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父の歌集より 23  従軍中に詠まれた歌 8 [父の歌集]

民船隊に出向していた父は、丘州に碇泊中の8月17日に日本の敗戦を知ったとあります。
                                                  
戦前の日本人は思い込まされていたようです。「戦争に負けたなら、敵国によって日本は・・・・・・のようにされ、日本人は・・・・・・のように扱われる」と。・・・・・・に入る言葉は幾つもありますが、いずれの言葉も、今の日本人には想像もできないおぞましい言葉です。
                                                   
サイパン島でアメリカ軍に追い詰められたとき、在留日本人の多くが自殺しました。サイパン島の悲劇として知られる「万歳クリフ」の記録映像が、戦後70年余を経た今でもテレビで放映されることがあります。
                                                    
戦前の日本軍人に与えられた軍人勅諭には、「生きて虜囚の辱めを受くるなかれ」とあります。欧米諸国の軍隊ならば投降するような状況に至ったとき、日本軍は自決あるいは「万歳突撃(実質的には自殺行為)」による死を選びました。兵士たちは思い込まされていたのでしょう、「投降したならば、むしろ死を選んだ方がよかったと後悔するような結果になるだろう」と。      
                                                   
戦後の27年間をグアム島のジャングルに潜伏し、昭和47年に帰還できた横井庄一さんは、どんな気持ちで潜伏していたのだろう、と思います。帰国した横井さんは幾度も、「恥ずかしながら生きて還ってきました」なる言葉を口にしていました。
                                                   
                                                   
    八月十七日丘州碇泊中終戦を知る、はじめ疑ひ、つぎには
    茳然、やがて悲痛の情やみ難し、むなしき心の中にも思
    るくは、母のこと、妻子のことどもなりき、折りあらば
    らんとて書きおきし妻子への手紙も今はむなしければ焼
    妻が送りし下帯の新しきをつけて心を鎮めぬ
                                                   
    湘陰にて当時の思を
                                                   
年老いし母はいかにかおはすらむ我が子の我をなげきますらむ
ひたすらに吾を思ひてなげくらむ妻もしのばゆ子等もしのばゆ
ふたたびは相見むことも難からむ妻子いとほし来し方を思ふ
ふるさとに送るすべなき手紙焼きつつすこやかなれとひたに祈るも
今はとて妻がおこせし下帯の清きをつけて心鎮めぬ
幼き日あそび歩きし山川のありありと目にうかび来れる
                                                   
                                                   
手記によれば、出向先の民船隊から長沙に帰った後、湘陰に移ったようです。上記の歌は、湘陰に着いてから、敗戦を知った直後の思いを詠んだとあります。日本の敗戦を知ったとき、父は絶望的な心境になり、生きて日本に帰国することはできないだろう、と思ったようです。敗戦を知った際に父が抱いた感慨は、多くの兵士に共通するものだったのではないでしょうか。

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