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父の歌集について [父の歌集]

このブログを開設して間もない頃に、「父の歌集」なる記事を投稿している。父が書き遺した手書きの歌集について書いた記事である。その記事には、できれば歌集として出版したいと記してあるが、着手しないまま今に至っている。


随分時間が経ったけれども「父の歌集」として、電子出版あるいは投稿サイトへの投稿の形で発表し、少しでも多くのひとに読んでもらいたいと願っている。その一環として、ときおり本ブログに歌の幾つかを載せることにした。それらをまとめた形で、電子出版にできたらと思っている。


今日はその手始めとして、2015年9月9日に投稿した記事「父の歌集」を、ここに再掲したいと思う。


「父の歌集(2015.9.9)」の再掲


  私の父には手書きの歌集がある。きちんと清書されたその文字は読みやすく、年代ごとに整理されており、10代から中年期までの歌が記されている。

  父は中国で終戦を迎えたのだが、敗戦を知ったときの感想や、戦争が終わって3ヶ月後に、一年前に投函された母からの手紙が、帰国を待つ中国の父に届いたことなども記されている。敗戦直後の在中国日本軍は混乱の極みにあったはずだが、その手紙がよくぞ届いたものである。この歌集は私にとって、歌集をこえて興味深いものである。

 久しく手書きのままにしてあったが、私はいま、これをきちんとした歌集にしたいという気持ちになっている。私自身が思いがけなくも小説を書き、さらにはブログに文章を綴るに至ったことが、このような感情をもたらしたのかも知れない。

  次の歌は父が17歳から18歳にかけて作ったものである。 


    柑子の實青きを破りかぎて見ぬ雨ふりやみし朝の庭面に

    いたづらに金文字光るリーダーを我枕辺にたてて眺むる

    砂山に浜ひるがほの花咲けり足裏あつき浜の白砂

    病みてあれば人にあふさえものうかり黄昏出でて小道歩むも

    山こえて夕べの鐘のきこえけり何処の寺や鳴らしけるらむ

    砂山に長くつづける下駄の跡消されで残ることのしたしさ

              

 戦前の父は小学校の教師をしていたのだが、戦後になってからは中学校の教師として、国語や社会科などを担当していた。上記の歌にはリーダーが歌いこまれているけれども、父とのあいだで英語に関わる話題が出たことはなかった。

 和歌については一度だけ話題になったことがある。私がまだ独身だった頃、手紙の最後に歌を加えたところ、それが帰省した際の話題になったからである。10代で上記のような歌を作っていた父には、私の歌が拙いものに思えたにちがいない。辛めの評価をもらったのだが、それも今では懐かしい思い出である。

手紙に加えた私の歌はこういうものである。


     武蔵野の大地を分けてゆく河のほとりに咲ける白菊の花


 「武蔵野の大地を分けてゆく河のほとりに咲ける」までは覚えているが、そのあとはうろ覚えである。白菊ではなく野菊だったような気がするのだが、それだとうまく収まらないので、ここでは白菊ということにする。河とあるのは多摩川である。その当時は東京の調布市に住んでいたので、多摩川までは歩いてすぐだった。

   私が書いた小説「造花の香り」(本ブログの左サイドバー参照)には、主人公たちの日記や手記がしばしば出てくるのだが、その手紙や手記には歌が記される場面がある。特攻隊員を主人公とする小説ゆえの、ありふれた設定とも言えようが、両親への手紙に歌を加えた経験がその発想をもたらした、と自分では思っている。


 父の歌集をどのような形で実現したらよいのか、具体的には決めていない。千首に近い歌が記載されているので、その全てを載録すべきかどうかといったことを含めて、弟妹たちとも相談したうえで決めようと思っている。


父が書き遺した順に従って、「父の歌集」なるカテゴリーに載せます。少しでも多くの人に読んで頂けるよう願っています。 

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