武本昌三氏のホームページ「ともしび」より記事を引用 [人生]
10月22日の「ともしび」に、武本氏に寄せられたメールと、武本氏からの返信メールが掲載されている。「このHPを読んでくださっている方々にお礼を」と題されたその返信メールをここに引用させてもらうことにした。多くの人に「ともしび」を知ってもらうためだから、無断でのこの引用を容認して頂けると思う。
武本昌三氏のホームページ「ともしび」の「メール交歓」より、「このHPを読んでくださっている方々にお礼を(2018.10.22)」を引用
N. M 様
メールを拝見しました。友人の方が、亡くなられる前にこのホームページや飯田さんの本に親しんでおられたことをお伺して、少し救われたような気がしています。霊界へ移る時に、霊的知識をもっていれば、不必要な恐怖心を抱かなくてもすみますし、環境の変化にも容易に順応できると考えられます。私も、いまではそういうこともわかりますから、いろいろと曲折を経て、霊的真理の一端でも知り得たことを、たいへん有難いことだと思っています。
メールを拝見しました。友人の方が、亡くなられる前にこのホームページや飯田さんの本に親しんでおられたことをお伺して、少し救われたような気がしています。霊界へ移る時に、霊的知識をもっていれば、不必要な恐怖心を抱かなくてもすみますし、環境の変化にも容易に順応できると考えられます。私も、いまではそういうこともわかりますから、いろいろと曲折を経て、霊的真理の一端でも知り得たことを、たいへん有難いことだと思っています。
私は、飯田文彦さんとは、彼が『生きがいの創造』を出す前から文通していました。お互いに大学に籍をおく者としての親しみもありました。彼に言わせると、私は彼の「ソールメイト」なのだそうです。私は、国立大学に長くいましたので、霊魂とか霊界とかの話を持ち出すことは、大学社会では「禁忌」であることをよく知っていました。私自身も、長い間、霊的真理からは遠いところにいましたから、それだけに、彼が大学の紀要に霊界について触れているのを知ったときには、批判を受けるのではないかと少し気になったことを覚えています。ご承知のことかと思いますが、いまでは彼も、大学を離れて、自由の立場で活躍の場を大きく広げているようです。
東大医学部教授の矢作直樹さんが、2011年に出した『人は死なない』も、世間に対しては大きな刺激になったと思います。評論家の立花隆氏などから、東大教授ともあろうものが、このような本を出すなんて、「開いた口が塞がらない」というような厳しい批判を受けたりしましたが、矢作さんは、あまり気にしていないようです。翌年には、ヘミシンクによる霊界探訪の実践者である坂本政道さんとの共著で、「あの世」をめぐる対談集『死ぬことが怖くなくなるたったひとつの方法』(徳間書店、2012)を出版し、その後も、同様の本を次々と出版しています。あなたも言われているように、1980年代の後半あたりから、死後の生についての本がいろいろと出まわりはじめて、求めようとさえすれば容易に手に入るようになりました。私などは、「科学で解明できるものだけが真理である」というアカデミズムの世界にあまりにも長く、どっぷりと漬かっていましたから、霊的真理に目覚めたのは、かなり遅い方です。
世の中には、昔も今も、愛する家族を失って嘆き悲しんでいる人々が数多くいます。老齢になって、迫りくる死の恐怖に怯えている人々も、決して少なくはありません。そういう悲嘆や恐怖を乗り越えることができる「たったひとつの方法」は、おそらく、霊的真理を理解すること以外にはないでしょう。私は自分自身の体験からもそう確信しながら、いままで、その体験を講演会で話し、本にも書き、このようなHPでも、訴えてきました。私の前世では、何度も霊的真理を疑い忌避してきたことがあったといわれていますから、今世で、このように霊的真理を普及するために微力を尽くすようになったのも、おそらくそれが私に与えられた使命なのでしょう。私は、その使命を私なりに、なんとか果たそうと努めながらいままで生きてきました。このようなHPも、あなたが言ってくださっているように、読者の方々に、少しでも、なんらかのお役にたってきたとすれば、大変有難いことだと思っています。あなたにも、私のほうからこそ厚くお礼申し上げます。 (引用おわり)
武本昌三氏のホームページ「ともしび」を、少しでも多くのひとが訪ねるよう願っている。そんな気持に押されて幾度も取り上げてきたわけだが、訪問者の少ないこのブログゆえ、大なる効果は期待できない。このブログを読んでくださる方には、武本昌三氏のホームページ「ともしび」を訪ねるとともに、そのホームページを宣伝して頂きたい、と願っている。
老化現象の改善 [身体と健康]
かつては誤嚥に苦労した私だが、今ではほとんど治っている。その経緯を書いたのが、2016年10月7日に投稿した「苦労していた誤嚥が簡単に治った!」である。
私の誤嚥が最初に始まったのは、2015年11月3日に投稿した「肺ガンが見つかった経緯」に書いたように、15年も以前であった。手術後には誤嚥に悩まされなかったような気がするのだが、なぜか記憶があいまいである(再発防止用の抗がん剤で副作用が現れるなど、意識が肺がんに強く向きがちだったせいかも知れない。薬は中止したけれども、再発しないで現在に至っている)。
手術後10年が経った頃には誤嚥が甚だしくなっており、飲食のたびに苦労するようになったが、2016年10月3日の投稿記事「苦労していた誤嚥が簡単に治った!」に書いたように、今ではほとんど治っている。私の誤嚥が不可逆的な老化現象であったなら、今の私は以前にまして苦労しているはずである。
若い頃には誤嚥の経験すらなかったのだから、私の誤嚥も老化によって発現したものであろう。そうであろうと、今ではその誤嚥が治っている。身体は不可逆的に老化し続けているはずだが、老化に伴って発言したはずの誤嚥が治ったのはなぜであろうか。
2016年10月3日に投稿した「苦労していた誤嚥が簡単に治った!」なる記事で、ミネラルのサプリメントによって誤嚥が治ったと書いたが、それが真実であるなら(私にはそれ意外の理由が考えられないのだが)、ある種の栄養素の欠乏(老化に伴ってその栄養素をより多く必要とするようになったことによる不足)により、誤嚥が起こる可能性を示している。老化によって特定の栄養素(ミネラルやビタミンなど)を多く摂らねばならなくなり、サプリメントが役立つ状況になったと思われる。
2018年10月9日に投稿した「骨粗鬆症になる人とならない人」にも書いたが、「高齢になるにつれて、ある種の栄養素を多く摂取すべき人」がいるのではなかろうか。老化を止めることは難しいにしろ、老化に伴う現象の幾つかは、栄養の摂りようによって改善可能である、と私には思える。
寿命を迎えるまでになすべきことは [人生]
8月23日に「親の恩・・・・・・グライダー事故を振り返って思うこと」なる記事を投稿したが、その事故は60年前の10月13日であった。忘れがたい10月13日とはいえ、事故に関する記事は先ごろ投稿したので、きょうは寿命について書こうと思う。グライダー事故のほかにも、命に関わる体験を幾度もしてきたからである。
振り返ってみると、私はそのような体験を小学生時代から繰り返している。小学生時代の感電事故(その事故については、2015年7月6日の記事「電気は怖い・・・・・・感電事故の体験」と、2018年9月7日の記事「安全教育としての理科教育」に書いている)と溺れかけたこと。小学生時代に患った肝臓病(その病気のことは、2015年9月24日に投稿した「子供を学習塾に通わせるより、読書の楽しみを教える方が良さそうだ」に書いてある)も、成人後にその体験を伝えた医師からは、「よく助かりましたね」と言われことがある。
結核に感染したのも小学生時代で、父に連れられてしばしば保健所に行き、X線検査を幾度も受けた。両親からも医師からも、感染のレベルは知らされなかったのだが、微熱を意識することが多かったから、きわどい状況にあったと思われる。その当時の結核は不治の病と呼ばれ、私の村でも肺結核で命を失う者が少なくはない時代であった。
そのような体験を持つ私は、特攻隊員を主人公とする小説「造花の香り」(本ブログの左サイドバー参照)の中に、次のような一節を加えた。出撃基地で待機中の主人公が、仲間の隊員と話し合う場面である。
「造花の香り第六章 若葉の季節」より引用
・・・・・・吉田と並んで歩きだすと、校舎の中からオルガンの音が聞こえた。音楽に素養のある隊員が弾いているのか、聴きなれた文部省唱歌の旋律が、少しも滞ることなく流れた。
「ところで森山、貴様は自分の寿命について考えたことがあるか」と吉田が言った。
「考えたことはないな、そんなことは」
「俺はモーツァルトが三十五歳で死んだことを知って、せめてそこまでは生きたいと思ったよ。その頃の俺は、二十歳までには死ぬと思っていたからな。中学に入ったばかりの頃だった」
「何かあったのか」
「肺浸潤になったんだ。残りの人生が数年しか残っていないような気がして、三十五まで生きたモーツァルトを羨ましく思った。三十五年も生きたなら、自分なりに何かをやれるだろうに、このまま死ぬのは悔しいという気持ちになったんだ。まだ十二だったからな」
「悔しいよな、たしかに。俺たちは日本のためどころか、人類全体のために役立つことができるかも知れない。そんな気持にもなるじゃないか。今の俺たちは死んで役に立つことしかできないが、この特攻がほんとに役に立ってほしいもんだよな」
「俺たちは実を結ぶどころか、花も咲かせずに散るんだ。俺たちの特攻が何の役にも立たないなんてこと、そんなことがあってたまるか」 ・・・・・・(引用おわり)
「ところで森山、貴様は自分の寿命について考えたことがあるか」と吉田が言った。
「考えたことはないな、そんなことは」
「俺はモーツァルトが三十五歳で死んだことを知って、せめてそこまでは生きたいと思ったよ。その頃の俺は、二十歳までには死ぬと思っていたからな。中学に入ったばかりの頃だった」
「何かあったのか」
「肺浸潤になったんだ。残りの人生が数年しか残っていないような気がして、三十五まで生きたモーツァルトを羨ましく思った。三十五年も生きたなら、自分なりに何かをやれるだろうに、このまま死ぬのは悔しいという気持ちになったんだ。まだ十二だったからな」
「悔しいよな、たしかに。俺たちは日本のためどころか、人類全体のために役立つことができるかも知れない。そんな気持にもなるじゃないか。今の俺たちは死んで役に立つことしかできないが、この特攻がほんとに役に立ってほしいもんだよな」
「俺たちは実を結ぶどころか、花も咲かせずに散るんだ。俺たちの特攻が何の役にも立たないなんてこと、そんなことがあってたまるか」 ・・・・・・(引用おわり)
命に関わる病気の最たるものはガンだが、私はそのなかでも危険な肺ガンを患い、手術を受けたことがある。ある女医さんの勘によって比較的早期に見つけてもらい、今に至るまで元気に過ごすことになった。その経緯を書いたのが、2015年11月3日の記事「肺ガンが見つかった経緯」である。
命に関わるような状況を幾度もくぐり抜け、長寿に達する人がいる一方で、本人には何らの落ち度がないにも拘わらず、若い命を失う人がいる。中には戦争犠牲者のように、政治の過ちによって犠牲にされる人もいる。病気で亡くなった人には「それが寿命だったのだ」と言えるけれども、不慮の事故などで亡くなった人については、「運が悪かったのだ」としか言えないような気がするのだが、スピリチュアルリズムに関わる人の中には、「それもやはり寿命なのだ」という見方をする人がいる。
スピリチュアルリズム的な解釈によれば、人がこの世に生をうけるのは、生きる過程を通じて霊的に成長し、魂を磨くことにあるらしい(注1)。若くして世を去る人がいるのは、「生まれた目的をすでに果たしたからである」ということらしい。私が幾度も危ういところを助かってきたのは(助けられてきた?)、この世で果たすべきことが残っていたためなのか、魂がまだ未熟に過ぎるゆえに死んではならなかったのか。「この世で果たすべき最も重要なことのひとつが、自らの魂を磨くこと」であるなら、元気で81歳を迎えようとしている私には、まだまだ未熟なところが多いということかも知れない。
未熟なところが多々あると自覚し、やり残していることも多々あるという気持がある私は、寿命を迎えるもう少し先までに、生まれる前にたてた目標レベルを目指して、魂を磨くべく努めたいものである。とはいえ怠惰で惰性に流されやすい私ゆえ、努力を怠る可能性がある。もしかすると、「怠惰で惰性に流されやすい弱点を克服すること」も、私がこの世に生をうけた目的のひとつかも知れないのだが。
(注1)
この考え方は生まれ変わり(転生)を前提にしている。生まれ変わりに関する学術的な調査が行われ、現在の科学では説明できないものの、その真実性が確認されている。
骨粗鬆症になる人とならない人 [身体と健康]
テレビの番組で骨粗鬆症なる病気を取り上げていた。私のまわりには見かけないのだが、高齢の女性には多い症状だという。栄養摂取に問題がなくても骨粗鬆症になる人がいるのであれば、主因は体質にあるということになろうが、その体質差には栄養も関わっていないだろうか。
明治時代の日本陸軍では、ビタミンB1不足による心臓発作(衝心脚気)が多発したという。細菌原因説に囚われていた軍医総監の森鴎外が、栄養失調説を受け入れなかったことも、対策が遅れて多くの犠牲者を出した理由のひとつだという。同じ兵営で同じ食事を摂りながらも、健常な者と脚気になる者がいたのだから、医学先進国だったドイツで学んだ森鴎外であっても(最先端の細菌学を学んでいたからかも知れないのだが)、栄養失調に思いが及ばなかったのだろう。ビタミンB1の欠乏によって脚気を発症した人たちは、そうでない人よりも多くのビタミンB1を必要とする体質の人だった、ということである。
ビタミンB1が欠乏すれば、若い人でも衝心脚気を発症するが、骨粗鬆症のほとんどは高齢者に生じる。老化現象のひとつとも言えるが、そうであろうと、ビタミンB1欠乏症の例と同様に、ある種の栄養素、たとえばカルシウムやビタミンD(あるいはその他の栄養素)を、一般的な人より多く摂取すべき体質の人が、骨粗鬆症の発症に至るのではなかろうか。
このブログに「身体と健康」なるカテゴリーを設けて、健康に関わる記事を投稿しているのは、医学については素人であろうと、誰かのために役立つ情報を発信できるかも知れない、と思うからである。調べてみたら、身体と健康カテゴリーにおよそ30回も投稿している。その内のおもな記事を以下に列挙しておく。
青い部分をクリックすれば、その記事を読むことができます。
・昔は高血圧いまは低血圧(2015年6月24日)
・適正な体重とは(2015年6月26日)
・嗅覚の喪失と復活(2015年7月13日)
・電気は怖い その2 (2015年10月23日)
・ハトムギでイボが消える理由(2015年10月24日)
・肺がんが見つかった経緯(2015年11月3日)
・インスタントラーメンの粉末スープは全量を使わないこと(2015年11月7日)
・高血圧にならないのは身のこなし方に癖があるから?2015年11月9日)
・筋力をつける体操は短時間でも効果があるとわかった(2015年11月12日)
・80歳になっても丈夫な歯を持つことができる(2015年11月23日)
・ビタミンやミネラルなどの必要量が体質によって異なる証拠(2015年11月28日)
・ギックリ腰を簡単に治す方法(2015年12月15日)
・野菜に含まれる栄養素が減少しているらしい(2015年12月19日)
・シャンプーもセッケンも使わない入浴(2016年1月5日)
・タモリ式入浴法の効能(2016年1月7日)
・薬の副作用について・・・・・・うつ病でもないのに抗鬱剤が効いた話(2016年2月17日)
・力仕事をしたら腰痛が治った!2016年9月21日)
・苦労していた誤嚥が簡単に治った!2016年10月7日)
・ネットの医学情報を安易に信用してはならない(2017年1月21日)
・近視の子供が遠近両用メガネを使ったら(2017年1月23日)
・点滴中に痛くなるのは薬剤の温度が低いせいではなかろうか(2017年1月31日)
・週刊誌に掲載される医学記事 (2017年2月3日)
・足早に歩く習慣と健康 (2017年2月27日)
・丈夫な歯をもつ高齢者を目指して・・・・・・目標は8020ではなく10020(2018年3月21日)
・目薬の効果と点眼する際の適量(2018年10月1日)
・適正な体重とは(2015年6月26日)
・嗅覚の喪失と復活(2015年7月13日)
・電気は怖い その2 (2015年10月23日)
・ハトムギでイボが消える理由(2015年10月24日)
・肺がんが見つかった経緯(2015年11月3日)
・インスタントラーメンの粉末スープは全量を使わないこと(2015年11月7日)
・高血圧にならないのは身のこなし方に癖があるから?2015年11月9日)
・筋力をつける体操は短時間でも効果があるとわかった(2015年11月12日)
・80歳になっても丈夫な歯を持つことができる(2015年11月23日)
・ビタミンやミネラルなどの必要量が体質によって異なる証拠(2015年11月28日)
・ギックリ腰を簡単に治す方法(2015年12月15日)
・野菜に含まれる栄養素が減少しているらしい(2015年12月19日)
・シャンプーもセッケンも使わない入浴(2016年1月5日)
・タモリ式入浴法の効能(2016年1月7日)
・薬の副作用について・・・・・・うつ病でもないのに抗鬱剤が効いた話(2016年2月17日)
・力仕事をしたら腰痛が治った!2016年9月21日)
・苦労していた誤嚥が簡単に治った!2016年10月7日)
・ネットの医学情報を安易に信用してはならない(2017年1月21日)
・近視の子供が遠近両用メガネを使ったら(2017年1月23日)
・点滴中に痛くなるのは薬剤の温度が低いせいではなかろうか(2017年1月31日)
・週刊誌に掲載される医学記事 (2017年2月3日)
・足早に歩く習慣と健康 (2017年2月27日)
・丈夫な歯をもつ高齢者を目指して・・・・・・目標は8020ではなく10020(2018年3月21日)
・目薬の効果と点眼する際の適量(2018年10月1日)
既得権なる不思議な権利 [政治および社会]
北野武著「新しい道徳」にこんな文章がある。
[勤勉だの勤労だのが道徳なのは、ほんとうのところ、誰のためなんだろうか。……勤労が道徳なのは、権力者が楽をするための決めごとなのだ。……いつの時代も、権力者は人を働かせたがる。今もそれは変わらない]
[勤勉だの勤労だのが道徳なのは、ほんとうのところ、誰のためなんだろうか。……勤労が道徳なのは、権力者が楽をするための決めごとなのだ。……いつの時代も、権力者は人を働かせたがる。今もそれは変わらない]
そこに記されている「権力者」には、政治権力を持つ者だけでなく、組織の中で力を持つ者や、様々な既得権者も含まれるだろう。
既得権を有する者が、その権利によって不当な利益を得たり、他の者に不当な損害を与えたりしたなら、それを糺すのも政治の役割であろう。「・・・・・・権」と呼ばれるからには法的なものゆえ、不当な既得権は法律によって簡単に糺すことができるはずである。にも拘わらず、問題を指摘されながらも糺されない「既得権」が多いようである。それどころか、法律がそれを擁護していると思われるものがある。北野武の表現を借りるなら、「いつの時代も、既得権者は権利を維持したがる」であり、「法律は既得権者を擁護するために作られることがある」であって、「法律はときとして、権力者が国民を支配するための道具になる」と書けそうである。
新聞の記事によれば、非正規労働者が4割を越えるとのこと。同じような仕事をしていながら、正規社員と派遣社員では賃金などに大きな差があるという。こんなことをしていたら「新しい道徳」を云々する以前に、この国の道徳観念が壊れてしまうのではないか。このような非正常な国を作り上げたのは自民党だが(自らの利益を重視して自民党に投票してきた有権者も同罪)、その自民党は道徳教育にこだわっているようである。自分たちと自分たちを支持する者たちの都合を優先し、非正常で不公平な社会を作りだした政治家たちは、国民にどんな道徳観念を植え付けるつもりだろうか。
格差社会の歪みを無視できなくなったのか、いまの自民党は「同一労働同一賃金」を提唱している。来年の参院選に備えて、自民党は選挙対策としての格差是正を唱えるにちがいない。不平等と格差が大きな社会問題となっているので、矛先をかわすための言葉を駆使すると思われるが、その言葉は掲げられるだけであり、実行に移される可能性はゼロだろう。
タイトルを「既得権なる不思議な権利」としながら、自民党に対する不満を書いて終える結果になった。政治に対する不信と不満が溢れておりながら、くだらない議員が当選し続ける日本。モリトモ・カケ問題やイラク派遣に関わる日報問題など、あってはならない事態を引き起こす一方で、独善的な法案の成立をごり押ししてきた安倍政権。それにもかかわらず、自民党の支持率が高い不思議な日本。
韓国に対して不信と不満を覚える私だが、その国をうらやましく思えることがある。まともではない政治家は政治の場から去らざるを得ない国である韓国。日本もそのようにありたいものだが。
目薬の効果と点眼する際の適量 [身体と健康]
まばたきすると眼がかすむことがあり、そのたびに眼をこすって対処するようになりました。涙量の減少によるドライアイかも知れないと思い、目薬を使ってみることにしました。
説明書には、「1回につき2~3滴を点眼する」とあります。そこで最初の一滴を点眼してみたところ、それで充分な量であることがわかりました。それ以上点眼したら全てあふれ出てしまい、まったくの無駄になります。
2~3滴ほど点眼すれば眼からあふれ出ることがわかっておりながら、メーカーがそれを推奨するのは、溢れることに意味があるからであろうか。そうであるなら説明書にそれを明記すべきであり、そのような効果がないのでれば、消費者に無駄を勧めていることになります。
ここまで書いたら、以前に書いた記事を思いだしました。2015年11月7日の「インスタントラーメンの粉末スープは全量を使わないこと」です。
インスタントラーメンに添付されている粉末スープの量は、濃い味を好む人を満足させ得る量と思われるので、いつもその全量を使うと塩分の過剰摂取になる虞があります。私の場合には、半分ほどの量で充分に満足できます。今でも血圧が高くならないのは体質によるのでしょうが、もしかすると、比較的に薄味を好むことも、血圧の上昇を抑えているのかも知れません。
横道に逸れているうちに、目薬の効果を書き忘れるところでした。目薬は私にとって望外の効果があります。眼がかすんだときに点眼すると、即効的に改善されることから、どうやらやはり、涙が減っていたようです。車で出かける際には、目薬の点眼を忘れないよう心がけております。
目薬が涙の代役をつとめるにしても、その効果は短時間で消えるだろうと思っていましたが、予想に反して、点眼してから1時間以上も効果があります。ドライアイかどうかを試すのが目的だったので、最も安価な「ロートビタ40」を買ったのですが、私の場合はこれで間に合う結果になりました。