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八十路にて詠む歌 3 [吾が詠みし歌]

20年ほど前のことですが、我が家を訪れた母に言われたことがあります。「庭木を植え過ぎると、木が大きくなってから苦労するかもしれないよ」
                                                                                                                                                 
木が大きくなり過ぎないように管理すれば、困るような事態にはならないだろうと思っていたのですが、20年が経ったいまでは、先行きに不安を覚える状況になっております。しっかり管理していなかったつけが回ってきたと言うべきでしょう。
                                                                                                                                               
2年前に棗の木、昨年は白樫の木を伐りました。白樫は、細い木を株立ちのようにするため、幹が太くなったものから順次に伐っておりました。そうこうするうちに、廣く根をはった近年は成長が速まり、手におえなくなりそうになってきました。というわけで、樹には申し訳ないのですが、根をノコギリで切り、抜いた次第です。
                                                                                                                                               
来年の春までに、サルスベリとヤマボウシを抜こうと思っているところです。自分たちが望んで植えた樹でありながら、自分勝手な都合で伐ることになります。
                                                                                                                                                
    葉になごみ花を愛でたる庭の木に心にわびつ刃を向ける


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高齢者の交友 [人生]

高齢になっても多くの人と関わり、幅廣い交友関係を楽しむ人がいますが、私はその対極にあります。学生時代の友人が集まる新年会や、かつての職場に関わるOB会には、毎年参加していたのですが、近年はコロナ禍により開催されません。代わりに開催されるZOOMによる会合には、久しく会わなかった海外に暮らす友人も参加するので、コロナ禍がもたらした皮肉な恩恵を被ってはいます。
                                                                                                                                               
102歳まで生きてくれた私の母は、90代になった頃から、親しかった人が亡くなるたびに、寂しさを口にしたものです。私はまだ80代の半ばであり、友人の多くが健在ですが、その多くは離れた土地で暮らしています。ZOOMで会うことがあるとはいえ、普段は電話で話し合うこともありません。
                                                                                                                                                
70代後半の私の妻は、70歳に近くなってからできた親友と、しばしばスマホを手に語り合っております。いかにも楽しそうなその姿を見ても、羨ましいとは思えない私の性分ですが、故郷で暮らしている中学時代の友人たちと話してみたい、と思うようになったこの頃です。近年になって知り合った知人も数人ほどありますが、話してみたいのは昔の友人たちです。中学時代の友人から伝えられる同級生の訃報が、数年前から毎年のように続いていることも、私をそんな気持ちにさせるのかもしれません。若い気持ちを保っているつもりの私ですが、80年代半ばの後期高齢者ですから。
                                                   
いきなり電話をかけたなら、何事ならんと驚くかもしれません。どんな会話になることだろうと、今から楽しみにしております。

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初対面の人から姓名を読んでもらえたこと [雑感]

余分な物を整理したところ、廃棄すべき物がたまったので、近くにあるクリーンセンターで処分してもらうことにした。廃棄物を車に積んでクリーンセンターを訪れ、受付で氏名を記入したところ、女の事務員は私の氏名が読めるという。私の姓はありふれた漢字2文字だが、やや変わった読み方である。その事務員には私と同じ姓の友人がいて、島根県出身とのこと。
                                                                                                                                                
 出雲ではよく知られている私の姓だが、故郷を離れて以来の66年間に、正しく読んでもらえたのは、東北大学の医務室に勤務していた看護師さんなど、記憶にのこっているのは3人だけである。そのいずれも、友人に私と同じ姓の人がいたという。
                                                                                                                                                
ネットで調べたところ、私の姓は全国で3000人あまりらしいが、その半数以上が出雲地方に在住とのこと。高校時代までは、私と同姓の生徒が同学年に数名はいたものである。島根県外で暮らしているのは1000人あまりで、西日本に在住している人が多いというから、初対面の人から読んでもらえたのが数回だったのは納得できる回数である。親しみやすい文字だから、ひとりだけでも有名人が現れたなら、なじみやすい名前になると思われるのだが。


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朝日新聞の記者が体験した不思議なこと [雑感]

9月17日の朝日新聞「多事奏論」には、「霊感への過剰礼賛 不思議な体験くらい、なんですか!」なる記事が掲載されている。筆者は朝日新聞の記者であり、作家であって評論家でもある近藤康太郎氏である。
                                                   
その記事は、近藤氏の不思議体験から書き始められている。
                                                   
20年あまり以前に、近藤氏は耳鳴りに悩んだという。音楽評論家でもある近藤氏は耳鳴りが気になって落ち込み、治療に励んだのだが治らなかった。近藤氏は近所の町医者が不思議な治療をするとの噂を聞き、小さなその医院を訪ねた。その医師が近藤氏の耳に手のひらをかざすと、耳が熱を帯びただけでなく電気が走ったという。
                                                   
その医師は「おカネでしているのではない。欲が出るとこういうのは使えなくなるから」と言って代金を受け取らなかった。その数日後、気づくと耳鳴りが治っていたという。半信半疑だったが、以来再発していない。
                                                   
その記事は次のように続く。《わたしは先生の施術によって耳鳴りが治ったことを知っている。経験したからだ。しかし、科学はそう言わないかもしれない。時間が経って自然治癒したのだ、と。わたしは、耳に電気が走ったことを知っている。しかし、科学はそうは言わないだろう。電流計など、科学的な器具に計測されないものは、存在しない。反復できないもの、実験できないものは科学ではない。また、科学の立場はそれでいい。》
                                                   
評論家小林秀雄の超能力体験や、民俗学者柳田国男の神秘体験にふれたあと、それらは反復可能性が低く、実験もできないのだが、「しかし、このわたしに、科学で説明できない不思議が起きたという<経験>は、動かしようがない」と書いている。
                                                   
旧統一教会の件が近藤氏にその記事を書かせたという。近藤氏は書く《えせ宗教にありがちな霊感・予知・神秘体験を、過剰にありがたがるわたしたちの心性にも、問題がありはしないか。不思議を異常事態として、ありえない奇跡として、圧倒される。拝む。入れ込む。それは逆説めくが、科学を過剰に信頼していた裏返しにほかならない。予知・霊感など、科学が測定しない不思議なんかたくさんある。むしろ常識の範疇に属する。予知。霊感。なんですかそんなもの! おもちゃみたいな話じゃないか。》と。
                                                   
記事はこのように結ばれている。《耳鳴りが治ったわたしは舞い上がり、先生にお礼を言いに行くのを忘れた。海外勤務にもなりそのままになった。帰国後、ふと思い出してお礼に行こうとしたが、先生はすでに亡くなっていた。医院は閉ざされ、庭の雑草が背丈ほどに伸びている。いま、そのことを、深く悔やんでいる。》
                                                   
                                                   
近藤氏による記事を読んで、6月4日の投稿記事「予知夢と霊・・・・・・実在すれども科学では説明不可なるもの」と、2021年12月26日投稿の「ギックリ腰の原因と対策」を思い出しました。それらの記事とその付記に列挙した記事を、ともに読んでいただけるよう願っています。


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民意を無視する日本という国 [政治および社会]

旧統一教会問題と国葬問題が岸田内閣を苦しめる中で、与党推薦になる候補が沖縄県知事選挙で惨敗した。昨日(9月13日)の朝日新聞「天声人語」は、沖縄の民意を無視する政府と日本人について書いている。その記事の一部をここに引用させていただく。
                                                   
 ・・・・・・一昨日の沖縄県知事選で、辺野古への基地移設に反対する現職の玉城デニー氏が再選された。「県民の思いはぶれていない」と彼が言うように、移設反対の意思が示されるのは、知事選と県民投票をあわせ連続4回だ。・・・・・・松野博一官房長官の「県民の判断であり、コメントは控える」との言葉は、無視ないし黙殺に限りなく近い。
 数年前、防衛省の役人に言われたことがある。「沖縄の世代が入れ替われば基地への姿勢が変わるはず」。沖縄戦を知らない戦後世代、そして米軍統治下の苦難を知らない世代が増えていけば、沖縄は基地を容認するはずだと。
 国の意に沿う世論になるまで、移設作業を強行し続けるという冷酷さであろう。そしてそれを許しているのが沖縄以外にすむ私たちだ。事件も事故も、そして県民の意思も、忘却されていいはずがない。
                                                   
「事件も事故も」とあるのは、沖縄でのアメリカ兵によるおぞましい事件と、米軍が繰り返した事故をさす。
                                                   
幾度となく繰り返されてきた政権による不祥事も、数年が経つだけで不問に付される。この国を破滅の淵に追い込んだ戦争という過ちですら、それを意識しているのは高齢者だけではなかろうか。天声人語子は「事件も事故も、そして県民の意思も、忘却されていいはずがない。」と書いた。沖縄以外に住む日本人に求められるのは、「沖縄における米軍のありようと県民の意思に、しっかり眼を向けること」であろう、忘却を云々されるより先に。


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歩数計をつけて過ごす日々 [身体と健康]

数年前から歩数計をつけております。歩数計を使う人の多くは、健康を維持するために歩数に意を向け、積極的に歩こうとしているのでしょう。私の場合はまったく受動的な理由によって歩数計を使っています。
                                                                                                                                               
数年前に、市内にある国立長寿医療研究センターから案内状があり、高齢者の身体機能等の経年変化を調べたいので、研究に協力して欲しいとのこと。指定された日に市役所へ出向くと、数十人の高齢者が集まっていました。それ以来、日常の行動や歩数を記録して、長寿医療研究センターに提出しております。それだけでなく、年に一度は身体機能や歯の検査(咬む力の測定など)、さらには認知機能の検査を受けております。調査が始まって間もない頃には、脳のMRI検査もありました。先日に行われた今年の検査では、歩行速度や咬む力、認知機能に問題はなかったのですが、極端な運動不足を続けたならば、後悔すべき事態が訪れるかもしれません。
                                                   
提出した記録データに対して、研究者からの評価が送られてきます。私は典型的な運動不足者ですから、一日の平均歩数は1500歩程度であり、もう少し歩くよう心がけてほしいと記されております。84歳の男の平均歩数は4200歩とのこと。運動不足の報いを避けるためにも、せめて今の2倍である3000歩を目指したいと思っています。年末頃に、歩数の状況をブログで報告したいと思います。怠惰に流されやすい私のことゆえ、平均で3000歩以上を達成するためには、かなりの努力を要します。
 


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八十路にて詠む歌 2 [吾が詠みし歌]

「歌詠みにあらざる者が詠む歌 2」に歌を記すべく、パソコンに向かったところ、歌詠みの仲間に加わろうとしている自分の年齢を思いました。するといきなり、こんな歌が浮かんできました。
                                                                                                                                                
いつしかに八十路を歩む我なれど路を訪ねていまださまよう
                                                                                                                                               
この歌を書いたら、先に投稿した記事「『八十にして未だ成らず』ゆえに『九十にして成る』を目指そう(2022.1.3)」を思い出しました。その記事にはこのような文章があります。 
孔子の有名な言葉として、「・・・・・・三十にして立つ、四十にして惑わず、・・・・・・七十にして心の欲するところに従えど矩をこえず」がある。孔子は74歳で没したので、「八十にして云々」はないのだが、ネットで調べてみると、長寿時代を生きる指針として「八十にして成る」をあげている記事がある。
  「八十にして成る」という言葉を読んで、自分はどうであろうかと思った。すでに平均寿命を超えた年齢にありながら、「成った」とはとても言えず、まだ途上に居るのだと思える。そのように自覚する理由は多々あるのだが、読書から教えられることが未だに多いことも、理由のひとつである。
 この数年、高橋佳子という方の著作を読んでいる。「魂主義という生き方」「自分を知る力」「ゴールデンパス」等々。書店に並んでいる「ゴールデンパス」の帯には、俳優の加山雄三氏の写真と推薦の言葉が記されているから、眼にした人も多いはずである。それらの書物を読むと、人の生き方について学ぶべきことが、私にはまだ多いことを気付かされ、学ぶことの喜びを知らされる。
 「ゴールデンパス」を読んで私は思う、「八十にして未だ成らず」の自分が目指すべき目標のひとつは「九十にして成る」であろう、と。
                                                   
私は褒められざる高齢者を自認していることになりますが、「未熟な自分を認め、さらなる成長を願っているのだから、気持ちにはまだ若さが残っている」とも言えそうです。楽観的にそう思おうとも、そのためには怠惰な自分に克たねばなりません。90歳に到達したとき、私はどんな自分に会えることだろう。

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八十路にて詠む歌 1 [吾が詠みし歌]

このブログに「父の歌集」なるカテゴリーを設け、父が遺した手書きの歌集をもとに、歌や手記を26回にわたって掲載しました(昨年の8月から今年の5月にかけて)。
                                                   
これまでの人生で私が詠んだ歌は、おそらく10首に満たないでしょう。思い出せるのは、中学校の国語の時間に詠んだ3首、両親にあてた手紙に記した1首、小説「造花の香り」(本ブログのサイドバー参照)の中に書いた2首だけです。そんな私ですが、16歳から38歳にかけて詠まれた父の歌を読み、このブログで紹介しているうちに、自分でも歌を詠んでみたくなりました。
                                                   
歌詠にあらねど歌を詠みたしと願えば一首心に浮かぶ
                                                   
歌詠みではない自分にどんな歌が詠めるだろうかと思ったとたんに、こんな歌が浮かんできました。まさに、思ったことが歌になった感じです。これからは、「吾が詠みし歌」なるカテゴリーにて、ときおり歌を載せます。勝れた歌を詠もうなどとは思わず(そう思ったにしても、未熟な歌しか詠めそうにないのだが)、思い浮かぶままに記すつもりです。カテゴリー「吾が詠みし歌」に歌を載せ続けるうちに、まともな歌を詠めるようになればと願っています。



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