偶然の出会に関する忘れがたいもうひとつの思い出 [人生]
偶然の出会いに関する記事を投稿し続けてきて(付記1参照)、体験の全てを書いたような気がしていたのだが、もうひとつ、印象に残っている思い出があった。実に不思議な出会いだったが、相手は人間では無く、私自身の名前である。
このブログの「教育」カテゴリーには、中学1年生までの私が成績劣等生のひとりだったことを、少なくとも3回は投稿している(付記2参照)。そんな私だったが、すでに書いてきたように、中学3年時にはむしろ成績は良い方だった。そのためであろうか、生徒会の役職の一端をになうことになった。そんなある日のこと、近隣の中学生の代表が集まる行事があって、私も参加することになった。会場は山陰本線で一駅ほど西の中学校で、私は一度も訪れたことがない学校だった。
その日その学校に集まったのは、幾つかの学校からきた代表の生徒だけであり、学校は森閑としていたから、おそらくその日は休日だったと思われる。何を目的とした集まりが休日に行われたのか、今ではまったく思い出せないのだが、決して忘れられない思い出が残ることになった。
集まった10人ほどの生徒は、会場とされた教室に案内されて、席を選んで腰を下ろすようすすめられた。
椅子に腰掛けると、机の右上隅に張られている名前が見えた。めいめいに席をとるよう勧められたのだから、そこが私に指定された席ではないことは明らかだったが、驚いたことに、張られている縦長の紙に記されていたのは、まぎれもない私の姓名だった。
私の姓は比較的に珍しい方だが、出雲地方ではよく知られており、高校を卒業するまでは、同学年に数人は同姓の生徒がいたものである。そうであろうと、同姓同名の知人はひとりもいなかった。ところがである、初めて訪れた学校のひとつの教室で、偶然に選んだ席が同姓同名の生徒の席だったのである。その隣の席を選んでもよかったのに、どうして私はそこに腰を下ろしたのだろうか。私とほぼ同年齢のその人は、どこでどんな暮らしをしているのだろうか、と思いつつこの記事を書いている。
偶然の出会いを繰り返しながらも、私はそれが意味するところを考えたことはなかった。考えてみたところで、「それは人智の及ばないところだ」との結論しか得られないかも知れないのだが、一連の記事を書いて思うのは、「人智の及ばないこととはいえ、人が経験することには何らかの意味があるに違いない」ということである。その意味が今世の間にわかればよいのだが、と願っている。
付記 1 これまでに投稿した偶然の出会いに関する記事
・村上春樹の新作を読んで(2019年7月20日)
・共時性あるいは同時性と呼ばれる現象について(8月18日)
・偶然の出会いに関わるある思い出(9月4日)
・偶然の出会いに関するさらなる思い出(9月8日)
付記2 教育に関わる投稿記事の例
・成績劣等生から技術者までの道のり(私の体験)(2015.8.23)
・子供を学習塾に通わせるより読書の楽しみを教える方がよさそうだ(2015.9.24)
・偏差値教育の時代に大器が晩成できる可能性はあるのか(2015.10.2)
2019-09-22 15:19
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