も30年あまりが経ってからだという。出版社から依頼されても非才を理由に断っていたとのことだが、「もし、一途に国を思い、精一杯戦って散って逝った多くの戦友の誠意を、幾分なりとも後世の人達に伝える事が出来るならば。と、不肖をも省みず承諾してしまったのです」という。


350ページに及ぶこの書物には、フィリピンで特攻隊を出撃させた大西中将の真意に関わる記述がある。


特攻隊員を激励する席で参謀長から「みなは、特攻の趣旨は良く聞かされているだろうな」と訊かれた著者が、「聞きましたが、良くわかりませんでした」と答えると、参謀長は大西中将の真意をこのように語ったという。大西中将からこのように聞かされている。日本の戦力に余力はない。一日でも早くアメリカと講和すべきだが、敗北し続けたままではなく、一度でよいからレイテ島から敵を追い落とし、わずかであっても講和の条件を良くしてから講和に入りたい。とはいえ、講和を口にしようものなら、国賊として暗殺されてしまうだろう。陸海軍の抗争を起こして内乱ともなりかねない。天皇陛下御自ら決められるしかない。九分九厘成功の見込みがないにもかかわらず特攻隊を出撃させるのは、そのことを聞かれた天皇陛下が、「戦争を止めろ」と仰せになるはずだからである。


ポツダム宣言への対応を論議した御前会議(天皇臨席の会議)で、陸軍大臣を含む数名は戦争継続を強く主張したという。沖縄を占領され、広島と長崎に原爆を落とされ、ソ連の参戦を受けておりながら、陸軍は本土決戦に備えて準備を進めていた。意見が割れて結論が出せなかったが、天皇の決断によってポツダム宣言を受け入れることになったと伝えられている。昭和天皇は自らの声で国民に敗戦を告げることにして、その言葉を録音されたのだが(いわゆる玉音放送)、陸軍の中にはそれを阻止すべく動いた者たちがいた。天皇を神として崇める教育が徹底されていた戦前でありながら、敗戦を受け入れようとする天皇の意志を蔑ろにする者がいたのである。戦争がもたらす狂気を思わざるをえない。


玉音放送が行われたのは、フィリピンで多くの特攻隊が出撃した昭和19年の秋ではなく、日本の都市が焼け野原にされ、原爆が投下されて後の昭和20年8月だった。昭和19年のうちに敗戦を受け入れていたなら、100万人以上の軍人を餓死させずにすんだであろうし(9月16日に投稿した「戦地での体験を語った物理学の先生」参照)、数千人もの特攻隊員を出撃させずにすみ、原爆の被害を受けることも、ソ連の参戦を招くこともなかったはずである。ミッドウェイ海戦で敗北した昭和17年の6月以降、ひたすらに敗戦への道をたどっていたのだから、「玉音放送」はあまりにも遅すぎた、と言わざるをえない。


著者である角田和男氏が最も尊敬していた海軍大尉は、アメリカと開戦した日に言ったという、「この戦争は、万に一つの勝ち目もない」と。作家の永井荷風は日記に記した、「アメリカと戦って勝てるわけがない。この国にとってのぞましいのは、一刻もはやく負けてしまうことだ」と。まともな国民や軍人も少なからずいたはずだが、戦前の政治家(昭和時代の初期には軍が政治に関与し、実権を握るに至ったのだが、多くの国民がその政治のあり方を支持した。)たちは道を誤り、日本はもとより対戦国と周辺諸国に多大な損害と悲劇をもたらした。狭量で独善的な自民党政権が続くこの国の将来は、どんな社会になっていることであろうか。


著者角田和男氏によるあとがきは、次のような文章で終わっている。


 戦後43年を経て、我国は世界の経済大国と言われるまでに発展して参りましたが、大戦に依る病痕は、軍人と民間人とを問わず、未だ消え去る事はありません。
 古人は兵の上なるものは、戦わずして勝つ事だと教えられましたが、しかし、人はどうして勝利を競って争うのでしょう。全人類が仲良く暮らす事は出来ないものなのでしょうか。
 かつて、憂国の青年たちは、
   権門上に驕れども 国を憂うる誠なく
   財閥富を誇れども 社稷を思う心なし
と、その胸中を歌いました。国民総中流意識の時代は過ぎて、貧富の差は次第に大きく開きつつあり、田園は今、荒れなんとしています。誤った歴史を再び繰り返してはならないのです。先人の誤った轍を踏んではならないと思います。 (昭和63年中秋)

 

「権門上に驕れども・・・・・・・・」なる歌詞について調べたところ、1930年代に創られた、作詞・作曲:三上卓による「青年日本の歌(昭和維新の歌)」がみつかった。Wikipediaの「青年日本の歌」には次のように記されている。


Wikipediaの「青年日本の歌」より一部を引用


青年日本の歌(せいねんにほんのうた)は、1930年代に作られた歌である。 作者は日本海軍の中尉、後の五・一五事件に関与した三上卓である[1]。昭和維新の歌とも呼ばれる。歌詞の内容には「国家改造」、政界の元老・権臣や財閥などの排除が主張されて、濃厚な軍国主義の色彩を帯びているものの、当時の日本社会の経済や貧富の格差の状況をある程度反映している[2][3]。発表以来、日本中に人気が出てきたが、1936年禁止となった。原因は歌詞が暴力を煽って、昭和天皇の不満を招いたとされる[4]。歌詞中の詩句の多くは土井晩翠および大川周明の著作からの引用である[5]。


角田和男氏が記した「権門上に驕れども 国を憂うる誠なく・・・・・・」は、10番まである歌詞の2番に見られる文言である。作者の三上卓は昭和7年(1932年)の五・一五事件に関与し、禁固刑で6年間を刑務所で過ごしたという。正義感に満ちた歌詞ではあるが、正義のためには武力行使をも辞さないかのような言葉があるから、昭和天皇が不満を抱いた理由はそこにあろう。昭和11年(1936年)2月の二・二六事件の後、「青年日本の歌」は禁止処分となったようである。


著者の角田氏は、「修羅の翼  零戦特攻隊員の心情」のあとがきに書いている、<かつて、憂国の青年たちは、

「権門上に驕れども 国を憂うる誠なく 財閥富を誇れども 社稷を思う心なし」と、その胸中を歌いました。国民総中流意識の時代は過ぎて、貧富の差は次第に大きく開きつつあり、田園は今、荒れなんとしています。誤った歴史を再び繰り返してはならないのです。先人の誤った轍を踏んではならないと思います。>と。そこに記された歴史上の誤ったできごとには、「戦争の過ち」「政治と社会のありようを監視しなかった国民の過ち」「付和雷同しやすかった国民の過ち」「格差社会をもたらす政治の過ち」「社会に渦巻く不満が引き起こす過ち」が含まれていると言えそうである。



あとがきに「昭和63年中秋」と記されているから、「修羅の翼  零戦特攻隊員の心情」が書き上げられたのは、昭和時代が終わる数ヶ月前である。それから30年が経ったいま、角田氏が不安と不満を抱いていた状況はさらに強まっている。若い世代に選挙での棄権が多いこの国に、憂国の青年はどれだけいるのだろうか。



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