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霊魂の実在を信じない人たち (武本昌三氏のホームページ「ともしび」より) [人生]

   霊魂に関わることがらは、その実在を識る者には常識的な知識であろうと、そうでない者にとっては一笑に付すべきことかも知れません。そのような人に読んでもらいたいと思い、元大学教授武本昌三氏のホームページ「ともしび」から、「霊魂の実在を信じない人たち」なる記事を紹介することにしました。「ともしび」内の「身辺雑記」に投稿されている記事(2004年に投稿された記事)です。
   おそらく殆どの人はこの記事を読んでも、霊魂の実在を信じることはできないでしょう。そうであろうと、「もしかすると、霊魂は実在するのかもしれない」とは思えるかも知れません。そのような気持ちになった人には、私がこのブログに書いた「霊魂が実在していることを知る簡単な方法がある(投稿は2015年12月7日)」を読んでもらいたいと思います。間接的な手法ながらも科学的な手法によって、霊魂が実在することを実証することができます。


霊魂の実在を信じない人たち (武本昌三氏のホームページ「ともしび」より)

  女流作家の佐藤愛子さんが新潮文庫で出した『こんなふうに死にたい』という本があります。これは、小説家の彼女が霊に関する彼女の実体験をまとめた本ですが、佐藤さんもはじめのうちは、霊魂の存在などは全く信じてはいませんでした。佐藤さんは、「私がこれから語ることを、おそらく読者の大半はナンセンスだというだろう。なぜなら現代に生きる大部分の人は、目に見るもの、耳に聞こえるもの、科学的に分析実証できるものしか信じないからだ。かつての私もその一人であった」とこの本の中で書き出しています。

  彼女は、長い霊体験のなかで悩んだり苦しんだりしながら、だんだん霊について理解を深めるようになっていきました。そして、その彼女を導いたのが「優れた霊能力者」といわれる美輪明宏さんです。この佐藤さんと美輪さんとの霊体験にまつわる話は、私の講演集(第4集)にも触れてきましたが、美輪さんは、この佐藤さんの本の最後に「霊を受け入れる柔和質直な心」という一文を載せています。美輪さんには霊がはっきり見えるわけですから、「霊なんかあるわけがない」と広言する人などは、殊更に傲慢にみえるのかもしれません。実は、そのような人は、ものごとをよく知っているつもりの、科学者、医者、学者、知識人といわれる人たちのなかに多いといわれているのですが、美輪さんは、それらの人たちこそ無知で蒙昧であると、次のように強いことばで批判しています。

  通常の医者や科学者は、超常現象や己の無知なる部分を認めれば沽券にかかわる、それらを否定することこそ立派な科学者で常識ある人間だと思いこんでいる。この姿こそ小心翼々とした哀れむべき根性である。頑迷ということは愚か者だということである。「超常現象なんてあるわけはありません」とそれに対する勉強も研究もせず何の知識もない癖に頭から否定してかかるのが傲慢なる愚者の発言であり、「この世の中には自分が知らない事はまだまだ山の様にあります。私には知識も経験も無いのでわかりません」と発言する人が聡明で謙虚な人なのである。(同書:p.153)

  美輪さんに言われるまでもなく、私たちが見えない霊の世界を理解し信じるのは容易ではありませんが、だからといって、はじめから迷信と決めつけ、知ろうともせず勉強もしないのは傲慢ということになるのでしょう。しかし、それにしても、ものごとをよく知っているはずの科学者や、知識人、文化人といわれるような人々に、なぜ霊の世界を信じようとしない傾向が強いのでしょうか。知らないことを認めるのは沽券に関わる、というのはわかるとしても、それだけではなく、学者や知識人に特有のものの見方が絡んでくるように思われますが、それを改めてここで考えてみることにしましょう。

  仏典の大般涅槃経のなかに、つぎのような「盲人と象」の譬え話があります。

  昔、ひとりの王があって、多くの盲人を集め、象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいに言わせたことがある。象の牙に触れた者は、象は大きな人参のようなものであるといい、耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、鼻に触れた者は、杵のようなものであるといい、足に触れた者は、臼のようなものであるといい、尾に触れた者は、縄のようなものであると答えた。ひとりとして象そのものをとらえ得た者はなかった。

  これは、大変わかりやすい譬え話です。牙に触れたり、耳に触れたり、鼻に触れたりしていますが、それだけでは、象の実像にせまることは出来ません。しかし、例えば、耳に触れている盲人Aは、自分が確かに象に触っているわけですから、象とは、扇のようなものだと固く信じて疑わないでしょう。同様に、尾に触れた盲人Bは、実際に手に触れた感触で、縄のようなものだと思っているわけですから、その判断の正しさには盤石の自信を持つかもしれません。この場合、盲人AもBも、彼らの立場では確かに正しいのです。しかし、それらはあくまでも象の一部であって、象の実像からは遠く、結局、彼らの見方は間違いであることになってしまいます。部分としては確かに正しいのですが、しかし、間違っているのです。

  この象の実像を、仮に「真理」と置き換えて考えてみることにしましょう。その真理を捉えるのには、どういう見方をすればよいでしょうか。少なくとも、視野を広げなければならないことがわかります。象の実像を捉えるためには、牙や耳や鼻だけに触れて、それだけで結論を出してしまうのではなく、一人の盲人が、足や尻尾や大きなおなかまでできるだけ多くの場所を触ってみて、そのうえで、全体像を組み立てれば、かなり実像、つまり「真理」に近づくことができるはずです。つまり、象=牙、象=耳、象=鼻ではなくて、象=(牙+耳+鼻+尾+・・・・・)ということになります。

  真理の探究というのは、学問の目的であり、学問というのは、本来、視野を広げることであるはずなのですが、しかし、往々にして学者は、対象を深く掘り下げて見続けているうちに視野を広げることを怠って、狭い自分の専門領域に閉じこもりがちになります。それに、ほとんど不可避的に、科学で立証できるものだけが真理であると信じ込まされてきました。広大な宇宙の中では米粒ひとつほどの大きさにもならないちっぽけな地球の上で、科学で説明できないものは真理ではない、というのは、ちょっと滑稽な気がしないでもありません。盲人と象のたとえでは、象の尻尾だけを繰り返し繰り返し触り続け、尻尾の感触から形状、毛の組成から数まで知り尽くして、それで象のことは何でも知っている権威であると錯覚してしまうようなものです。そして、本当に象の全体が見える人から、象というのはもっと複雑で、目も鼻も足も牙もある巨大な存在だと聞かされても、象のことは自分が一番よく知っていると固く信じていますから、そんなものは迷信だと一笑に付すことになるのでしょう。

  霊は目には見えませんから、わからなければわからないでも致し方ないのですが、わからないのにそんなものはあるはずがないと決めつけている人は、いつまでも霊の事実を理解できるようにはなりませんし、霊が見える人の話にも聞く耳をもちません。霊の存在などはあたまから否定することが、学者や知識人であることの資格でもあるかのように考えている人々も決して珍しくはないようです。せめて、美輪さんのいうように、「この世の中には自分が知らない事はまだまだ山の様にあります。私には知識も経験も無いのでわかりません」と考える聡明さと謙虚さをもつことはできないものでしょうか。(2004.07.01)   (引用おわり)


長い記事を読んでいただけたことに感謝します。膨大な情報の中から拾い上げた1片が、思いがけないほどの宝物である可能性があります。武本昌三氏のホームページ「ともしび を訪ね、上記以外の記事にも眼を通されるようお勧めします。


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