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戦時中の小学生……田舎の学校での思い出 [雑感]

今の小学校に相当する国民学校に入ったのは、戦争たけなわの昭和19年4月でした。日本は敗勢に向かっていたはずですが、6歳だった私にその緊迫感が伝わることはありませんでした。
  次の年になってからのことです。雪が降る日に私たちは校庭につれ出され、裸足のままで走らされました。私たちを励ます先生の声はうろ憶えながら、「兵隊さんたちは頑張って戦っている。みんなもがんばるんだ」というものでした。
  冷たさを通り越して痛みを覚えるほどでしたが、6歳から7歳の私たちは、だれ一人として愚痴もこぼさず、先生に言われるままに走りました。幼い学童であろうと、その時代の空気を感じとり、苦痛を受け入れようとの気持ちになったのでしょう。足裏の冷たかった感触と先生の声は憶えているものの、そのときの自分の感情は記憶にありません。命じられるままに、何も考えずに走ったということでしょうか。日本が敗戦に至る半年あまり前のことです。
  朝の登校時に校門で迎えてくれたのは、銃を肩にした上級生でした。その頃の学制には国民学校高等科があり、その生徒たちも同じ校舎で学んでいたから、銃を持つ役割を担っていたのは、最上級の高等科2年生だったと思われます。現在の中学2年生に相当する年代の彼らに対して、そのような役割が課せられるような時代でした。
天長節(天皇誕生日)や紀元節(現在の建国記念日)などの祝日には、学校で行われる儀式に参加させられました。校庭の一画にあった奉安殿から取り出した天皇皇后両陛下の写真を、校長が恭しくささげ持って講堂の正面に安置し、ようやくにして式典が始まります。上級生たちはむろん私たち低学年生も、私語することなく神妙にしています。式典では天長節の歌あるいは紀元節の歌などと君が代を歌うのですが、歌詞の意味はまったくわかりませんでした。そうであろうと、子供の頃に憶えた他の歌と同様に、君が代は私の中にしっかりと残りました。
  終戦を迎えたのは2年生の夏ですから、昭和20年4月29日の天長節が、儀式で君が代を歌った最後だったと思います。それ以降は大学を卒業するまで機会がなかったし、歌ったという記憶もありません。
  戦後になって君が代を意識したのは、昭和39年の東京オリンピックのときでした。戦後も20年に満たないその頃は、君が代を否定する雰囲気がまだ多分に残っていたように思います。そのように主張する人が抱く感情は理解できたけれども、金メダリストの表彰に際して演奏される君が代は、戦争にまつわる諸々から離れて聴くことができました。
  君が代について書くうちに、今の教育現場における君が代斉唱問題を思い出しました。式典に際して国歌を歌うかどうかは個人の自由であり、政治が強制して斉唱させるようなものではないはず。中国や北朝鮮のような独裁国家と違い、日本には民主主義が定着し、主権在民と基本的人権の思想も根付いているはずではないか。それとも、明治を引き継いでいた70年前までの考え方が、さらには江戸時代からの古い意識の痕跡が、権力志向の日本人にはまだ残っているのだろうか。日本人なら等しく愛国心を持っているはず。その愛国心が失われることがあるとすれば、その責任はまともな政治を行わない政治家にあるのではないか。
  私にはむろん愛国心がありますが、国から与えられたものでも国から求められて抱いたものでもありません。その愛国心は生まれ育ったこの祖国に対するものであり、国家に対するものではありません。
  いつのまにか、思い出話からそれていました。話をもとに戻すより、愛国心について続きを記したくなりましたが、この件については別の記事として、あらためて書こうと思います。


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