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靖国神社と仏壇・・・・・・霊魂の居場所について [人生]

2月3日の朝日新聞連載小説「ひこばえ」に、こんな会話がでてくる。「仏壇はありません。女房の位牌は、息子が持っています。だから私は、女房に手を合わせることができないんです」


霊魂の実在を識っている私は、霊魂が仏壇や墓に居着いていないことを識っている。同様に、戦死者の霊が靖国神社の中に鎮まっていないことも識っている。霊魂の実在を識る人たちも墓や仏壇に向かうことはあろうが、それは霊に心を向ける手段の一つに過ぎず、霊魂が墓や仏壇に居るとは思っていないはずである。そのように考えている私は、小説「造花の香り」(本ブログの左側サイドバーにて概要を紹介)の中に、次のような文章を書いた。特攻隊員として待機中の主人公が、親友に書き遺す言葉の一節である。


小説「造花の香り 第六章 若葉の季節」より引用


  ・・・・・・今日は一緒に出撃する仲間たちと散歩にでかけ、辺りの景色を眺めながら雑談のひとときを過ごした。お前には信じがたいだろうが、仲間の冗談には思わず笑い声が出た。出撃を目前にしていながら、自分でも不思議な程に落ち着いてこれを書いている。
靖国神社を話題にしたとき、出撃に際して交わされる「靖国で会おう」という言葉は、気持を通い合わせるうえでの合言葉の如きものだと仲間が言った。軍とは関わりのない忠之にも理解できると思う。俺の隊にはキリスト教徒がいるのだが、その仲間ですら言うのだ。自分は靖国神社に祀られるつもりは全くないが、出撃に際しては靖国で会おうという言葉を口にするかも知れない。かく言う俺自身の気持を言えば、その言葉を残して出撃することになろうと、神社に留まるつもりは少しもない。神社の中に閉じこもっているより、俺の家族とお前や千鶴の気持にいつでも応えられるよう、宇宙の中で自由に羽ばたいていたいと思う。俺自身は靖国神社を必要としないが、家族にとっては靖国神社が俺の墓標の如き存在になるだろう。俺が英霊として崇敬されていることを確認できる場所にもなるだろう。それは俺の場合に限らないわけだが、キリスト教徒の場合にはどうであろうか。殉国の至情に燃えているその仲間のことを思えば、国に命を捧げた者のための象徴的な墓標は、靖国神社のほかにも必要ではないかと思う。日本人が過去を振り返り、未来を考えるためにも、空襲の犠牲者などをも対象にした、大きな墓標をしっかりと打ち建てるべきではないか。これを記しているうちに、俺はその実現を強く願うに至ったのだが、忠之はどう思うだろうか。(引用おわり)


主人公が特攻隊員になる小説「造花の香り」を書くためには、多くの参考資料に眼を通す必要があった。その結果、特攻隊員のなかには幾人ものキリスト教徒がいたことを知った。神道を受け入れない彼らも、当然のように靖国神社に祀られたわけだが、その遺族たちはそれを受け入れることができないとして訴訟したことがある。そのような事実を知って、小説の終盤に上記のような文章を書くに至った。2017年4月9日の記事「小説の神様に扶けられて書いた小説」に記したように、走る筆に引きずられるままに上記の文章を書いたのだが、ブログを開設してからは、靖国神社や追悼施設についての記事を、繰り返し投稿することになった。その幾つかを以下に列挙しておく。




新聞小説の言葉に触発されて、霊魂が存在する場所について書こうとしたのだが、戦争犠牲者追悼施設に関わる記事を書く結果になった。靖国神社などに関わる上記の記事を、多くのひとに読んでもらえるよう願っている。

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