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小林多喜二に関わる俳句を読んで [政治および社会]

3月15日の朝日新聞文化欄の「俳壇」に、「多喜二忌の帝国ホテルロビーかな」(野上 卓)が載っている。選者4人のうちのふたりが、この句を入選作に選んでいる。


小林多喜二が特高警察の残虐な拷問により、29歳の若さで亡くなったのは、昭和8年(1933年)2月20日であり、その2月20日は多喜二忌とされているらしい。90年に近い歳月が流れておりながら、ネットの世界を眺めてみると、多喜二に関わる情報はいくらでも見つかる。その幾つかを読んで思うのは、小林多喜二の勝れた人間性と、それを認めて多喜二に関わった人たちの存在である。多喜二に関わったことが特高に知られたならば、検挙されるだけでなく、拷問を受ける危険すらあった時代である。世間から身を隠して暮らしていた多喜二には、密かに結婚した妻がいた。


多喜二の遺体に取りすがって泣いたその妻は、後に政治マンガなどで著名な森熊猛と再婚したという。愛妻家だった森熊猛は妻が亡くなったあと、妻が保管していた小林多喜二の分骨を、妻の遺骨に加えたという。このエピソードは、森熊猛に関わる記事を検索すればいくらでも見つかるのだが、その記事を読んだ私は、自分が書いた小説「造花の香り」(本ブログの左サイドバー参照。3月4日の投稿記事「カクヨムに小説「造花の香り」を連載」に書いたように、小説投稿サイトであるカクヨムで読むことができる)の文章を思い出した。


 「造花の香り」のプロローグには、このような文章がある。戦後も60年が経った頃、特攻隊員良太の婚約者だった千鶴が、良太の無二の親友だった忠之に出した手紙の一部である。

〈・・・・・・夫から結婚を申し込まれましたとき、婚約者が特攻隊で戦死したので、私には結婚する意思がないと伝えました。縁があったと申しましょうか、それでも結婚した私たちですが、結婚してからも良太さんのことが幾度か話題になりました。そのようないきさつがあってのことと思いますが、自分の病気が不治と知った夫は、病院のベッドでこのように申しました。私があの世に行ったなら、私とともに森山という人の冥福も祈ってあげなさい。千鶴にはそのようにしてもらいたいし、千鶴はそうすべきだという気がするのだと、夫は言い遺すかのように語りました。・・・・・・もうひとつお願いがございます。長い間お預けしてまいりましたが、良太さんが私に遺されたノートや手紙は、やはり私が処分すべきだと思いますので、今になって甚だ勝手なお願いではございますが、あれを引き取らせて頂きとう存じます。・・・・・・〉


70年あまり以前の日本は、今の北朝鮮や中国のように、思想や言論の自由がなく、権力に逆らう者は弾圧された。弾圧の主対象だった共産党員たちが、命の危険にさらされながら生きた時代である。共産主義国家の過去と現状が、1党支配の国は非人間性国家になることを教えているが、戦前の共産党員たちはひたすらに、より良い社会を目指して戦ったのであろう。真の理想主義者だった彼らを、この国の官憲は国賊として弾圧し、拷問によって多くの犠牲者を作った。真の国賊は、戦争による惨害をもたらした者たちだったのだが。


悪逆非道な拷問を行った特高警察官は、戦後の社会でむしろ出世したという。非道な取り調べによって冤罪を作る警察や検察の底には、戦前と同じような思想が流れているのかもしれない。戦前の日本に回帰したがるような印象を与える政治家に、不安と危惧を覚える今日この頃である。

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