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愛国心を要求する国家は国民の愛国心を損なう [特攻隊]

  10年あまり以前のことだが、学生時代に暮らしていた寮の寮誌が復刊されることになり、かつての在寮生は原稿を求められた。それではというわけで、私も昔の思い出話を書こうとしたのだが、思い直して特攻隊のことを書くことにした。それにはむろん理由があった。
  丁度その頃、私は特攻隊に関する書物を幾冊も読み、特攻隊員たちが残した遺稿に心をゆさぶられていた。私は思った。寮誌に寄せられる原稿の多くは、寮に関わる思い出話にちがいない。思い出話を書いたところで、それより面白いものが他にいくらでもありそうだ。読んでもらえそうにない文章を綴る代わりに、特攻隊のことを書いたらどうだろうか。その方が思い出話を書くより価値がありそうに思える。
   そして結局、私は特攻隊に関する文章を書くことにした。題名は「記憶と懐古と歴史のこと」となった。

10月11日の投稿記事「戦時中の小学生……田舎の学校での思い出」の中で愛国心教育に触れたあと、続きはあらためて投稿すると記した。上記の「記憶と懐古と歴史のこと」も、その後半で愛国心教育や君が代斉唱の強制に触れ、それに対する私の見解を記している。というわけで、11日の記事の続きとして、寮誌に寄稿した原稿の一部をここに引用することにした。

「記憶と懐古と歴史のこと」より後半部分を抜粋して引用
   特攻隊員たちの多くは17歳から23歳までの青少年であった。彼らが残した遺書や手記を読めば、短い人生しか持つことのできなかった彼等にとって、自らの特攻死に意義を見いだすうえで最も重要であったことは、国に殉ずることがすなわち自分の愛する者たちのために必要であると信ずることであった、ということがわかる。生き残った特攻隊員の回想のひとつに、「この特攻によってしか国民と国土を護る手段はないのだと思い、喜んで死ぬべきであるという意識になっていた」という言葉がある。別人の回想には、「護るべき対象が自分の身内から始まって日本人全体に拡がり、それが自分自身に対する説得力になった」という言葉が見られる。
   特攻隊員には学徒兵出身者も多いが、彼等の中には敗戦を予想していた者がかなりいたようである。「特攻を繰り返しても敗戦はさけられないだろうが、それでもこの特攻には意味があると思う。自分たちが身を犠牲にすることで、祖国と同胞に対する我々の強烈な想いを、相手の国にわからせ得るからである。それゆえに、たとえ日本が負けるにしても、自分たちの死には意味があるということになる」と言い遺して征った隊員の言葉が、生き残った隊員によって伝えられている。
   特攻隊員の訓練は死ぬための訓練と言えるわけだが、飛行機による特攻と人間魚雷特攻のいずれにおいても、彼等はかなりの期間にわたる厳しい訓練に冷静にかつ熱意をもって取り組んでいた。当時の若者には国難に殉ずるのは義務であるという観念があったにしても、義務感だけでできることではないと思われる。彼等をして死に向けての厳しい訓練に取り組ませたのは、愛する者ひいては同胞に対する使命感、そのような意味での祖国愛であったに違いない。
   私は今、そのような酷いとも云える社会を作り出したモノに対する怒りを強く覚えるとともに、特攻隊員として国に殉じた彼等に大いなる敬意を抱いている。無論それは当時の状況の中に生きていた彼等に対しての敬意である。これから先のわが国で、国民が国から犠牲をしいられるようなことが起こるなら、表面的には崇高なことであろうとも、それは歴史に学ばない愚行を国が強いるということになるだろう。 
   我々の年代以上の世代にとっては、わずか50余年ほど前(原稿を書いたのは平成14年)に、そのような時代があったのだということを実感できる。それゆえに、小学校の低学年時代のことではあったにしても、あの苛烈な時代の空気をともに吸っていたという想いが、私に特攻隊員たちを歴史の中へと押しやることをためらわせるのである。
  今の日本人にとって祖国愛とはどのような意味合いを持つのだろうか。生まれ育った国を愛する気持ちは誰にもあるはずだが、私には、国家としての日本は国民から寄せられる祖国愛を拒絶しているような気がしてならない。その原因を作っているのは政治家や国家行政に関わる高級官僚である。党利党略に汲々たる政党と私利私欲に走る政治家、保身のために結果として省益を国益に優先する官僚。先の戦争は敗北必至となってからも長期聞にわたって続けられ、そのために犠牲者や被害が甚大なものとなったが、それは政治に携わっていた責任ある立場の者たちが、戦争終決に向けた努カを怠ったからである。戦争終決へ向けての重要な決断を彼等がためらった理由は、彼等自身の保身を優先したからだと云われる。そのような事実があったこともまた、歴史からの教訓としなけれぱならないと思う。
   愛国心を育てることを目的としたものであろうが、君が代斉唱や国旗掲揚の強要が問題になっている。政治に対する不信感を払拭しないままにそれを推進すれば、政府の意図に対するさらなる不信感を与えることになりかねない。国を構成するのは国民である。愛国心というものは、この国に住む我々が同じ社会の構成員であるという同胞意識に根ざすものであろう。自分本位の人間が多くなり、公衆道徳が乱れるようなことにでもなれぱ、同胞愛のもとになるべき国民同士の信頼感が弱まることになり、政治に対する不信とともに愛国心をそこなう原因となるのではなかろうか。
   昭和の悲劇をもたらした責任の多くを独善的であった軍部が負うべきは当然としても、軍部の横暴を許したのは国民であり、その結果として日本のみならず多くの国に戦争被害をもたらしたのである。この国ではその教訓がはたして充分に生かされているのだろうか。敗戦に至るまでの苛酷な体験を歴史の数ぺ一ジに記しておくだけでなく、その後に築かれた今の社会の中で意識的にそれを語り継ぎ、歴史からの教訓を生かし続けるべきである。現実には、利権に群がる政治家たちが繰り返しては当選し、省益あって国益なしと云われる官僚の世界の改革は遅々としている。それにもかかわらず、選挙のたびに無党派層の多さが話題になる状態が続き、選挙では相変わらず棄権が多い。我々の世代が人生の大半を過ごした昭和という時代は、歴史から学ぶことの重要性をどの時代よりも強く教えてくれる。それを識る我々には語り部としての役割が与えられているような気がするのである。 
  理屈っぽいこの文章を読んでくださったことに感謝します。最も若い存寮生の諸君も昭和の時代に生を享けている。昭和の初期に生まれた我々と共により良い社会を目指すための語り部になってもらいたいものである。 (引用おわり)

   寮誌のための原稿を書いてからも、私は特攻隊に関わる書物を読みつづけ、やがて特攻隊員を主人公とする長編小説を書くに至った。それが電子書籍として公開している 「造花の香り」 (注)である。そのあとがきに、私が特攻隊に対して関心を持ち続ける理由を書いた。
   戦争を体験した人はずいぶん少なくなった。戦争の時代を知る日本人として最も若い世代に属す私は、多少なりとも語り部の役割を果たすべく、小説やブログで戦争や特攻隊を語りたいと思っている。

注  小説「造花の香り」  
アマゾンの電子書籍 であるキンドル本として公開中



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