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人間は誰もが理系人間? [教育]

私は自分を典型的な理系人間だと思っていましたが、定年後には小説を書き、今ではこうしてブログを書いております。人には理系人間的なところと文系人間的なところが共にある、ということでしょう。小学生時代に理系の事象に強く惹かれたことが、私を技術者に導き、理系人間と自認させるに至ったのだと思います。小学生時代の私がもっと文学に親しみ、電気にまさる魅力をおぼえていたなら、文学の道を歩んだ可能性があります。


私は初めて書いた小説「防風林の松」(本ブログのサイドバーにて概要を紹介)の中に、次のような文章を書きました。主人公が友人との会食中に交わす会話です。


小説「防風林の松」第1章より引用

                                                                                                                                        ・・・・・・・・僕は自分自身の体験を語った。中学一年生まではまったくの成績劣等生だったこと。オーディオに対する興味におされて始めた電気の勉強が、僕に自信をもたらす結果になったこと。

 僕の話を聞いて坂田は言った。「今の日本では、小学校や中学校で落ちこぼされたら、そこから這い上がるのに苦労するわけだが、落ちこぼされている子供の中には、お前みたいなのがたくさんいるのかも知れないぞ。先生の話をろくに聞かずに、自分が興味を持っていることだけを考え続けているような子供が。そんな子供はほんとうは普通以上に集中力があっても、勉強する気も能力もないと決めつけられるんじゃないのかな、いまのような偏差値教育の中では」

「長岡半太郎や本多光太郎も、小学校時代には勉強ができなかったそうだから、今の日本に生まれていたら、世界的な学者にはなれなかっただろうな」

「今の日本では、小学校でつまずいた子供は催眠にかかってしまって、自分には能力がないと思い込むようになると思うな。そうなると、たとえ努力をしたところで、催眠にかかっているために勉強は身につかないわけだ。お前の場合には運が良かったんだよ。オーディオ装置に興味を持ったおかげで、うまい具合に催眠から醒めることができたんだからな。電子回路を勉強したきっかけが音楽というのは、お前だけかも知れないけどな」

「詳しいんだな、教育のことに」と僕は言った。

「本を一冊読んだだけだよ。偏差値教育と詰込み教育の問題をとりあげた本を」   

 その言葉を聞いて、坂田はずいぶんレベルの高い読書家だと思った。僕が読むのはおもに科学雑誌や週刊誌で、教養のための書物はほとんど読まなかった。

 坂田はさらに続けた。「こんなことも書いてあったな。小学校の低学年では理科好きな子供が多いのに、高学年になると理科嫌いが多くなるというんだ。好奇心を満たすことより、知識を詰め込むことが重視されたり、友達と成績を競わされたりするんだからな、そんな理科がおもしろいはずがないよ」(引用終わり)


上記の文章中に、「こんなことも書いてあったな。小学校の低学年では理科好きな子供が多いのに、高学年になると理科嫌いが多くなるというんだ。好奇心を満たすことより、知識を詰め込むことが重視されたり、友達と成績を競わされたりするんだからな、そんな理科がおもしろいはずがないよ」なる文章があります。この文章は、新聞か雑誌に掲載されていた記事(偏差値教育と詰込み教育の問題を取り上げた記事でした)に触発されて書いたものです。その記事を読み、まったくその通りだと思いました。好奇心に駆られて様々な事象に興味を示す子どもには、理系人間に通じるところがありそうです。というより、人間は誰もが理系人間的な要素を持っている、と言えそうです。


小説「防風林の松」は私が初めて書いた小説です。技術者を主人公とするこの小説には、私自身の体験を少しだけ書き込んであります。中学一年生までは成績劣等生だったこと、そして、そこから抜け出すうえで、電気に対する興味(ラジオなど)が役立ったことです。偏差値教育の影響を受けずにすんだことも、私にとって幸いなことでした。そんな私の体験が役立つかもしれないと思い、本ブログの「教育」カテゴリーに、幾度も記事を投稿してきました。その幾つかをここに列挙しておきます。

・「必要は発明の母なり」に付け加える言葉(2015年8月19日)                                                   











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