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3月10日の人災と3月11日の天災 [政治および社会]

3月11日の東北大震災は記憶に新しいが、3月10日に起こった大災害を記憶している人は少ない。1945年3月10日未明の東京大空襲は、一夜にして、東日本大震災をはるかに上回る10万人もの犠牲者を出した。全国の空襲による犠牲者は、原爆被災以外だけでも20万人以上に達したのだから、アメリカによる無差別爆撃は、人類史に残る暴虐と言えるだろう。


本日3月10日の朝日新聞声欄に、作家の早乙女勝元氏による投稿記事が、例年通りに載っている。その記事「形見の衣服 桜を覆った3・10」には、早乙女氏(東京大空襲・戦災資料センター館長)の思いがこめられている。昨年の3月10日の本ブログには、「早乙女勝元氏の投稿記事を読んで」なる記事がある。


きょうの朝日新聞には、東京大空襲にかかわる長い記事が載っている。編集委員福島申二氏による署名記事「炎の記憶 下町に刻まれた日」である。その記事によれば、戦時のアメリカ軍は、一般人が暮らす街を効果的に焼き払うため、戦前の日本の長屋街に似たものを作り、焼夷弾による実験をしたという。原爆攻撃と同様に、ヒューマニズムからかけ離れた行いである。


アメリカの戦略爆撃を主導したカーチス・ルメイ将軍に対して、佐藤栄作内閣は勲一等旭日大綬章を授与している。航空自衛隊の育成に協力してくれた功績に対する授賞とのこと。勲一等は天皇の親授が通例にもかかわらず、昭和天皇は拒絶したという。保守系政治家たちと昭和天皇の間には、人間として大きな隔たりがあると言えよう。


「炎の記憶 下町に刻まれた日」の後半に、次のような文章がある。
 
  新聞にも痛烈な反省がある。国が言うままに精神論で尻をたたき続けた。さらに、「火と闘って殉職」「死の手に離さぬバケツ」といった類いの「防空美談」をさかんに報じたのも新聞だった。
    東京大空襲に続いて名古屋、大阪なども空襲を受ける。直後の3月20日、本紙社説は「空襲に打克つ力」と題してこう言うのである。「われらもまた本当に爆弾や焼夷弾に体当たりする決意を以て敵に立ち向かおうではないか」。同じ新聞の後輩として胸がきしむ思いがする。


福島氏の記事は、日本軍が中国で繰り返した無差別爆撃や、アメリカによるベトナム爆撃に触れたあと、次のような文章で締めくくられている。


・・・・・・・東京の下町はいまも「炎の記憶」を静かにとどめている。供養の碑や地蔵にはきょう、様々な思いが捧げられることだろう。
  炎の記憶は世界の幾多の地に刻まれている。空襲を、戦争を、鳥の目ではなく地べたの人間の目で考える日にしたい。


明日の3月11日は、記憶に新しい東北大震災の日である。地震国のこの国では、大正時代の関東大震災もときおり話題になるのだが、あの戦争に関してはどうであろうか。戦争に関わる記憶は失われようとしているが、早乙女勝元氏はいまもなお、東京大空襲の記憶を留めるべく努力している。その思いが将来に受け継がれるよう願わざるを得ない。


この国の政治家は、戦争が終わって20年も経たないうちに、カーチス・ルメイに叙勲している。まともな政治家を選ぶとともに、しっかりと政治を見張ってゆきたいものである。

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