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冤罪を引き起こした警察と司法の関係者は重犯罪人 [雑感]

   安穏に暮らしていた罪のない人が犯罪の疑いをかけられ、過酷な取り調べを経た結果、罪人としての刑罰を受ける。この国ではいまもなお、、このようなことが繰り返されている。冤罪と判明すればまだしも、それがかなわないまま人生を終えた人も多いのではないか。そのような冤罪を作り出した者たちは、極めて重い罪を犯した罪人でありながら、不思議なことに誰も罪に問われない。こんな国にしておきながら、自民党は国民に愛国心を要求できるだろうか。
   憲法によって基本的人権が保障されていながら、戦後になっても多くの冤罪事件がおきている。冤罪が明るみにでてからわかることは、警察や検察の前近代的な性格であり、裁判官の怠慢である。冤罪には至らなくとも違法な取り調べが明るみに出たとき、その関係者が罰しられるようにしないと、この国では冤罪が繰り返されるおそれがある。
  戦前の日本には特高(特別高等警察)なる悪逆非道な組織があって、無辜の国民を拷問し、ときには死に至らせることすらあった。作家の小林多喜二も犠牲者のひとりである。
   Wikipedia には小林多喜二の項があり、多喜二を拷問によって虐殺した警察官たちの実名が記されている。彼らは戦後の社会で栄進しているが、それは戦前の悪逆な行為が罪に問われなかったからである。今頃になってWikipedia に書かれ、その犯罪行為が暴かれたところで、彼らの罪が裁かれたことにはならない。特高が解体された直後に裁かれるべきところを、責められることなく栄進したのだから、現在の警察や司法の世界がそうである以上に、身内の罪を擁護したがる精神風土があったということだろう。
    冤罪を引き起こした警察と司法の関係者は、重大な人権蹂躙の罪を犯した犯罪者である。警察と司法が自分たちの保身を重視し、組織内での改善ができないというのであれば、外部からその罪を問うしかないだろう。とはいえ、法的手段が有効とは思えない。冤罪が明るみに出て、被害者が法を頼ろうとしても、まともな裁決は期待できない。被害者に対して常識的には考えられない低額の補償金が払われ、それをもって一件落着とされるに過ぎない。足尾事件の菅谷さんの場合、17年余の刑務所暮らしを強いられ、冤罪の痛苦に苦しめられながら、補償金は国民の税金から出される数千万円であり、ずさんな捜査といいかげんな裁判をした関係者は責めを負わされていない。
    これまで明るみに出た冤罪事件はいずれも、ずさんな捜査と悪逆とも言える取り調べの結果、被疑者が偽りの自白においこまれ、その自白をもとに、怠慢とも言える裁判が行われた結果として引き起こされている。警察と裁判に関わった者たちを法で裁けないというのであれば、拷問で殺された小林多喜二の場合のごとく、警察と裁判に関わった者たちを世間の前に引き出し、被害者のみならず、国民に対しても謝罪させるべきである。まかり間違っても彼らを栄進させてはならない。そうでなければ、悪逆非道な取り調べも、その結果である冤罪も、この国から消えないのではないか。
   このように書くと、「人には過失がつきものであるゆえ、業務上の過ちは責められるべきではない」との声が聞こえてきそうである。過失であろうと彼らの罪は許せないはずだが、冤罪を引き起こした行為は過失ではない。余程に違法で過酷な取り調べが行われないかぎり、やってもいない犯罪行為を自白するはずがない。違法で過酷な取り調べが行われるのは、確たる証拠がないゆえであろう。にもかかわらず、裁判で有罪とされたということは、裁判官が無責任で怠慢だったということである。物的証拠も状況操觚も不充分でありながら、そして、裁判に際して被疑者が自白内容を否定しているにもかかわらず、自白にもとづいて判決を下すとは、ずさんで怠慢な裁判としか言いようがない。
   冤罪が明るみに出るたびに、マスコミは大きく取り上げるけれども、しばらく話題になるだけで終わってしまう。警察と司法が犯した犯罪は、マスコミを含めた国民が裁くしかないのであれば、いっときの話題に終わらせることなく、国民がひろく納得できるまで、責め続ける必要がある。冤罪の犠牲者のためにも、さらなる冤罪を防ぐためにもそうすべきではないか。そうでもしなければ、日本の警察と司法を糺すことはできない。そんな気がする今日この頃である。

  



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