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父の歌集より 26 最終回 [父の歌集]

佐世保についた父は、LST内で数日を過ごしてから宿舎に入り、その後、南風崎駅(はえのさきえき)から郷里に向かったとあります。WIKIPEDIAには<南風崎駅(はえのさきえき)は、長崎県佐世保市南風崎町にある、九州旅客鉄道(JR九州)大村線の駅である。難読駅の一つ。・・・・・・太平洋戦争後、1945年(昭和20年)10月から1950年(昭和25年)4月まで、中国・東南アジア方面各地からの復員者・引揚者がこの駅より専用列車に乗り込んだことで有名。>と記されています。                                                   


父が復員したのは、出征してから2年と35日が経った日でした。私は小学校(当時は国民学校)に入学した直後に父を見送り、3年生の1学期に復員した父を迎えたことになります。                                                   



      六月二十九日、針尾島宿舎を出で南風崎より乗車郷里に向ふ。

      針尾島にて無事帰国のことを電報せんとしたるも郵便局員の恐

      らくは電報到着より先に帰郷すべしと言ふに思止まる。益田駅

      待合室に寝て、翌三十日十時頃江南駅着、妻と晋のプラットホ

      ームに立つを見る。晋病気のため今市へ行かんとてなり、共に

      帰る。姉の家に立寄り長くなる。通報により母子供ら走り来る。

      家に帰り妻子に囲繞され垢塵を落し帰郷の喜び切なり。庭樹ま

      た依然として我を迎ふるを見心楽しむ。


復員の旅長かりしようやくに祖国の島の見えそめしかも

                                                   


江南駅とあるのは、家から最も近い山陰本線の駅です。私の生家から歩いて30分ほどのところにあり、高校時代の私はその江南駅から出雲市の高校に通いました。                                                  


「翌三十日十時頃江南駅着、妻と晋のプラットホームに立つを見る」とあります。列車を待っていた母と私の前でドアが開くと、父が姿を現しました。このときの状況を本ブログに書いたのが、2019年9月4日に投稿した記事「偶然の出会いに関わるある思い出」です。母と私が出雲市に向かった用件に記憶はなかったのですが、父の手記によれば、私が病気になったため、病院に向かおうとしていたようです。記憶があいまいですが、その頃の私は脚気にかかっていたのかもしれません。医師に膝頭をゴムのハンマーで叩かれたり、ふくらはぎを押してへこみ具合を確かめられたりしました。                                                   


駅で父と出会ったあと、母と私は病院行きを中止して、3人で自宅に向かう途中にある、父の姉の嫁ぎ先に立ち寄りました。                                                   


「庭樹また依然として我を迎ふるを見心楽しむ」とあります。生家の庭にはたくさんの庭木がありました。父には盆栽の趣味がありましたが、水涸れの虞を回避するために、鉢植えの木はすべて地植えにしてありました。父が出征してからは、盛夏に雨のない日が続いたときは、小学生の私が水やりをしました。あるとき、うっかり水やりを忘れたことを思い出した私は、夜にもかかわらず実施することにしました。母に止められても私は井戸に行き、かなりの時間をかけて木に水をかけました。その間、母は縁側に腰を下ろして、私を見守ってくれました。記憶はないのですが、出征する父に私は約束していたのでしょう、庭木を枯れないように心がけると。復員した父による、「庭樹また依然として我を迎ふるを見心楽しむ」なる手記を読んで、あらためて嬉しく思う次第です。                                                   



従軍中と復員途上に関わる手記は、その間に記されたメモを基に記され、故郷の村に帰ってからの部分は、記憶をもとに記されたものと思われます。歌集に記されている最後の歌も、自宅に落ち着いてから詠まれたのかもしれません。                                                  


父の手書きの歌集は、「復員の旅長かりしようやくに祖国の島の見えそめしかも」なる歌で終わっております。その後に45ページ分の用紙が空白のままに綴じられておりますので、帰国してからの歌を記すつもりだったのかもしれません。昭和12年の夏から昭和19年の春までの歌も記されず、7ページ分の空白の用紙が綴じられているのも、後ほど追記するつもりだったのでしょう。                                                   


父の歌集に記されている手記は、すべて旧仮名遣いによって書かれています。現在使われている仮名遣いは、1946年(昭和21年) 11月に公布された内閣訓令「かなづかい」が基になっているとのこと。ほとんどの国民は、昭和20年代のうちに現代仮名遣いに慣れたと思われます。父も戦後には現代仮名遣いを使っていましたから、手書きの歌集が記されたのは、戦後も間もない時期か、遅くとも、昭和20年代だったと思われます。                                                   


歌集に多くの空白ページを残したのは、その後も歌を詠み続けるつもりだったからでしょう。それにしては、歌を詠んでいる父の姿に記憶がありません。敗戦とその後に激変した価値観が、歌を詠む気持ちを失わせたのでしょうか。                                                   


生前の父と歌を話題にしたのは一度だけでした。その思い出を書いたのが、2015年9月9日に投稿した「父の歌集」です。その頃の私は、父が歌を詠んでいたことも、手書きの歌集を作っていたことも知りませんでした。今の私はブログや小説を書く文系人間ですが、かつては典型的な理系人間でした。父も私をそのように見ていたからでしょう、文学に関わる話題に誘うことはありませんでした。父の生前に歌や文学を語り合えなかった私は、今にしてようやく、このような形で父の歌集と向き合うことができました。                                                  


26回にわたる「父の歌集より」を読んでくださった方々に感謝しております。ありがとうございました。




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