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組合活動とストライキの思い出・・・・・・労務担当者は言った「君は強者の側に立つべきだ」 [雑感]

今の日本では考えられないことだが、高度経済成長時代の日本では労働組合の活動が活発だった。春闘の時期になるとストライキが行われることも珍しくはなく、私が勤務していた電機会社でも、ストライキをした春闘が幾度もあった。日本は高度経済成長期に入っており、それを支えていた電機産業であったが、その給与水準は他産業よりむしろ低かった。その不満が賃上げ闘争を激化させ、ときにはストライキを決行させることになった。


私が入社した会社では組合活動が活発であり、職場ごとに中央委員が選ばれていたのだが、ある年の委員に私が選ばれた。私がまだ二十代だった頃のことである。


春闘中にはしばしば中央委員会が開かれ、委員長や書記長を中心に闘争方針の議論がなされた。私の意見は、「会社の回答がいまのままであるなら、組合は本気でストライキをする用意があるのだと、会社側にはっきり思わせること。実際にストライキをするよりも、その方がよい」というものだったが、書記長もそれに同意した。


そんなある日、職場の先輩から誘われて、近くのレストランへ行った。東京都内とはいえ都心から離れた地域であったが、そのレストランはかなりしゃれていた。先輩とともに入ると席が用意されていて、会社の労務担当者が待っていた。


運ばれた焼き肉料理を食いながら、労務担当者の話を聞かされたのだが、聞かされたことのほとんどを今では忘れている。とはいえ、今でもはっきり記憶している言葉がある。「強者の論理というものがある・・・・・・。君は強者の側に立たねばならない」


撮像管(注)の仕事でかなりの成果をあげていた私は、会社から賞をもらっていたのだが(本ブログの記事「技術開発をチームで推進する場合の問題点・・・・・・私の経験より(2015年8月27日)」「文部省の庁舎・・・・・・至る所に紙の山あり(2016年11月1日)」「インターネットで再会!・・・・・・自分がかつて開発した製品に(2016年11月6日)」参照)、そんな私が組合活動に関わっていることに対して、職場の先輩や会社は快く思っていなかったようである。仕事で成果をあげているといううぬぼれと、電機会社の給与水準が低いことに対する不満が、私を組合活動に積極的にさせていたような気がする。中央委員に選ばれた者の多くは、私と同様に、給与に不満を抱いていたはずである(私にかぎらず、全社員が不満を抱いていたはずである。他産業と比較して、当時の電機産業は低賃金だった。)


勤務時間内に組合集会を決行するなど、幾度も比較的短時間のストライキをしたのだが、さしたる賃上げ成果を得られないままに春闘は終わった。スト中に行われた集会で印象にのこっているのは、共産党の国会議員が挨拶したことである。もしかすると、組合幹部の中に共産党員がいて、その国会議員を招いたのかも知れない。


私は共産党には興味がなかったのだが、組合の幹部や中央委員の中には、幾人かの共産党員がいたと思われる。私に対して共産党への誘いはなかったのだが、唯物論に関わる資料を渡されたことがある。そこに記されていたことで印象に残っているのは、「心とは、脳細胞で行われる化学的な作用によって生じる現象である」という言葉である。精神世界に関する知識を持つ今なら、即座にそれを論破できるのだが、その当時の私は、「脳を使って考えるのだから、心は脳に依って作られるにちがいない」と思った。そうは思ったけれども、唯物論にも共産党にも同調する気にはなれなかった。生命としての存在を物質の一形態としてとらえる考え方が、私には釈然としないものに思われた。


当時の状況を振り返ると、社内で党活動が行われていた可能性があり、そのことを会社は把握していたと思われる。私自身は共産党に興味がなかったのだが、職場集会などでの私の発言が会社側に伝えられ、労務担当者との会食につながったのであろう。「強者の論理というものがある」なる言葉と「君は強者の側に立たねばならない」なる言葉は、私の耳に不快なものに聞こえたのだが、私は自分の考えを口にすることなく(意見を述べようにも、そのための知識を持ち合わせなかった)、その言葉を黙って聞いていた。


私は単純かつ鈍感であるらしく、労務担当者からの働きかけを深刻に受け止めることなく、それまで通りに中央委員としての役割を続けた。おそらくはそのせいで、私は不利な扱いを受けた可能性があるのだが、そうだとしても、強者の側に身を置かなかったことを悔いることはない、と思っている。そんな私には歯がゆいものに思われる、真の役割を忘れたかのような今の労働組合の有りようが。願わくば、働く者の側に立つ政党が支持され、この国の幸福度が改善されることを。

 




(注)撮像管
テレビカメラのレンズを通して作られる光学像を、テレビ用の電気信号に変える真空管であり、テレビの黎明期からその黄金時代に至るまでを支えた。昭和30年代に使われたのは、イメージオルシコンとビジコンの2種類であったが、昭和50年代になると、新しく開発された幾種類もの撮像管が、用途に応じて使いわけられていた。半導体による撮像板の実用化に伴い、昭和60年代には半導体素子に切り替えられていった。

 


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