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国文由来の新元号を素直に喜ぶ、右翼ではなけれど [雑感]

2018年3月9日に投稿した「元号制定について疑問に思うこと・・・・・・中国の古典に依拠する必要があるのか」に書いたように、この国の元号をいまだに中国の古典に依拠するやり方を、私は不思議に思っていた。というわけで、新しい元号が万葉集に由来していることを、私はすなおに嬉しく思う。


「元号制定について疑問に思うこと・・・・・・中国の古典に依拠する必要があるのか」は、次のように書き出されている。


  朝日新聞には「平成と天皇」なる連載記事があり、3月5日からはその第5部として、「元号を追う」が掲載された。その記事を読んであらためて思った。漢字文化圏に属する国とはいえ、元号を中国の古典に依拠する必要があるのだろうか。
  3月3日に投稿した記事「日本でありながらプレミアムフライデーとは」では、政府が率先してカタカナ語を多用するこの国の不思議さを書いたが、元号という極めて重要なものを他国の古典に依拠することも、実に不思議なことではなかろうか。


「元号制定について疑問に思うこと・・・・・・中国の古典に依拠する必要があるのか」は、次のような文章で終わっている。


  アルファベットは古代のフェニキア文字を起源とするらしい。それがギリシャからローマに伝わる過程で変化したあと、さらに広まってヨーロッパ各地の文字が生まれた。東アジアの漢字文化圏では、漢字が改変されることなく伝搬し、受け継がれてきた。漢字が改変されないで周辺諸国に伝搬した理由は、アルファベットと異なって表意文字だからであろうが、そうであろうと、それぞれの言語に適応する形で使われている。
  明治の開国以降に多くの西洋文明を導入したわけだが、漢字は1000年以上も昔に受け入れ、貴重な文字として使いこなしてきた。文明開化なる言葉が踊った明治時代の初期に、アメリカから輸入された蒸気機関車には、カタカナによるワシントン号やリンカーン号ではなく、義経号や弁慶号なる名称が付与された。漢字が伝来してから1000年を超えていながら、この国は今もなお、元号を中国の古典に依拠しようとしている。カタカナ語を使いたがる政治家や官僚たちと同様に、元号を中国の古典に依拠しようとする者たちも、私には不思議な存在に思える。


新元号のもとになったという万葉集の文章は、中国の古典を参考に記されているとの説が出されている。それを不満に思うのであれば、元号に漢字を使うことにも疑問を抱くべきだろう。令和なる元号に対して、私はまったく不満を覚えない。

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