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武本昌三氏のホームページ掲載の記事を紹介   [人生]

 武本昌三氏のホームページ「ともしび」に「死別は悲しい体験だが私たちは必ず再会できる」なる記事が掲載されている(6月22日)。矢作直樹・一条真也共著『命には続きがある』(PHP研究所)から引用されたその記事を、ここで紹介させてもらうことにした。


「死別は悲しい体験だが私たちは必ず再会できる」(武本昌三氏のホームページ「ともしび」より)

 死別はたしかにつらく悲しい体験ですが、その別れは永遠のものではありません。愛する人には必ず再会できるのです。風や光や雨や雪や星として会える。夢で会える。あの世で会える。生まれ変わって会える。そして、月で会える……世の中には、いろいろな信仰があり、いろいろな物語があります。しかし、いずれにしても、必ず再会できるのです。
 ですから、死別というのは時間差で旅行に出かけるようなものなのですね。先に逝く人は「では、お先に」と言い、あとから逝く人は「あとから逝くから、待っててね」と声をかけるのです。それだけのことなのです。
 考えてみれば、世界中の言語における別れの挨拶には「また会いましょう」という再会の約束が込められています。日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうです英語の「Seeyou again」もそうです。フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。これは、どういうことでしょうか。
 古今東西の人間たちは、つらく、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望を持つことでそれに耐えてきたのかもしれません。でも、こういう見方もできないでしょうか。
 二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたのだと。その無意識が世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと。そう、別れても、わたしたちは必ず再会できるのです。
 「また会えるから」を合言葉に、愛する人との再会の日を心から楽しみに生きてくださいと読者に訴えました。ここには、矢作さんと同じように「人は死なない」という気持ちを込めています。(一条) <矢作直樹・一条真也『命には続きがある』PHP研究所、2013 pp.137-139>


 ドイツ語のさよならは Auf Wiedersehenだが Wiederは「再び」で sehen は「見るまたは会う」の意だから、 Auf Wiedersehenは「また会うときまで」の意味になる。これは中国語の「再見」と同じであり、英語やフランス語にも同様の別れの挨拶がある。日本の「さようなら」にも、上記の記事にあるように、「じゃあね」の意が含まれていると考えれば、再会を前提にした言葉と言えよう。


ともしび」を幾度も紹介してきたのは、少しでも多くの人にそのホームページを知ってもらい、そこを訪ねてもらいたいためである。本ブログがそのために役立てばと願っている。

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