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学童が集団疎開させられた時代 [雑感]

新聞の見出しにあった<学童野球>なる言葉を、<学童疎開>と読み間違えたことがある。

                                         

太平洋戦争末期には、都会から集団疎開した学童たちが、私の母校で暮らしていたし、小説「造花の香り」(本ブログの左サイドバー参照)を書くに際して読んだ資料によって、戦争末期の日本の状況を知っているからであろう。                                                                                                                           

学童集団疎開が開始されたのは、アメリカによる空襲が懸念されるようになった昭和19年9月だったという。私が小学校(戦時中には国民学校と呼ばれた)1年生のときである。


私が生まれ育った村は出雲の農村だが、昔は子供の数が多かっただけでなく、高等小学校(2年制)も同居していたので、コの字形の2階建て校舎はかなり大きかった。ある日、校舎の一角が区分され、見知らぬ学童たちがそこで暮らすようになった。どいうわけで何がおこっているのか、私にはわからなかった。それが学童疎開によるものと知ったのは、ずいぶん後になってからである。禁じられてはいなかったと思うが、私たち村の子供は誰もその一画に入らなかったし(私が記憶しているかぎりでは)、新しく訪れた子供たちも、私たちの方に来ることがなかった。親元から離された学童たちには引率者がいたはずだが、大人の姿を見かけた記憶はない(幾人もの引率者がいたはずだから、眼にしたはずなのだが。もしかすると私には、自分の学校の教師に見えていたのかもしれない)。


私の母校に疎開した子供たちに関わる資料が見つかるかも知れないと思い、ネットで学童疎開について調べてみた。大阪から多くの学童が島根県に疎開したことと、少し離れた村の寺などに疎開した子供たちがいたことはわかったのだが、私の村についての情報は得られなかった。もしかすると、寺などに収容しきれなかった子供たちを、私の村が引き受けていたのかも知れない。

                                                   

小学1年生から2年生にかけてのできごとだったわけだが、学童疎開なる言葉を聞くと、昔の記憶が思い出される。新聞の<学童野球>なる見出しが眼に映った瞬間に<学童疎開>と読み間違えたのだから、小学2年生時の記憶が私の中に強い印象を残している、ということであろう。学童疎開について知ったのは、ずいぶん後になってからのことだが。

                                                   

私の故郷は戦災を受けなかったが、2年生の夏に終戦を迎えた私にも、戦時中の記憶は残っている。出征する父の壮行式で、壇上の父が大声で話していた姿。中国へ向かう父を見送るために(出征先が中国だったことを知ったのは戦後になってから)、母や伯父たちと浜田連隊まででかけたこと。雪がちらつく中を、「戦地の兵隊さんは・・・・・・」と声をかけられながら、はだしで校庭を走らされた小学1年生での思い出(「戦時中の小学生・・・・・・田舎の学校での思い出(2015.10.11)」参照)。超低空で頭上を通過した多くの軍用機(「特攻隊要員の搭乗機を見送った日のこと(2015.10.16)」参照)。登校時に校門で迎えてくれた銃を肩にした上級生(「戦時中の小学生・・・・・・田舎の学校での思い出(2015.10.11)」参照)。金属類を軍用にまわすため、学生服のボタンも瀬戸物になったこと。軍服の生地用として桑の木から皮をはぎとったこと。特攻隊のことを聞かされた日のこと(「特攻隊について語った国民学校1年生担任の女教師(2021.3.22)」参照)。田舎の小学校低学年生だった私だが、思い出せることは幾らでもある。

                                                   

学童疎開で私の村に来ていた学童たちは、私より数歳ほど年長だったはずである。きょうの記事を書きながら思う。あの人たちは戦後の日本で、どのような人生を送ったのだろうか。戦争に関わる記憶と戦争を憎む感情は、私との比ではない人たちである。

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