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インターネットで再会! 自分がかつて開発した製品の写真に! [雑感]

若い頃の私はビジコンと呼ばれる撮像管(注1)に関わり、その改善に情熱を燃やしたものだが、テレビカメラの主役が撮像板に代わった昭和60年代に、撮像管は表舞台から姿を消すことになった。それから数十年を経たいまでは、テレビに関わる技術者であっても、撮像管に興味を持つひとはいないと思われる。とはいえ、もしかすると、ネットの世界では今でも撮像管に関わる情報が見られるかも知れないと思い、「撮像管 HS201」と入力して検索してみた。HS201 とは、私がかつて開発し、型名をつけた撮像管である。意外なことに、真っ先に表示された〈真空管[撮像管]物語〉なるサイトに、この HS201 の写真が載っていた。

その〈真空管[撮像管]物語〉には、様々な撮像管の写真が表示され、簡単なコメントが付けられているのだが、その中に、私が型名をつけた HS201 なる製品の写真が、HS201A として表示されている。(私はそれを芝電気という会社で開発したのだが、昭和48年に日立電子と合併したために、それ以降の製品には写真のように日立のロゴがついている。)

2015年8月27日の記事「技術開発をチームで推進する場合の問題点……私の経験より」にも書いたが、芝電気に入社して数年が経った頃の私は、ビジコン(撮像管の品種名)の感度を少しでも改善すべく努力していた。アメリカのRCA社と技術提携していた他社は、高感度のビジコンである 7735A を作っていたが、私の会社にはノウハウが入らないので、旧型で感度に劣る 7038 タイプしか作れなかった。そのままでは製造中止に追い込まれる懼れすらあり、先行きは暗い状況にあったのである。

製造するビジコンの感度にはばらつきがあり、ときにはかなり感度の良い製品ができることもあったのだが、その理由はいっこうにわからなかった。そんなある日のこと、ビジコンに使う光導電材料(3硫化アンチモン Sb2S3)をアルゴン中で溶かしていたところ、融点が異なるだけでなく、温度を下げて固まったときの結晶形状も異なるものが見つかった。それを見た瞬間、私の中にひらめくものがあった。「決められた手順で合成されたSb2S3  であっても、組成が異なる材料ができているらしい。Sb2S3 を合成した後で行う成分分析の結果は、合成ロットごとの組成比の差はわずかでしかないことを示しているのだが、現実には融点の異なる材料ができている。感度がばらつく要因は材料の組成比にあるに違いない。」

Sb2S3合成後の分析データを調べた結果、「SbとSの原子量が大きく異なるために、合成した材料のSb含有率(重量比率)にはわずかな差しかなくても、材料に含まれる過剰なSbの含有率には大きな差があることになる。」ということがわかった。

私はSb2S3 に含まれるSbの比率を故意に変えた材料を幾種類も作り、ビジコンの光導電膜を、異なる組成の材料よりなる膜の多層構造にしてみた。そのような試作を繰り返した結果、わずかな期間で高い感度の製品を作れるようになった。

そうこうするうちに、感度を改善できたビジコンを品種登録することになり、開発者である私が品種名を決めることになった。私は高感度(High Sensitivity )を意味するHSを頭につけた型番にしたのだが、HS201 とした理由は思い出せない。その HS201 は、相変わらず感度にばらつきはあったが、なかにはRCA製 7735A の2倍以上の感度を示すものもあった。 2015年8月27日の記事「技術開発をチームで推進する場合の問題点……私の経験より」に、撮像管の性能を改善したことで社長賞(注2)をもらったことを書いたが、それはこの HS201 の開発に対するものだった。その後、通商産業省からの補助金(「鉱工業技術試験研究補助金」)を得て、性能をさらに改良したのだが(注3)、品種名の HS201 はそのまま踏襲された。    

そのうちに、HS201 は日立レントゲン社のX線テレビ装置用として、1本13万円(管理部門の担当者から聞かされたところによれば)で採用されることになった。特に高感度のものを選別しなければならず、相当に苦労することにはなったが、かなりの期間にわたって購入してもらえた。監視カメラなどの用途には数千円で売られていたことを思うと、13万円は並外れた高額製品だったことになる。

先述の真空管[撮像管]物語によれば、写真の HS201A はラベルが手書きになっており、製品の詳細は不明となっている。HS201 の中から選別された特に高感度の製品が、ラベルに HS201A なる品名を手書きされ、日立レントゲンなどに納入されたようである。日立のロゴを付された写真の製品は、芝電気が日立電子と合併した昭和48年以降の製品ということになる。昭和40年から製造され、Shibaden のロゴがつけられていたHS201 に、写真でもよいから会ってみたい気がするのだが、実現することはおそらくないだろう。「Hitachi」のロゴがついた写真であろうと、インターネットで再会できてとても嬉しく思っている。

電子技術が発展する歴史の中で、真空管は極めて大きな役割をはたしてきた。ラジオやテレビはむろんのこと、無線機などの電子機器の多くは、真空管があればこそ実現したものである。テレビの映像を撮るための撮像管も、テレビを映すためのブラウン管も真空管の仲間であり、テレビの黎明期からその黄金時代に至るまで、テレビが発展する歴史を支えた。撮像素子として多用された撮像管だったが、昭和60年代には固体撮像素子に取って代わられ、ブラウン管は今世紀に入ると液晶に座を譲った。技術者として撮像管に関わった私だが、固体撮像板が実用化されたことや、ブラウン管が液晶に代わったことを、それらが登場した当時からとても嬉しく思いながら、その恩恵を被っている。

(注1)撮像管
テレビカメラのレンズを通して作られる光学像を、テレビ用の電気信号に変える真空管であり、テレビの黎明期からその黄金時代に至るまでを支えた。昭和30年代に使われたのは、イメージオルシコンとビジコンの2種類であったが、昭和50年代になると、新しく開発された幾種類もの撮像管が、用途に応じて使いわけられていた。半導体による撮像板の実用化に伴い、昭和60年代には半導体素子に切り替えられていった。なお、撮像管は真空管の仲間とはいえ、光学像を電気信号に変換するための部分には、半導体同様に固体物理に基づく技術が関わっている。

(注2)会社からの賞名は社長賞ではなかったのだが、名称を明確には思い出せないので、ここではわかりやすく社長賞ということにした。私の受賞は「芝電技報」なる社報で報じられたから、それさえ見つかれば賞名がわかるのだが、その印刷物は手元に残っていない。賞をもらってとくに嬉しかったことは、電機会社が低賃金だった時代にあって、給料に匹敵する賞金を貰えたことである。60年近くも昔のことである。今のような社会情勢だったなら、それよりはるかに多い賞金になったであろうと思う。その開発がなかったならば、RCA社とノウハウ契約している他社とは太刀打ちできず、撮像管の製造を中止する結果になった可能性があったのだから。


(注3)通商産業省からの補助金による研究開発
通産省への申請書は、日付が昭和41年4月10日となっている。開発を担当すべき私はまだ社員歴5年だったので、主任研究者の欄には上司であった部長の名が記されている。この仕事に関わる苦労話は次の記事に記されている。
2015年8月27日の記事「
技術開発をチームで推進する場合の問題点……私の経験より
2016年11月1日の記事「
文部省……至る所に紙の山あり

 

追記(2021年4月25日)


最近になって真空管[撮像管]物語〉を訪ねてみたら、新たに7038/HS200なるビジコンの写真も追加されていた。(「遠い記憶のあいまいさ(2021.4.25)」参照)

                                                    追記(2021.6.28)

HS201が日立レントゲン社に採用された経緯を伺わせる記事が見つかった。「自分の過去の仕事に関わる記事を発見(2021.4.18投稿)」に記した。 

 


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