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母が語った太平洋戦争開戦前夜 [政治および社会]

出雲に滞在しているときの私にとって、母と交わす言葉は貴重なものである。話題の多くは世間話や昔の思い出話だが、高齢ながら母の記憶力は確かで、最近のことから遠い過去のことまで、私が感心するほどによく覚えている。そんな母に聞いてみた。アメリカとの戦争が始まったとき、かなりの日本人が緒戦の勝利を喜んだとのことだが、実際にはどうだったのだろうか。

その問いかけに対して、母は開戦前夜のことを語り出した。開戦に先立つ時期に軍人が首相になったとき、教師をしていた父が言ったという。「困ったことになったぞ。軍人が首相になった。アメリカとの戦争になるかも知れない」

母はさらに語った、軍人が横暴で独善的であったことを。その例として、若槻禮次郎が首席全権として締結したロンドン海軍軍縮条約に不満を抱いた軍人たちが、帰国した若槻禮次郎を襲撃したことをあげた。(この記事を書くために調べてみると、若槻禮次郎が狙われていたことは事実だが、5.15事件で襲われることはなかった。襲われた政治家と若槻禮次郎を混同しているようである。)

高級軍人は戦前の日本におけるエリート中のエリートだったが、5.15事件当時は10代の少女だった母の眼にも、その姿は好ましからざるものに映っていたようである。
                                                                     
小説「造花の香り」(左側のサイドバーに概要が記されている)
を書く際の参考資料によって、軍人政府がアメリカとの開戦に踏み切ったとき、それを歓迎した国民も多かったが、その一方で、開戦の愚を嘆く声なき声があったことを知った。出雲の田舎で教師を勤めていた私の父は、軍人が政権を握った時点で、アメリカとの開戦を危惧していたらしい。戦前の社会情勢を思えば、政治を支持する声は公にできても、批判する者たちは声なき声を飲み込むしかなかったはずである。表にでなかったその声は、もしかすると、日本中に拡がっていたのかも知れない。国を導いていた者たちの耳には、自分たちを支持する者たちの声しか聞こえなかったはず。彼らには、声なき声に心を向ける能力と度量はなかったろうし、その声が届けば押さえ込むことしか考えなかったであろう。

戦前の日本では思想と言論に自由がなく、政治批判が表に現れることはなかったから、軍部を支持する声のみがまかり通ったはずである。表に現れた声だけを取り上げるなら、「戦前の日本では国民の多くが軍部を支持していた」ということになる。戦前の日本に関わる書物には、「多くの国民が軍部を支持していた」とする文章が散見されるのだが、「その一方で、軍人政府に批判的な国民も多かったはずだが、非国民として指弾されることを懼れて声をあげ得なかった」なる文章を加えるべきだと思う。

共産主義の抑圧を目的とした治安維持法でありながら、反政府的な動きを封じるために幅広く利用され、思想と言論の自由を奪う悪法となった。今の日本では言論や思想の自由が保障されているとはいえ、政治批判や社会の問題点を指摘した者(その中には賞賛されてしかるべき者も多いはず)が、眼には見えない形で不利益を被っている可能性がある。敗戦後の日本は自らの手で戦前の過ちを糺さず、あちこちに戦前の遺風を遺していることを思えば、共謀罪法案が危険視されるのは当然であろう。野党のみならず自民党の議員にも、慎重に熟慮してもらいたいものである。


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