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ポケットベルや自動車電話が大きな役割を担った時代 [雑感]

平成時代になって急速に普及した携帯電話におされ、それまで多用されていたポケットベルは徐々に使われなくなったはずだが、ポケットベルのサービスが終了するのは、明日の9月30日とのこと。

昭和の末期である昭和60年代には、社外で仕事をする営業やサービスに関わる人たちはポケットベルを持っていた。用談中にベルが鳴り、「申し訳ありませんが、電話をお借りできないでしょうか」と言われたことが幾度もあった。

自動車電話が利用され始めたのは1979年だという。電電公社(現NTT)によって始められたそのサービスは、携帯電話が普及したことにより、2012年に終わったという。その携帯電話も今ではガラケー(私には不謹慎な呼び方に思えるのだが)と呼ばれ、主役の座をスマホに譲っている。スマホの便利さはわかっているし、家族の者もそれを利用しているのだが、私と妻はガラケーを愛用している。ガラパゴス携帯電話と揶揄する者がいようと、技術者たちが心血を注いでつくりあげたガラケーと、安価でありながら充分に役立つパソコンさえあれば、私には何らの不満もない。それどころか、技術開発に執念を燃やしたはずの技術者たちに、敬意と感謝を伝えたい気持である。ここまで書いたら、以前に書いた記事「車の開発と技術者の執念(2018.2.15)」を思い出した。

科学技術の脅威的な進歩の速さは、それを成し遂げるために執念を燃やしている技術者たちがあってこそだが、パソコンやスマホを使っている人たちの多くは、そこに思い及ぶことはなさそうである。

ここまで書いたら、もう一つの投稿記事「『必要は発明の母なり』につけ加える言葉(2015.8.19)」を思い出した。その記事に書いたように、小学生時代の私の友人は「発明家になりたいのだが、必要な物がすでに全て発明されてしまったので、発明家になれなくて残念だ」と言った。現実にはその後の70年の間に、実に多くの物が発明されて、人の生き方や社会の有り様に変革をもたらしている。日本はむろん世界中に、目標にむかって執念を燃やしている技術者がいる。30年後の人たちは、どんな科学技術の恩恵にあずかるのだろうか。

科学技術が急速に進歩する一方で、政治や社会の有り様は少しづつしか前進しない。ときには逆行することすらあるわけだが、国民の多くが政治に関心をもち、選挙の投票率が以前のように70%くらいになれば、政治と社会の前進にも希望がもてるのだが。
                                                 

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結婚する相手は運命的に決まっているのかもしれない [人生]

偶然の出会いに関する記事を書いていると(付記参照)、普段は意識していなかった記憶が次々に思い出された。これまで書いてきたように、私には不思議な出会いの経験が多いのだが、もしかすると、妻もその相手のひとりではないか、という気がする。


妻との仲を取り持ってくださった方は、私と妻の双方と親しかったのだが、私は自分が出雲出身だとは伝えたことがなかった。妻が東京生まれで東京育ちだということは、すでに知っておられたようだが、その両親が出雲の出身であることはご存知なかった。


付き合い初めて間もなく、結婚したいと思うようになったそのひとの両親が、私と同じ出雲の出身であると聞かされ、偶然とはいえおもしろい巡り合わせだと思った。


それまでに、不思議な偶然の出会いを経験していた私だが(7月20日に投稿した「村上春樹の新作を読んで」参照)、妻の両親が出雲の出身だったということを、特別に不思議なこととは思わなかった。というわけで、これまではさほどに意識しなかったのだが、不思議な出会いに関する一連の記事(付記参照)を書いた今では、妻とは出会うべき運命だったのではないか、という気がしている。そうだとすれば、私たち以外の多くの人にとっても、そのように言えるのではなかろうか。


もしも結婚相手が運命的に決まっているとしても、ただ待っているだけでは、出会えるはずの相手に出会えないかも知れない。やはり、出会いを強く願ったり、そのための行動を起こすなど、それなりの努力を必要とするのではなかろうか。


不思議な出会いには様々な形があるわけだが、いずれにしても、縁とは不思議なものであると言えそうである。

 

付記 1   これまでに投稿した偶然の出会いに関する記事
村上春樹の新作を読んで(2019年7月20日)


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偶然の出会に関する忘れがたいもうひとつの思い出 [人生]

偶然の出会いに関する記事を投稿し続けてきて(付記1参照)、体験の全てを書いたような気がしていたのだが、もうひとつ、印象に残っている思い出があった。実に不思議な出会いだったが、相手は人間では無く、私自身の名前である。


このブログの「教育」カテゴリーには、中学1年生までの私が成績劣等生のひとりだったことを、少なくとも3回は投稿している(付記2参照)。そんな私だったが、すでに書いてきたように、中学3年時にはむしろ成績は良い方だった。そのためであろうか、生徒会の役職の一端をになうことになった。そんなある日のこと、近隣の中学生の代表が集まる行事があって、私も参加することになった。会場は山陰本線で一駅ほど西の中学校で、私は一度も訪れたことがない学校だった。


その日その学校に集まったのは、幾つかの学校からきた代表の生徒だけであり、学校は森閑としていたから、おそらくその日は休日だったと思われる。何を目的とした集まりが休日に行われたのか、今ではまったく思い出せないのだが、決して忘れられない思い出が残ることになった。


集まった10人ほどの生徒は、会場とされた教室に案内されて、席を選んで腰を下ろすようすすめられた。


椅子に腰掛けると、机の右上隅に張られている名前が見えた。めいめいに席をとるよう勧められたのだから、そこが私に指定された席ではないことは明らかだったが、驚いたことに、張られている縦長の紙に記されていたのは、まぎれもない私の姓名だった。


私の姓は比較的に珍しい方だが、出雲地方ではよく知られており、高校を卒業するまでは、同学年に数人は同姓の生徒がいたものである。そうであろうと、同姓同名の知人はひとりもいなかった。ところがである、初めて訪れた学校のひとつの教室で、偶然に選んだ席が同姓同名の生徒の席だったのである。その隣の席を選んでもよかったのに、どうして私はそこに腰を下ろしたのだろうか。私とほぼ同年齢のその人は、どこでどんな暮らしをしているのだろうか、と思いつつこの記事を書いている。


偶然の出会いを繰り返しながらも、私はそれが意味するところを考えたことはなかった。考えてみたところで、「それは人智の及ばないところだ」との結論しか得られないかも知れないのだが、一連の記事を書いて思うのは、「人智の及ばないこととはいえ、人が経験することには何らかの意味があるに違いない」ということである。その意味が今世の間にわかればよいのだが、と願っている。


付記 1   これまでに投稿した偶然の出会いに関する記事
村上春樹の新作を読んで(2019年7月20日)
                                                                                                                                                
付記2   教育に関わる投稿記事の例
                    

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田中角栄の言葉を聞かせたい国会議員たち [政治および社会]

9月16日に投稿した「戦争を憎む感情を失いつつある日本人」に関連する記事として、2018年1月25日に投稿した記事「安倍首相を危惧するあの世の田中角栄」を再掲してみたい。丸山穂高議員の言動は、田中角栄が危惧したことが現実になりつつあると思わせるからである。


「安倍首相を危惧するあの世の田中角栄(2018.1.25投稿)」の再掲


朝日新聞朝刊の一面に「折々のことば」なる欄がある。きょう(2018.1.25)そこに掲載された言葉を、そっくりここに引用させてもらうことにした。


《朝日新聞の「折々のことば(2018.1.25)」より引用

「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない」(田中角栄)


「だが、戦争を知らない世代が政治の中枢となったときはとても危ない」と続く。元総理は新人議員たちにこう語ったと、実業家で元中国大使の丹羽宇一郎が近著「戦争の大問題」に記す。跨ぎ越してはならない線がどこかを教えるのは、体験の重しである。丹羽の引いたこの言葉、雑誌「通販生活」本年春号の表紙を飾ってもいる。   (引用おわり)


田中元首相が語りかけた新人議員たちは、おそらく、その多くは戦前に生をうけた人であろう。それから数十年が過ぎたいま、国会議員の多くは戦後生まれであり、安倍首相もそのひとりである。その安倍首相のもとで、特定秘密保護法と安全保障関連法に続き、共謀罪法あるいはテロ等準備罪法とも呼ばれる改正組織犯罪処罰法が制定された。集団的自衛権の行使容認を柱とした安全保障関連法は、憲法を蔑ろにした法律であり、当然ながら歴代の自民党政権によって否定されてきたものである。数をたのむ安倍政権は独善的に、政治の有り様を歪めているとしか思えない。


安倍政権による集団的自衛権行使のための安全保障法制改正案に対して、同じ自民党でありながらも、戦前を知る多くの高齢議員たちは反対の意志を示していた。そのひとりである亀井静香氏は記者会見の場で、「日本が戦争に負けて以来、ある意味で最大の危機に直面しているという点で認識が一致している」と語り、元自民党副総裁の山崎拓氏は同じ場で、「私たちの共通点は、戦前生まれであるということ。我々がじじいだからといって、黙っているわけにはいかない」と語ったという。


自民党から戦争を知る政治家がいなくなり、田中元首相が危惧した状況になっている。安倍政権を見ていると、田中元首相の危惧がすでに現実になっており、このままに推移するなら、好ましからぬ日本に導かれるのではないかとの不安がよぎる。あの世の田中角栄氏はあのダミ声で、安倍首相を叱っているのではなかろうか。戦争を知る自民党の長老たちが声をあげ、国民に向かって警鐘を鳴らしてくれないものかと思う。元首相の小泉純一郎氏は原発廃止論者に変身し、細川護煕元首相とともに積極的に活動している。この国の将来を想う政治家ならば、古巣の自民党であろうと、その有り様を責めてほしい、と願っている。          (再掲おわり)


戦争がもたらす痛苦と悲しみにより、戦争を強く憎む感情が国を覆っていたはずだが、戦争が歴史の彼方に遠ざかるにつれ、そのような感情が失われつつある。そのような状況だからこそ、あの戦争を歴史書に記すだけでなく、眼に見える記念碑を建立すべきである。その記念碑は、戦争で犠牲になった日本人と、日本が犠牲にした人々のための慰霊碑でもあり、反戦と平和を祈念するための祈念碑でもある。その祈念碑は、政治が誤れば絶対悪たる戦争が起こり得ることを教え、いったん戦争が起これば膨大な犠牲者を出し、極限の痛苦と悲しみをもたらすことを、眼に見える形で教えるはずである。あの戦争に至った過去を悔い、反戦と平和を誓ったはずの日本でありながら、それを象徴する祈念碑が未だに存在しない。私には実に不思議なことに思える。田中角栄の危惧を危惧のままにしておくために、反戦と平和を祈念する象徴となるべき、巨大な慰霊碑を建立すべきである。



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戦争を憎む感情を失いつつある日本人 [政治および社会]

日本が中国との戦争を始めたころ、その戦争は聖戦とされ、政府(軍部)は「暴支膺懲」なる言葉を使って国民を煽った。アメリカやイギリスなどとの戦争が始まると、「鬼畜米英」「一億一心火の玉だ」「欲しがりません勝つまでは」などの標語が日本中で唱えられた。小学校(その当時は国民学校と称した)1年生の冬に、私たちは裸足で校庭を走らされたことがある。痛いほどの冷たさに耐えつつ走る小学1年生に向かって、いつもは優しかった先生は言った「戦地の兵隊さんは・・・・・・」と。


かつてこの国は、無謀な戦争に国民を引き込んだだけでなく、敗戦必至の状況にありながら、愚に愚を重ねて戦争を長引かせ、膨大な犠牲をもたらした。永井荷風はその日記「断腸亭日乗」(付記1参照)に、アメリカに戦争を仕掛けた日本に対して、「アメリカに勝てるわけがないのだから、すぐにも戦争に負けた方が日本のために望ましい」と書いている。そんな荷風も空襲で家を失って苦労したわけだが、せめて数ヶ月早く降伏していたならば、空襲や原爆による被害の多くが避けられ、ソ連による日本攻撃と、それに伴う数々の被害もなかったはずである。戦争末期に出撃した多数の特攻隊も、数ヶ月早くに戦争が終わっていたなら、出撃することはなかったはずである。


国が命ずるところに従順に従い、極限の痛苦を与えられたにもかかわらず、敗戦後の日本人は戦争を憎みはしても、戦争に導いた者たちを責めることはなく、裁いたのは連合国側だった。もしかすると、日本人の多くは戦争指導者たちと共犯意識があり、裁こうという気持になれなかったのかも知れない。戦時中の国民は、「一億一心火の玉だ」「鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」などの標語を自分のものとして、ひたすらに苦難に耐えていたから、国を誤った者達に対する怨嗟の気持とともに、国を導く者たちとの一体感があったのではなかろうか。膨大な犠牲と痛苦をもたらしたあげくのはてに、この国を亡国の淵まで追い込んだあの戦争。保守的であり、お上に従順であり、付和雷同しやすい国民性が、多くの国民をしてあの戦争を支持させたのであろう。そのことを悔いる気持が、戦争を憎む感情をより強くしたと思われる。


戦争で苦しみ、その悲惨さを知る政治家たちは、革新系と保守系にかかわらず、戦争を憎む感情を抱いていたはずである。戦後生まれの政治家であっても、戦争を憎む感情と反核兵器の感情を持つ、まともな政治家であってほしい。現実には、日本維新の会から「NHKから国民を守る党」に移った丸山穂高のように、「国益のためなら戦争を必要とする場合があるのではないか」と発言する議員が現れるに至った。元大阪維新の会の橋下徹のように、原水爆が平和を維持するうえで役立つと主張する者もいる。


戦争を憎む感情が失われたならば、いつの日か、この国が戦争に巻き込まれるときが訪れるかもしれない。このブログに幾度も書いてきたように(付記2参照)、この国の将来のためにも、大きな記念碑を建立すべきである。それは戦争による膨大な犠牲者のための慰霊碑であり、あの戦争を忘れないための記念碑であり、反戦平和を祈るための祈念碑である。


付記1 断腸亭日乗 
作家の永井荷風が40余年にわたって記した日記であり、荷風の最大傑作とみなす人もいるという。作家の井上ひさしは、断腸亭日乗は古事記や源氏物語に匹敵すべき貴重な遺産だとしている。ドナルド・キーンなど多くの作家や研究者たちが、断腸亭日乗に関する著作を発表している。


付記2 戦争犠牲者慰霊碑や靖国神社に関する本ブロのグ記事





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蝶や蜂やトンボがいない夏・・・・・・・・猛暑が昆虫の世界に異変をもたらした? [雑感]

故郷の出雲に滞在中に暑さが話題になったことがある。私が「去年の猛暑のせいか、毎年のように大量に発生するイラガが、今年はまったく見られない」と言ったら、妹のひとりが言った。「そう言えば、今年はチョウチョもあまり見かけない」


私が住んでいる所は名古屋市の郊外だが、イラガだけでなく、蝶や蜂もあまり見かけなくなった。緑のカーテンを兼ねてゴーヤを植えているのだが、ほとんど蜂を見かけないので、果たして実がなるのかどうか心配していたほどである。現実には、今年のゴーヤは大豊作で、隣家や知人に分けてあげるほどである。数年前の十分の一くらいしか見かけない蜂だが、トマトやゴーヤの受粉を扶けてくれているようである。この時期になると数多く見られるはずのコガネムシやトンボだが、今年はまだほとんど姿を見せない。シャリンバイやモミジの葉に大量に発生するアブラムシも、今年はまだ見かけない。


畑や田で使われる農薬により、昆虫はかなり減ったと思われるが、それでも去年までは多くの虫がみられたのだから、どうやらやはり、今年の異変は昨年の猛暑によるのではなかろうか。そうだとしたら、虫を餌にする鳥たちにも異変が及ぶなど、身近な様々なところに、温暖化の影響が表れていることになる。年末になると毎年のように雀が来て、春になるまで餌を求めるのだが、今年の冬はどうなるのだろうか。例年通りに来てくれるとよいのだが。

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偶然の出会いに関するさらなる思い出 [人生]

今年になって幾度も投稿したことに、「思わぬ所で知人と遭遇する不思議さ」に関する記事がある。すでに4回も投稿しているのだが(付記参照)、私には思いがけない出会いの経験がまだあった。


20年あまり以前のことだが、愛知県芸術劇場で行われた演奏会に妻と一緒に出かけたことがある。楽団がアンサンブルオーケストラ金沢(今は「オーケストラ・アンサンブル金沢」になっているらしい)だったのか、名古屋フィルハーモニー交響楽団だったのか、今では記憶にない。演奏されたのはベートーベンのバイオリン協奏曲ロマンスで、ソリストは千住真理子だった。その前に別の曲目が演奏されていたのだが、曲名は思い出せない。


どうしたわけかその日の席は最前列で、私と妻は中央ブロックの右端だった。演奏する千住真理子は指揮者側に身体を少し廻しているので、その姿を真正面から見上げるようにして聴くことになった。演奏が始まる直前の、千住真理子の緊張した表情が印象に残っている。


最初の曲目の演奏が終わり、千住真理子の登場を待っていたときである、ふと隣席に眼をやると、座っていたのは同じ職場の仲間であった。その人も夫婦で聴きに来ていたのだが、かなりの時間が経過しておりながら、私たちは互いの存在に気づかなかった。気がつかなかったのは、先に座っていたそのひとの右側の座席に、その人に眼をやることなく座ったからである。私と妻が会話を交わしていたならば、その声で気づかれたと思われるのだが、座席についてから間もなく演奏が始まったからであろうか、私と妻は会話を交わさなかったようである。
                                                                        
その知人が音楽を好んで聴いていることは知っていたのだが、その日の演奏会に出かけることを、私たちは互いに知らなかった。私はと言えば、音楽は主にCDで聴いており、演奏会を聴きに出かけることはまれだった。そんな私たちが、偶然にも隣席同士で演奏を聴くことになった。私たちが共にその日の演奏会を聴くことになっていたなら、隣席同士になる確率を、聴衆の人数にもとづいて計算できるかも知れないのだが、その日のできごとは、ユング提唱になる共時性の一例としか考えようがない。名古屋でのクラシック演奏会は毎年数十回はあるはずだが、その頃の私は年に2回程度しか演奏会に出かけなかったのだから(それも多くの場合、名古屋音楽大学の知人からプレゼントされた招待券によるものだった)。


現役時代の後半を大学で過ごすことになった私は、ある年の空気清浄協会の会合に参加するため、八王子市と日野市の境界にある首都大学東京(東京都立大学に改称)に出かけたことがある。その場所にはかつて牧場があり、過去に勤務していた工場はその隣接地にあった。工場でストライキが行われた際には(付記2参照)、牧場脇の草の上で職場集会を行うことがしばしばだった。


久しぶりに訪れてみると、工場の跡地には団地のビルが建ち並び、牧場の跡地は大学のキャンパスになっていた。


空気清浄協会の会合が終わった後、サラリーマン時代に乗り降りしていたバス停でバスに乗り、名古屋に帰るために八王子駅に向かったのだが(横浜線で新横浜に向かうため)、バスの後方をふと見ると、昔の職場にいた女子社員の姿があった。十数年を経ても明らかにそれとわかったのだが、その固い表情を見たら声をかけることができなかった。その女性とはそれ以前にも、思わぬところで会ったことがある。電機会社の社員だった頃、休日に東京都内に出かけたある日、帰宅すべく電車に乗ったら(京王電鉄の新宿駅で)、同じ車両にそのひとの姿があった。偶然の邂逅を繰り返してきた私だが、同じ人と2度も出会ったのはその女性だけである。それもまた、「同時性」に関わる謎であろうか。


村上春樹の新作を読んで(7月20日)」なる記事を書いたことが、これまで思い出すことのなかった不思議な出会いを、次々に思い出させることになった。偶然の不思議な出会いを繰り返してきた私だが、もしかすると、このブログに書いた以外の体験もありそうな気がする。
                                                                             
ユングの提唱になる「共時性(同時性とも呼ばれる)」の考え方に信憑性があると考えるべきか、あるいは、人智を超えた理由によるものなのか、いずれにしても、私の場合にかぎらず、確率的には極めて起こりにくい偶然の出会いが、現実にはかなりの頻度で発生している。ネットに投稿しているひとの体験記すべてが、必ずしも事実とは限らないわけだが、偶然の出会いを繰り返し体験する人は、さほどに珍しくはなさそうである。


付記

これまでに投稿した偶然の出会いに関する記事


村上春樹の新作を読んで(7月20日)





付記2




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偶然の出会いに関わるある思い出 [人生]

先ごろから繰り返し投稿した記事に、思わぬところで偶然に知人と出会うことの不思議さを書いたものがある。「村上春樹の新作を読んで(7月20日)」「旅先で知人と遭遇することの不思議さ・・・・・・その高い頻度を科学では説明できない(7月27日」「共時性あるいは同時性と呼ばれる現象について(8月18日)」である。


それらの記事で、私には不思議な出会いを過去に3度も経験したと書いたのだが、実はもうひとつ、忘れられない思い出がある。


召集されて中国に渡った父は、終戦を奥地の長沙で迎えたという。復員できたのは、終戦の翌年である昭和21年の初夏だが、私たち家族はそれまで、父がどこでどうしているのかわからなかった。

その日、私と母は出雲今市駅(今の出雲市駅)へ向かうべく、山陰本線のプラットホームで列車を待っていた。私の生家からは歩いて30分ほどの所にある駅で、利用者が少ない今では無人駅になっている。


煙を吐きながら近づいてきた列車が止まると、私たちのすぐ目の前にドアがあった。すぐにドアを開けて男が現れると、母が驚きの声をあげた。降りてきたのは、2年ぶりに還ってきた父だった。むろん父も驚いたはずだが、私はただ呆然としていた。私と母がもっと離れた場所で列車を待っていたなら、あるいは、父が別のドアから降りたのであれば、私と母は別のドアから列車に乗ったに違いなく、その場で出会うことはなかったはずである。


その日のそのできごとは、母にとっても極めて印象的な思い出になった。晩年の母と昔の思い出を語り合うと、母は幾度もその日のことを語ったものである。
                                                                    
小学校3年生時に体験したそのできごとを含めるならば、不思議な出会いを私は4度も経験してきたことになる。これまでに投稿した「村上春樹の新作を読んで(7月20日)」「旅先で知人と遭遇することの不思議さ・・・・・・その高い頻度を科学では説明できない(7月27日」「共時性あるいは同時性と呼ばれる現象について(8月18日)」に書いたように、旅先などで知人と不思議な邂逅をした人は、意外なほどに多いようである。それどころか、そのようなことを繰り返し体験する人も、さほどに珍しくはなさそうである。私もそのひとりと言うことになる。


ユングが提唱した共時性なる概念には信憑性があるとしか思えないのだが、現在の科学はそれを説明できそうにない。アインシュタインの相対性理論は、科学の常識とは相容れないものとして、それが発表されてしばらくは、それを否定できる理論を求めた物理学者も多かったようだが、様々な実験や宇宙に関わる観測結果によって、正しい理論として受け入れられるに至った(科学発展の歴史を思えば、新たな理論によって相対性理論に修正が加えられないとは限らないのだが)。


共時性に関わる事例と同様に科学で説明できないとはいえ、多くの例証があるだけでなく、簡単に実証可能なところから、霊魂が実在することは明確と言えるのだが、多くの人は霊魂の話題に不快感を露わにし、拒絶反応すら示す。


30代の中頃までの私は唯物論者のひとりで、心とは脳内の化学反応によって生じるものだと思っていた。そんな私ではあったが、霊に関わる話題に興味を抱くことはあっても、不快な感情は抱かなかった。もしかすると、そのような私だから、不思議な体験を繰り返し(体験させられた?)、霊魂の実在を識る道に導かれたのかも知れない。かたくなに唯物思想にとらわれていたなら、未だに霊魂の実在を識ることはなかったであろう。私に不思議な体験を与え、霊魂の実在を知らしめてくれた誰かに、深く感謝している。

                                         

付記(2022.5.3)

偶然の出会いに関わる記事を記すうちに、同様の思い出が次々に思い出された。

これまでに投稿した記事(2022.5.3時点)








                                          

付記 2(2022年5月5日)

本ブログに「父の歌集」なるカテゴリーを設け、2021年8月から2022年5月まで、「父の歌集より」なる記事を連載している。その最終回である「父の歌集より 26(2022.5.3)」は、中国から復員した日に関わる父の手記だが、その中に、駅のプラットホームでの邂逅が記されている。





                                         

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