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偏差値教育の時代に大器が晩成できる可能性はあるのか [教育]

大器晩成なる言葉が古くから存在するのは、それなりに真実性があるからだろう。そうであるなら、教育のあり方もそれを前提とすべきではないか。望ましいあり方は、晩成すべき子供を着実に育成し、大器として羽ばたかせるに至る教育であろうが、今のような偏差値教育の中でそれが可能だろうか。
著名な物理学者であった長岡半太郎や、磁石の研究で有名な本多光太郎は、いずれも小学校時代の成績が悪かったことで知られる。初代の文化勲章受章者となった長岡半太郎だが、小学校では落第しているほどである。
  長岡半太郎や本多光太郎が今の世に生をうけていたなら、どんな人生を送ることになっただろうか。小学校で落ちこぼされたなら、その影響が後のちまで尾を引き、偉大な業績をあげる学者にはとうていなれないだろう。落ちこぼれと称される子供たちの中にも、長岡半太郎や本多光太郎に続く人材がいないとは限らない。今のような偏差値教育が続けられたなら、将来はノーベル賞を受けるに至るべき人材が、小学校での成績不良の影響により、未完の大器に終わる可能性がある。
偏差値教育においては、知識・学力で生徒を序列化し、そのほかの能力は評価の対象にしていない。さらに言えば、偏差値なる数値はその試験が行われた時点のものであり、生徒が将来において示すであろう能力を予測して評価するものではない。小学生に対して偏差値を適用した場合、知的な能力がゆっくり上昇する子供に比較して、早熟な子供が圧倒的に有利である。晩成型の子供と親を不安と自信喪失に追い込み、小器のままに終わらせる可能性がある。3月に生まれた子供と前年の4月に生まれた子供は、生育年数に1年ほどの差があるにもかかわらず同学年となる。小学生にとって1年の差が大なることを思えば、親や教師がそのことに配慮すべきだろうが、現実にはどうであろうか。偏差値教育の時代にあってはとくに、この点を考慮した教育がなされるべきであろう。さもなければ、「3月に生まれた子供は入学を1年ほど遅らせた方が得をする」ことになる。
  親や教師がどんなに諭しても、興味を覚えない学科の勉強には身が入らないため、成績が低迷している小学生も多いであろう。算数に興味を持つ生徒もあれば、算数にはまったく興味を持てない代わりに国語や音楽を好む生徒もあるはず。当然ながら生徒にはそのような個性があるわけだが、偏差値教育ではそのような点を考慮しようとしない。個性豊かで才能あふれる人材となるべき卵が、卵のうちにレッテルを貼られたことで、自らを卑下して大鵬となるを諦め、社会にさしたる貢献もなさずに終わる。そのような結果をもたらす教育を、いつまでも続けていてよいのだろうか。
 偏差値教育には様々な問題が指摘されながらも、早急な是正策は期待できそうにない。そうなると、教育を受ける側としてできることは、その弊害をできるだけ避けるように努めることである。9月24日の記事「子供を学習塾に通わせるより読書の喜びを教える方がよい」に記したごとく、小学生の頃から書物に親しませ、読書の喜びを教えることも、その手段のひとつではなかろうか。このことについては、もう少し考えたうえで投稿したいと思う。
 私は決して大器ではないが、成績劣等生から抜け出して、技術者としての人生を生きることができた。小学生や中学生の時代に偏差値教育が導入されていたなら、私は進学を諦めていたのかも知れない。小説「防風林の松」(注)の中で、主人公たちに偏差値教育を論じさせ、このブログでも繰り返しこの問題を取り上げるのは、私自身の想いがそれだけ強いということである。
8月23日の記事「成績劣等生から技術者までの道のり」にも引用したが、「防風林の松」に出てくる偏差値教育に関わる部分を、あらためてここに引用したい。主人公が友人との会食中に交わす会話である。

小説「防風林の松 第一章」より引用
  ・・・・・・僕の話を聞いて坂田は言った。
「今の日本では、小学校や中学校で落ちこぼされたら、そこから這い上がるのに苦労するわけだが、落ちこぼされている子供の中には、お前みたいなのがたくさんいるのかも知れないぞ。先生の話をろくに聞かずに、自分が興味を持っていることだけを考え続けているような子供が。そんな子供はほんとうは普通以上に集中力があっても、勉強する気も能力もないと決めつけられるんじゃないのかな、いまのような偏差値教育の中では」
「長岡半太郎や本多光太郎も、小学校時代には勉強ができなかったそうだから、今の日本に生まれていたら、世界的な学者にはなれなかっただろうな」
「今の日本では、小学校でつまずいた子供は催眠にかかってしまって、自分には能力がないと思い込むようになると思うな。そうなると、たとえ努力をしたところで、催眠にかかっているために勉強は身につかないわけだ。お前の場合には運が良かったんだよ。オーディオ装置に興味を持ったおかげで、うまい具合に催眠から醒めることができたんだからな。・・・・・・」
「詳しいんだな、教育のことに」と僕は言った。
「本を一冊読んだだけだよ。偏差値教育と詰込み教育の問題をとりあげた本を」
 ・・・・・・坂田はさらに続けた。「こんなことも書いてあったな。小学校の低学年では理科好きな子供が多いのに、高学年になると理科嫌いが多くなるというんだ。好奇心を満たすことより、知識を詰め込むことが重視されたり、友達と成績を競わされたりするんだからな、そんな理科がおもしろいはずがないよ」(引用おわり)

 「防風林の松」は、青春小説とも呼べる恋愛小説であり、教育を主題とするものではないが、主人公の若い技術者が元は落ちこぼれだったとされているので、学業成績や偏差値教育に関わる記述が幾度か現れる。この小説の序章にも、おわりのところに次のような文章がある。

「防風林の松 序章」より引用
   ・・・・・・あれから十六年の歳月が流れて、僕は今ここにいる。日本を遠く離れたロンドンで、ようやくにして絵里に祝福の言葉を贈ることができた。自分の未熟さを意識し続けることから、どうにかこれで決別できそうな気がする。・・・・・・それにしても、人生とはほんとうに不思議なものだ。僕は中学校の一年生まで成績劣等生だった。その僕が、今は技術者としてこんな生き方をしている。あのオーディオ装置が僕の部屋になかったならば、そして、あの時期に僕が音楽につよく惹かれなかったならば、僕はどのような人生を歩むことになっただろうか。(引用おわり)

これは、ドイツでの国際学会に参加した主人公がロンドンに立ち寄り、かつての恋人に会ってその幸せを祝福した後、帰国途上の機中で懐古と感慨にひたる場面である。
 この小説の99%は創作であり、私自身の体験はせいぜい1%しか入っていないが、「技術者としての人生を多分に投入できた」との想いがある。非才に拘わらず小説に取り組み、非才がために苦労したゆえの、きわめて個人的な感慨かも知れないのだが、少しでも多くのひとに読んでもらいたいと願っている。

(注)防風林の松
私が書いた最初の小説です。特攻隊員を主人公とする小説「造花の香り」とともに、アマゾンの電子書籍であるキンドル本として公開しています。
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