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父の歌集より 25   従軍中に詠まれた歌 10 [父の歌集]

終戦時に中国にいた日本軍は、およそ110万人だったようです。日本の船舶には撃沈されたものが多く、中国からの復員には多くのLST(アメリカ軍の戦車揚陸艦)が使われたとのこと。アメリカ軍の協力があったにしても、膨大な人数の復員にはかなりの日数を要したようです。

                                          

中国の奥地で収容所暮らしをしていた父たちは、敗戦後も半年を経てようやく、復員に向けて移動したようです。



  二十一年二月十八日湘陰発、白水、泪羅、新牆河、岳州、雲渓を経て

  道人磯なる本属中隊に帰る。着せしは二十一日なり。四月中旬中隊は

  道人磯を発し城陵磯の宿舎に入る。復員の日近ければなり。ここにて

  帰路の携行食を準備す。 五月初旬岳州五里牌に集結、食糧、燃料を

  整へつつ出発命令を待つ。蛇、蛙など捕えて食用とする者ありき。

  中旬(大社祭の月に当れども何日とも定かならず)岳陽桜下にて大型

  民船に乗り麋口に向ふ。麋口にて数泊す。河岸の湿地に幕舎したるが

  雨のため特に多湿なりし。未帰還の邦人階上の窓より我等に手ふるを

  見て暗然たり。時折上陸して炊爨(スイサン)をしつつ南京に下る。

  南京にて一泊。城外にて露宿なり、ここより汽車にて上海に向ふ。

  蓋貨車にしてシートをもって蔽ふ。沿線を見るを許さずといふ。鎭江

  も常州も見ることなし。蘇州をかいまみる。上海にて又、未帰国の

  人の手ふるを見たり。上海市外にて下車恐らくは大場鎮ならんか、宿

  舎に入る。雨多くして陰湿の日多く丸木小屋にむしろを垂れてしきり

  たる、小さき土間のいぶせきこと極まれり。ここに居ること十日ばか

  りにして、ようやく・・桟橋より乗船す。船はアメリカの上陸用舟艇

  LSTなれども船長以下すべて日本人なれば安堵の思と共に祖国の山

  河に接するも一両日の間と思へば嬉しさ限りなし。海上波高く、船暈

  に苦しむ。佐世保湾に入り針尾島に上陸、宿舎に入る。船上に上陸を

  待つこと数日、山の緑色濃きと麦の黄なる色と、目にしみるが如

  りき。更にまた湾岸近く、半ば水没せる艦の赤く錆たるが、敗戦の姿

  を具象するに似たり。 

                                                   

「蛇、蛙など捕えて食用とする者ありき」なる文章から、厳しい食糧事情にあったことがうかがえます。「未帰還の邦人階上の窓より我等に手ふるを見て暗然たり」と「上海にて又、未帰国の邦人の手ふるを見たり」が、敗戦後に取り残され日本人を思わせます。
                                         

「湾岸近く、半ば水没せる艦の赤く錆たるが敗戦の姿を具象するに似たり」とあります。この文章が、小学生時代の記憶を思い出させました。父と伯父(父の長兄)が話し合っていたときのことです。復員した際の佐世保のことが話題になり、「日本の軍艦が赤さびをおびたままに放置されていた」と父が語りました。私はさしたる興味を覚えなかったのですが、どうしたわけか、今でも鮮明に記憶しております。




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