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父の歌集より 15  出征兵士時代の歌 [父の歌集]

昭和12年(1937年)の夏以降から昭和19年(1944年)までに詠まれた歌は、なぜか記されていません。その間に詠まれた歌を選別し、後で書き加えるつもりだったのでしょうか、9ページ分の空白ページが閉じられています。歌を記したもとの用紙が見当たらないので、空白を埋めることはできません。その期間に4人の子供が生まれておりますから、私を含む子供について詠んだ歌が多かったと想像できるのですが。1ページに5首づつ記されているので、9ページには最大45首ほど記入できたはずです。
                                                                                                                     
私が小学校(戦前には国民学校と呼ばれた)に入学して間もない昭和19年(1944年)の5月、父は召集されて浜田連隊に入営しました。学校の校庭で行われた壮行式で、村人や生徒とともに並んで、私も「出征兵士を送る歌」を唄いました(付記)。6歳だった私に歌詞の意味はわからなかったのですが、今でも唄うことができます。父の壮行式しか記憶にないのですが、歌を覚えているのは、同じような壮行式に幾度も参加していたからでしょう。歌詞の1番は「わが大君に召されたる 命はえある朝ぼらけ 称えて送る一億の 歓呼は高く天をつく いざ征けつわもの日本男児」ですが、2番は出だしの「華と咲く身の感激を」しか記憶に残りませんでした。強く印象に残っているのは、壮行式の最後に、父が壇上で話していた姿と、最後に全員で万歳をしたことです。
                                                   
その壮行式で父と共に送られたのは、私の同級生の父親でした。その人も戦死することなく終戦を迎えながら、収容所で過ごした9ヶ月の間に病死したとのことです。父の手書きの歌集によれば、父も病気になって軍の病院に入院しています。非衛生的な環境での過酷な行軍など、発病の可能性大なる状況にあったとはいえ、太平洋の島や東南アジアで苦しんだ兵士と比べたならば、父は幸運だったと言うべきでしょう(「戦地での体験を語った物理学の先生    (2020.9.16)」参照)。
                                         
本ブログに父の詠歌を記していると、無事に生還してくれたことに対して、改めて感謝の念をおぼえます。そして、父の生前に歌集を読ませてもらわなかったことや、父の貴重な思い出を聞いておかなかったことを、とても残念に思います。
 
                                                   
父は昭和19年の春に召集され、中国へ出征しました。昭和12年春に詠まれた歌が記されたページから、9ページの余白を空けて、昭和19年の歌が記されております。
                                                   
                                                   
   Kに召集令状来る(K・・・・・・父の親友だった桑原氏)
大君の詔かしこみ出で立たす壮夫(ますらお)君に恙あらすな
                                                   
   仝五月我亦召集令来り五月 日入隊仝二十六日浜田発
   博多上船釜山にて乗車中支に向ふ
                                          
これ以降の歌は日本を離れてから詠まれた歌になります。父が中国へ向かった昭和19年は、日本の輸送船のかなりが、目的地に着くまでに撃沈される状況にありました。その危険を避けるためでしょう、父は朝鮮半島経由の列車で中国に向かっています。
                                         
浜田連隊を出発した日は5月26日と記されております。軍から家族に連絡があったのでしょう、母と私と伯父(当時すでに50代の半ばだった父の長兄)は浜田を訪れ、父を見送りました。多くの見送り人と駅の前に並んで、銃を肩に隊伍を組んで近づく兵士を迎えましたが、父の姿はわかりませんでした。兵士たちが乗り込んだ列車は窓が閉め切られたままでしたが、伯父と母の会話によれば、窓の内側にハンカチを押し当てている人が父だったようです。おそらくその前日に、出征兵士と家族の面会があったと思われますが、私にその記憶はまったくありません。
                                                   
                                                  
  北鮮にて
                                                   輸送車のひた走りゆく道の辺の野あやめの花目にしみて見ゆ
                                           
  仝じく
しろかきし水田に群れゐる白鷺のいよいよ白し影ひたしつつ
                                                   
  六月二日にやありけむ津浦線も浦口に近く満目唯波状に起伏する
  草原と水沢の間なりし
      津浦線・・・・・・天津と浦口(南京に近い都市)を結ぶ津浦鉄道
              水沢・・・・・・すいたく・・・・・・水のある沢あるいは湿地
やうやくに任地も近くなりにけり夏枯草(ウツボグサ)咲く中支の広野
      夏枯草・・・・・・カゴソウあるいはウツボグサと読む
中支那の広野をわたる六月の風にそよぎて輝く茅花
        茅花(つばな)・・・・・茅(ちがや)の花穂
幾山河遠く来りてもおのづから子等し思ほゆ茅花を見れば
                                                   
  六月六日南京を立ち常州に向ふ                                        
    南京から常州までの150Kmに近い道程を、重い背嚢(食料
    や銃弾など、総重量は40Kg程度に達したという)を背に
    て行軍したようです。1日に10時間以上を歩いたにしても、
    三日はかかったと思われます。肩にかついだ銃(4Kgの三八
    式歩兵銃)も重くじられたことでしょう。
クリークに銀とんぼいくつかとびてをり吾子とつりにしことしのばるる
クリークに菖蒲のびたり鯉のぼり立てつつあらめふるさとの子は
ふるさとの吾子はも庭に鯉のぼり立てつつあらめ菖蒲のびたり
われ三十八(みそや?)み軍人(いくさびと)とめされ来て麦秋の野をひた進みゆく
          われ三十八・・・・・・満36歳
み軍に出で征く我を見つめつつかすかに目ぬちうるませ給ひぬ
年老いし母はも日毎いのりつつ吾が子の我を待ち給ふらむ
すこやかにおはせど母は七十七わが帰るまで生きぬかせ給へ
    母は七十七・・・・・・満75歳
                                           
付記
小説「造花の香り」(本ブログの左サイドバーにて概要を紹介)に、出征する主人公のための壮行式が、国民学校の校庭で行われる場面がある。簡潔に描いたその情景を、私は父の壮行式を思い出しつつ書いた。
                                         
造花の香り 第三章 昭和十八年秋 より
 その日の午後、国民学校の校庭で行なわれた壮行式で、良太は村人からの声援をうけ、恩師でもある忠之の父親からは、心のこもった餞の言葉を贈られた。
  〈出征兵士を送る歌〉の斉唱をもって壮行式が終わると、家族と親戚はもとより近所の人にもつきそわれ、村内を通っている山陰本線の駅に向かった。子供のころから幾度となく汽車に乗り、そして降りた駅だった。
 汽車が動きだした。万歳の声とうち振られる国旗のなかに家族の姿があった。遠ざかるにつれて、家族の姿は人びとの中にまぎれていったけれども、国旗はなおしばらく、それ自体の存在を誇示するかのように見えていた。


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