ネットを利用して学校の宿題をこなす現代っ子 [教育]
です。
安全教育としての理科教育 [教育]
理系人間が理系の道を歩む理由 [教育]
・子供を学習塾に通わせるより読書の楽しみを教える方が良さそうだ(2015年9月24日)
・偏差値教育の時代に大器が晩成できる可能性はあるのか(2015年10月2日)
・理系人間と文系人間(2016年7月27日)
・理系人間は頭が良いと思うのは勘違い(2016年7月28日)
・福山雅治の人生観を変えた子供の頃の体験(2016年8月31日)
・子供の心理と学校での成績(2016年12月5日)
・オードリー・ヘプバーンの心理的自画像(2017年1月3日)
81年前の修身教科書 [教育]
日本の学生とアメリカの学生 [教育]
高等教育の無償化を論じる前に [教育]
・・・・・・・・・・
「おれの職場に高卒で入社した社員がいるんだよ。同じような仕事をしていながら、大学を出ているおれの給料がいいっていうのは、なんとなく居ごこちが悪いんだよな。おれだけかも知れないけどな、こんな気持ちになるのは」と池田が言った。
「仕事ができさえすれば、高卒の者が大卒と同じような仕事をやるのは当然だし、給料だって同じでいいわけだよな、たしかに」
「おれに向いた仕事をさせてくれない会社にも困るけど、単純に学歴で差別することにも疑問があるよな、会社というところには」
「ほんらいならばだ、誰もがそんな疑問をもたなきゃならないんだよ、形式的な学歴偏重と人事管理のご都合主義については。なにしろ」と僕は言った。「まともに勉強しないまま大学を卒業する者だっているんだからな」
それからひとしきり、僕は池田と議論した。大学で学ぶことの意義はどこにあるのか。
大学で学んだ物理や電子工学などの知識は、僕の仕事に必要なものだったが、それらの多くは適切な参考書があれば充分に独習できるものであり、必ずしも大学で学ばなければならないというものではなかった。
僕は一時限目の講義をほとんどさぼったのだが、それらの科目の成績が悪いということはなかった。大学で学んだ経験から言えるのは、知識の多くは独学で修得できるということだ。学歴を得る目的で大学へ進み、まともな努力をしないままに卒業する者よりも、独学に励んだ者のほうがはるかに大きな力を持つにちがいない。とはいえ独修の場合には、特別に興味をおぼえることや、さし当たり必要となる知識だけを修得することになり、無駄のように見えても実際には有用な知識をなおざりにする、ということも起こり得る。そのような問題点を解決できれば良いのだから、通信教育などで力を蓄えた者に対しては、一般の学卒者と同等以上の評価が与えられてしかるべきではないのか。大学で学ぶことの意義や卒業資格の意味については、もっと議論されるべきではないのか。
池田としばらくそのような議論をして、ようやく僕は気がついた。彼とは学生時代にもよく話し合ったが、何かについて真剣に議論をしたということはなかった。
「こういうことは、学生時代に議論しておきたかったな」と僕は言った。
「そうだよな。単位をよぶんに取って苦労するより、こんな議論をいっぱいやっておいた方が良かったかも知れんな」と池田が言った。「お前みたいに、ぎりぎりの単位しか取らなかったうえに、講義をあれほどさぼっていても、自分のやりたかった仕事をやることができるんだから」
「講義はさぼったけども、勉強をさぼっていたわけじゃないからな」と僕は答えた。
・・・・・・・・・・ (引用おわり)
塾に通わせるよりも有効な学力向上対策 [教育]
競争原理に支配されている日本の子供たちは、学校に加えて塾にも通うことになり、貴重な遊びのための時間を奪われている。偏差値教育の時代がもたらした好ましからざる結果とはいえ、子供時代という人生における貴重な時期を、他との競争のために犠牲にしていることになる。
子供たちにとって好ましいのは、塾に通うなどして勉強を強いられることなく、それでありながら成績が良くなることである。中学1年生までの私は勉強ができなかったが、塾になど通うことなく(学習塾など存在しない時代であった)ある時期から急速に成績が良くなった。そのいきさつは、2015年8月23日に投稿した記事「成績劣等生から技術者への道のり」に書いた通りであるが、ここで少し補足しておきたい。成績向上に寄与したのはラジオ技術の独学であろうと書いたが、私がそう思っているだけのことであって、もしかすると、ラジオの勉強をしていなかったにしても、成績が向上していたのかも知れない。中学生になって小学生時代とは気持ちに変化をきたし、そのことが勉強に対する意欲を向上させた可能性がある。勉強に対して意欲を持ち得たのは、当時は偏差値教育ではなかったために、自分が他よりも劣っていると卑下することがなく、自らの能力を悲観して諦めたりしなかったからであろう。自分の能力を悲観的に見なしていたら、ラジオの独学にチャレンジしようとは思わなかっただろうし、成績劣等生から抜け出すことも難しかったのではなかろうか。
偏差値教育の中で落ちこぼされている子供達は、自らを否定的に見ているはずだから、塾に通わされたところで、苦労しながら学ぶことになりそうである。私が書いた小説「防風林の松」(左のサイドバーに小説の概要が表示されている)の中に、次のような文章がある。
小説「防風林の松」より引用
・・・・・・ 僕の話を聞いて坂田は言った。「今の日本では、小学校や中学校で落ちこぼされたら、そこから這い上がるのに苦労するわけだが、落ちこぼされている子供の中には、お前みたいなのがたくさんいるのかも知れないぞ。先生の話をろくに聞かずに、自分が興味を持っていることだけを考え続けているような子供が。そんな子供はほんとうは普通以上に集中力があっても、勉強する気も能力もないと決めつけられるんじゃないのかな、いまのような偏差値教育の中では」
「長岡半太郎や本多光太郎も、小学校時代には勉強ができなかったそうだから、今の日本に生まれていたら、世界的な学者にはなれなかっただろうな」
「今の日本では、小学校でつまずいた子供は催眠にかかってしまって、自分には能力がないと思い込むようになると思うな。そうなると、たとえ努力をしたところで、催眠にかかっているために勉強は身につかないわけだ。お前の場合には運が良かったんだよ。オーディオ装置に興味を持ったおかげで、うまい具合に催眠から醒めることができたんだからな。電子回路を勉強したきっかけが音楽というのは、お前だけかも知れないけどな」 (引用おわり)
成績が悪かった頃の私は、自分の成績を苦にすることがなかったのだから、自信のなさが成績に影響していたとは思えない(付記)。多くの科目は退屈だったとはいえ、勉強を嫌うことはなかったのだが、興味のあることにしか集中できず、そうでないことにはまったく身が入らなかった。学ぶ目的を理解できていなかったことが、成績不振の原因だったということだろう。中学生や高校生が受験勉強に熱中するのは、勉強に励む目的が明確だからである。
小学生時代にある程度まで勉強ができれば、中学以降の勉強でさほどに苦労しないはずだから、小学生時代に学ぶ目的を理解した子供たちは得をすることになる。小学生を塾に通わせるよりも、学ぶことの面白さを教えることや、学ぶことの意義を教えたほうが、はるかに効果的ではなかろうか。2015年9月24日に投稿した記事「子供を学習塾に通わせるより読書の喜びを教える方がよい」に書いたように、小学生時代に読書に親しませることも、学力を向上させるうえで役立つと思われる。
子供を塾に通わせることは、子供に過重な負担を強いるとともに、塾費としての出費も嵩むことになる。学力向上を塾まかせにする前に、保護者としてなすべきことがあるのではないか。学ぶ目的を理解させること、意欲を高めるうえでの心理的な働きかけ、読書の楽しみを教えること等々。2016年12月5日に投稿した記事「子供の心理と学校での成績・・・・・・注目すべき実験の結果」に書いたように、心理的な要因が学校での成績に大きく影響するのだから。
付記
まだ偏差値教育が導入されていなかった私の時代には、成績をまわりの者と比較したり、互いに競ったりすることがなかった。他より成績が劣ることを意識しなかったから、自信をなくすことによって勉学意欲を失うという危険性もなかった。これはむろん私自身について言えることだが、さほどに間違った判断ではないという気がする。
永井荷風の想いと軍人の見識 [教育]
特攻隊に関わる小説「造花の香り」(本ブログのサイドバー参照)を書くに際して、山田風太郎や永井荷風などの日記にも眼を通した。戦時中における知識人の心理や戦争観を知りたいと思ったからである。
永井荷風の「断腸亭日乗」は日々の断片的な記録だが、ある日の日記につぎのようなことが記されている。「日本がアメリカと戦って勝てるわけがない。どうせ敗れるのだから、なるべく早く負けてしまう方がよい」
荷風は若い頃にアメリカやヨーロッパを訪れ、日本をはるかに上まわる工業力を目の当たりにしていた。その荷風には、「工業のレベルと資源の点でともに劣る日本が、欧米諸国を相手に戦って勝てるはずがない」というのが当然の見識だったわけだが、アメリカに戦いを挑んだ高級軍人たちにはどんな認識があったのだろうか。
連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を立案した山本五十六は、若い頃にはアメリカの駐在武官だったとのこと。山本五十六のほかにも、欧米諸国で駐在武官を勤めたあとで、軍の枢要な役割を担うことになった軍人は多かったはずである。
欧米諸国の実態を熟知していた山本五十六は、日米開戦に強く反対したと伝えられている。枢要な地位にあった軍人の中には、彼我の国力差を知悉していた者が少なからずいて、アメリカとの開戦に否定的だったはずだが、日本はあの愚かな戦争に踏み切った。
明治政府の目指した「富国強兵」が日露戦争の勝利をもたらしたわけだが(昭和初期までの日本は富国とは言えなかったが)、それによって国民の軍人に対する畏敬の念が強められた、と思われる。そのような風潮の中で、少年たちは高級軍人に憧れ、最難関校となった陸軍幼年学校や海軍兵学校などを目指した、と思われる(とくに、経済的な理由で高校や大学に進めない秀才たちにとっては、学費無料の士官学校や海軍兵学校は魅力的だったはず)。そこを無事に卒業できた者たちは、戦前の日本におけるエリート中のエリートとされるに至った。彼らは国のエリ-トであり、軍隊内でのエリートであった。
上記の文章に幾度も、私の推察ゆえに「・・・と思われる。」と記したのだが、さほどに外れてはいないであろう。そのようにして誕生したエリートたちには、自らを恃むところ大にして、独善的なところが多かったのではないか。典型的な学校秀才に権威と権力がそなわり、国民からは憧れの眼で見られる存在だった彼らの独善的な姿は、一般大学出身の士官に対して、士官同士でありながら上から見下ろすごとくに接し、鉄拳制裁すら辞さなかったところにも現れている。
軍人の任務は国を護ることだが、その彼らが政治に深く関わるようになり、ついには直に政治を動かすに至った。中国との戦争が泥沼にはまって、収束への目処もおぼつかないなかで、無謀にもアメリカに対して戦争をしかけた。軍人政府の中核を担っていた、エリート中のエリートとされた軍人達が、愚かな決断をしたのはなぜだったのか。「造花の香り」を書くに際して幾つもの書物を読んだが、開戦に至る経緯を明確に理解することはできなかった。開戦に至る過程を検証した書物を読むと、開戦に向けた決断は、「かくなる上はアメリカと一戦を交えるしかない」という感情に押されてなされたのではないか、という気がしてくる。高級軍人たちは教養と知性を備えていたはずだが、理性的ではなく感性的だったのかも知れない。それとも、戦前の軍隊組織にあっては、個々の理性が活かされにくかったのだろうか。
真珠湾攻撃の企ては、「長期戦ではアメリカに負けるが、緒戦の段階でアメリカに大きな打撃を与えて戦意を喪失させるなら、有利な条件にて講和に持ち込めるだろう」と判断してのことだったという。アメリカが先に手をだした戦争であっなら、そして緒戦で日本が圧倒的な勝利を収めたならば、講和に持ち込める可能性があったかも知れない。日本から仕掛けた戦争ならば、アメリカは勝つまで戦うに違いない、と誰も想わなかったのだとしたら、戦前の軍幹部たちの認識はまことに甘く、まともな人材がいなかったとしか思えない。
私には学校秀才を否定するつもりはないどころか、そのような人材のなかには、人類に貢献する可能性大なる人物がいるだろうと思っている。彼らが果たしうる役割に彼らの能力が適合すれば、人類社会への貢献を期待できるだろうが、軍隊においてはどうであろうか。学校秀才型の人物が軍の幹部養成学校に入り、厳しい教育の中で優秀なる成績をおさめたにしても、彼らは学者になるわけではなく、軍のエリートとして処遇されることになった。彼らは自らをエリートと自覚し、独善的にふるまう軍の幹部になっただけでなく、日本の政治を司って戦争へと導くに至った。日本が誤った道へ進んだ理由は幾つもあげられようが、非理性的ながら強いエリート意識をもつ者たちに政治を委ねたことが、最も大きな理由であろう。
戦後の政治を担ってきたのは、自民党とそれを支えてきた官僚である。日本をリードすべきエリートを自負している者たちには、戦前のエリートを反面教師にしてほしいものだが、どうしたわけか、政治と行政ともに、独善的・非合理的・反国民的なところがあまりにも多いと感じる。
戦前の過ちを悔い、その反省にたって進んできたこの国で、日本人が学ぶべき最も重要な歴史は、遠い過去のできごとよりも、明治から昭和にかけての歴史であろう。なかんずく、敗戦に至るまでの戦争の時代に関わる歴史は、中学校や高校でしっかりと教えるべきであろう。この国の政治をより良くしてゆくためにも、過ちを繰り返すことがないよう備えるためにも、そのようであってほしいものだが、それとはほど遠い状況にあるのが現実である。中学や高校の歴史教育では、時間切れによって昭和初期に関する授業はろくに行われていないという。それだけでなく、昭和初期における日本の過ちを教えたりすれば、「自虐史観にもとづく教育はまかりならん」との怒声を浴びせられる。まともな政治家とまともなマスコミ界が教育界とタイアップして、日本の将来のために役立つ歴史教育を目指すよう願っている。
オードリー・ヘプバーンの心理的自画像 [教育]
録画したままになっていた映画を妻とともに観た。オードリー・ヘプバーン主演の「パリの恋人」で、しばらく以前に放映されたミュージカル映画である。さほどに勝れた映画ではないと思うが、それなりに楽しく観ることはできた。
私が書いた小説「防風林の松」(注)の中に、オードリー・ヘプバーンに関わる次のような一節がある。会社をやめることにした主人公が、友人との会食に際して、友人の妹を話題にしている場面である。
「おまえのおかげでコンプレックスも消えたようだしな」と坂田が言った。「おれの眼にはけっこう可愛い奴に見えるんだけど、本人にすればそうではなかったみたいだな。よくはわからないんだが、女というのは、おれたちとは違ったふうに見るのかもしれないな、自分のことを」
絵里の笑顔ときれいな瞳を思いうかべながら、絵里にコンプレックスがあるとはどういうことだろうと思った。
「おれにはわからないけど、絵里さんのコンプレックスってどういうことだ」
「おまえの前では絵里も明るく振る舞えたようだから、おまえは気がつかなかったんじゃないかな、絵里が気にしていることに。お前のおかげで、今では気にしていないだろうけど」
僕を魅了した絵里の瞳が思いだされた。あの絵里にどんな自画像があったのだろう、と思ったとき、オードリー・ヘプバーンについて書かれた週刊誌の記事を思いだした。
「オードリー・ヘプバーンという女優がいるだろう。ヘプバーンの自伝を紹介した記事に出ていたんだけど、あのヘプバーンには、自分がみにくいというコンプレックスがあったらしいよ。信じられないような話だけど、自分自身についての思い込みを、心理的な自画像とか言って、案外だれでもそういうのを持っているらしいよ。もしかすると、絵里さんも変な自画像を抱えているのかな」
坂田は手にしていたコップを見ながら言った。「いつだったか、おまえは話したよな、お前は小学生のころ、自分は頭が悪いと思い込んでいたって。人間というのは、そんなふうにして自分に催眠術をかけるんだよ。自分は優れていると思いこんだ者は得をするけど、運がわるいとその逆になるわけだ。おまえは電子回路を勉強したおかげで成績が良くなったそうだが、絵里の場合には、おまえのおかげで催眠から醒めたんじゃないのかな。だから、お前に絵里を会わせてよかったと思ってるんだ」
ある週刊誌が取り上げたオードリー・ヘプバーンに関する記事に、ヘプバーンは心理的にマイナスの自画像を抱いていたと記されていた。かなり以前のことであり、どの週刊誌に出ていたのか記憶にないが、私には興味深い記事だった。人は様々な事柄に対して、先入観や固定概念さらには思い込みを抱く可能性がある。自分自身に対するマイナスのイメージが思い込みのレベルになれば、そこから抜け出すことが難しくなり、自らの人生を束縛することにもなるだろう。とはいえ、自分でつかむにしろ、他から与えられるにしろ、何かのきっかけさえあれば、そのような思い込みから抜け出すことができるだろう。小説「防風林の松」の主人公は技術者ながら、中学1年生までは成績劣等生だった。そこから自然な形で抜け出す様が、小説の中では簡潔に記されているのだが、抜け出すにはむろんきっかけがあった。小説の主人公に私自身の体験を重ねたのはその部分だけであるが、この小説が有する幾つかのテーマには、私の思いがこめられている。
このブログに幾度も書いてきたように、中学1年生までの私は成績がよくなかったのだが、ある時期から急速に向上し始めて、むしろ成績優秀者のひとりになった。そのような体験をこのブログに記すのは、読んでくださる方の参考に供したいからである。左欄に表示されているマイカテゴリーの中に「教育」なる項目がある。そのカテゴリーに記された記事のすべてが、誰かの役にたつよう願ったものであり、今日の記事もそのひとつである。多少なりとも参考にしてもらえるなら、私としては実に嬉しいことである。
注 小説「防風林の松」
左のサイドバーにその概要が記されている。
綱引き競技におけるリンゲルマン効果 [教育]
先日の記事「子供の心理が学校での成績を決める」に出てくる「魂主義という生き方(高橋佳子著)」なる書物の中に、次のような興味深い記述がある。
ドイツの心理学者リンゲルマンは、綱引きをする際に、綱を引く人数と綱を引く力がどのような関係にあるかを実験的に調べた。その結果、綱を引く力は、ふたりで引く場合には一人で引く場合のほぼ2倍、4人の場合はほぼ3倍、8人の場合は4倍となった。ようするに、綱を引く力は人数に比例せず、人数が増えれば増えるほど、一人ひとりの持てる力が発揮できなくなることがわかった。これは「社会的手抜き」と呼ばれる現象であって、リンゲルマン効果とも呼ばれるという。今から100年も前に行われた実験とのことである。
「魂主義という生き方」の終わり近くに、「因縁側に立つことを志しても、そこにとどまることは容易なことではありません。私たちの中にある依存心が、スキを見つけては頭をもたげるからです。理由を探して、すぐに果報側に落ちてしまうのです」なる文章があり、その後に、上記の実験に関わる文章が記されている。ここに出てくる「因縁側」および「果報側」のいずれも、この書物における重要な言葉であり、人が生きてゆくうえで極めて重要な概念であるが、短い言葉での説明は難しい。いまでも書店で購入できるので、この書籍「魂主義という生き方」をお読みになられるようお奨めしたい。人生を意義あるものにしたいのは全てのひとの願いであり、指南書と呼べる書物も数々あるわけだが、「魂主義という生き方」は類書の中でも抜きん出たものに思える。多くの人に読んでもらいたいものである。
子供の心理と学校での成績・・・・・・注目すべき実験の結果 [教育]
子供たちの学校での成績は、心理的な要素によって大きな影響をうけるはずである。誰でも予想できることだが、そのことが小学校で実験によって確かめられたという。とはいえ、かなり以前にアメリカで行われたものであり、私が書物で読んで知ったのも、数十年も前のことだった。
興味深いその実験と結果はつぎのようなものだった。
ある心理学者がある小学校を訪れて、生徒たちに対してテストを行ったあと、学級担任に向かって告げたという、「このテストによって、これから成績が伸びるはずの生徒を知ることができました」と。
心理学者は数人の子供の名前をあげたのだが、実のところは、それらは名簿から適当に選んだものであり、行ったテストも根拠のないものだった。にもかかわらず、そのとき名前をあげられた子供たちの成績は、それから次第に向上していった。
そのような結果がもたらされた理由として、つぎのようなことが指摘されていた。心理学者の言葉を信じ込んだ担任教師から、「偉い先生が調べた結果、君はこれから成績が良くなることがわかった」と告げられた生徒は、自分は成績が良くなるはずだと思い込み、それによって実際に成績が良くなった。もうひとつ重要なこととして、心理学者から直接ではなく、担任教師を介して伝えられたことにより、より効果が強められる結果になった、と記されていた。
きょうのブログにこんな記事を書いたのは、先頃読んだ「魂主義という生き方(高橋佳子著)」にも、この実験のことが紹介されており、印象深く読んだからである。この書物「魂主義という生き方」は、並の処世術やマニュアルとは次元を異にしたものであり、「人間が抱いている本当の可能性を引き出すこと」を主眼として、「誰しも抱いているはずの、この世に生まれてきた目的を、いかにしたら果たすことができるか」を指し示している。この書物には、人間の心がもつ力について記されている章があり、その一部に上記の実験に関わる文章が記されている。
本当のところは、「魂主義という生き方」なる書物について書きたかったのだが、その紹介はもう少し先にのばすことにした。高度なテーマを扱いながらも難解ではなく、むしろ読みやすいとも言えるのだが、誤りなく紹介するには準備不足の感がある。というわけで、今日はその中の一節のみを紹介した次第である。
福山雅治の人生観を変えた子供の頃の体験 [教育]
それを聞いて、「この人は運の良いひとだ」と思い、「運をものにする人だ」と思い、「好ましい人柄の人だ」と思った。友人から素晴らしい体験を聞かされたこと。その体験談に心を動かされたこと。それを実行してみようと思ったこと。思っただけでなくそれを実行したこと。そして、そのことを人に伝えようと思ったこと。
しばらく聴いているうちに、その声の主が「福山雅治の・・・」と番組名を口にした。それまでの私にとって、福山雅治という名前は、「NHK大河ドラマの龍馬伝で主役を務めた俳優」でしかなかったのだが、そのラジオを聴いて共感とともに好感をおぼえた。福山雅治は子供の頃の体験をしゃべることで、それが誰かの役に立つようにと願ったのではないか。
続いて語られた言葉に興味を覚えなかったので、他の局に切り替えてしまったのだが、上記のことは耳の奥に残っており、学校の夏休みが終わろうとするこの時期に、ふいに思い出すことになった。思い出しただけでなく、その話を誰かに伝えたくなり、このブログで紹介することになった。
理系人間は頭が良いと思うのは勘違い [教育]
雨粒は地面に向かって動いているわけだが、空間にある雨滴の密度(1立方メートル内の雨滴の数)はどこをとってもほぼ同じである。フロントガラスが垂直に設置され、その面積が1㎡であれば、毎秒1mの速さで走るなら、その間にウインドウに付着する雨滴の数は、ウインドウが横切った1立方メートルの空間にある雨滴の数に等しい。毎秒2mで走れば付着する雨滴は2倍になる。これはフロントガラスが垂直にとりつけられている場合に言えることだが、それが斜めに設置されていても、付着する雨滴の数は速度が上がれば多くなる。
関わる仕事の分野にもよるであろうが、理系人間には上記のような考え方をする人も多いと思われる。気体を扱う分野や半導体などの固体電子工学に関する理論では、個々の分子や電子を扱うのではなく、分子や電子の統計的な密度を考慮する。そのような分野の知識を有す人なら、フロントガラスに付着する雨粒についても、前記のような考え方ができると思われる。
40年も前のことだが、雨の日に会社の先輩を助手席にのせたことがある。その先輩曰く「雨の中を歩いているときは、歩こうが走ろうが同じように濡れるのに、車の場合は速さによって窓に付く雨粒の数が変わる。どうしてだろうな」
歩く人の場合と同様に、車の屋根に落ちる時間あたりの雨粒は、車の速度に関わらず一定である。フロントガラスについても同様だと思ったその先輩は技術者であったが、固体電子工学に関わる私(私が関わった撮像管は真空管の一種だが、その光電変換は固体電子工学に基づいている)とは異なる分野であったため、前記のような考え方には思い及ばなかったようである。
雨粒に関わる疑問を口にする同乗者に向かって、私が前記の理屈をもって回答したなら、その同乗者は勘違いすることだろう、「この人はずいぶん頭の良いひとだ」と。私がそのように回答できたのは、頭が良いからではなくて、考え方を知っていたからに過ぎないのだが。文系を自認するような人が口にする「理系の人は頭が良い」と言う言葉も、そのような勘違いから出た言葉であろう。フロントガラスに付着する雨粒のこと以外にも、勘違いをもたらす事柄は多いのだから。
理系人間と文系人間は興味を抱く対象や関わる仕事が異なるために、発揮される才能も異なるわけだが、両者の間に頭の程度に差があるとは思えない。先日の記事「理系人間と文系人間」を併せて読んでくださるならば、私の言わんとするところを理解していただけると思う。
理系人間と文系人間 [教育]
私は小学生時代に理科クラブに入っていた。戦後も間もない頃であり、クラブとしての活動はあまりなかったのだが、担当教師による最初の集まりが持たれたとき、集まった生徒は教室の半分以上の席を占めていた。子供が多かった時代ということもあり、教室には50人分の机が並んでいたから、30人に近い生徒が集まっていたことになる。
子供は好奇心が旺盛ゆえに、その多くは理系のことがらに興味を持つと思われる。それにもかかわらず、中学生や高校生のかなりが理系科目を敬遠するようになるのは、受験のための勉強をしている過程で、理科や数学に対する興味が減退したせいか、あるいは勉強について行けなくなったからではないか。敬遠された教科の成績は当然ながら下がってゆく。
理科にしろ数学にしろ、系統だった知識を積み重ねながら理解してゆくものだから、必要な知識のどこかに欠けているところがあれば、その先には進めなくなる可能性がある。そのような場合に、数学や理科に興味あるいは意欲があるか、あるいはその知識の必要性を理解しているならば、欠けている知識を補いながら先に進もうと努めるだろう。そうではない場合、つまり、自分にとっての必要性が感じられず、興味や意欲もない場合には、その生徒は理系科目から脱落する可能性がある。その結果、勉強について行けなくなれば、「自分は頭が悪い」と思い込むようになるかも知れない。理系科目の成績がどんなに悪くても、「頭が悪い」ことにはならないはずだが、「私は文系だ」と称すひとのなかには、そのような意識を持つ人がいるようである。
中学一年生までは成績が悪かった私だが、いまのような偏差値教育が行われる以前だったので、その毒に冒されることなく成績劣等生から抜け出して、電気の分野で技術者として生きることになった(注1)。私が最初に書いた小説「防風林の松」(注2)の主人公は、電機会社の技術者として働いているけれども、中学生時代には成績劣等生だったとされている。この小説の主人公と私が重なるところはその部分だけだが、この小説には教育に関わる記述が幾度も現れる。昨年の8月23日に投稿した記事「成績劣等生から技術者への道のり」(注1)に、その一部を引用しているのだが、ここに再度引用してみたい。主人公が友人と交わす会話の一節である。
小説「防風林の松 第一章」より引用
「今の日本では、小学校でつまずいた子供は催眠にかかってしまって、自分には能力がないと思い込むようになると思うな。そうなると、たとえ努力をしたところで、催眠にかかっているために勉強は身につかないわけだ。お前の場合には運が良かったんだよ。オーディオ装置に興味を持ったおかげで、うまい具合に催眠から醒めることができたんだからな。・・・・・・」
「詳しいんだな、教育のことに」と僕は言った。
「本を一冊読んだだけだよ。偏差値教育と詰込み教育の問題をとりあげた本を」
・・・・・・坂田はさらに続けた。「こんなことも書いてあったな。小学校の低学年では理科好きな子供が多いのに、高学年になると理科嫌いが多くなるというんだ。好奇心を満たすことより、知識を詰め込むことが重視されたり、友達と成績を競わされたりするんだからな、そんな理科がおもしろいはずがないよ」(引用おわり)
小説「防風林の松」は恋愛小説であり、教育を主題とするものではないが、主人公の若い技術者が元は落ちこぼれだったと設定されているので、学業成績や偏差値教育に関わる記述が幾度も現れる。小説の序章を締めくくるのは、次のような文章である。
小説「防風林の松 序章」より引用
…………あれから十六年の歳月が流れて、僕は今ここにいる。日本を遠く離れたロンドンで、ようやくにして絵里に祝福の言葉を贈ることができた。自分の未熟さを意識し続けることから、どうにかこれで決別できそうな気がする。…………それにしても、人生とはほんとうに不思議なものだ。僕は中学校の一年生まで成績劣等生だった。その僕が、今は技術者としてこんな生き方をしている。あのオーディオ装置が僕の部屋になかったならば、そして、あの時期に僕が音楽につよく惹かれなかったならば、僕はどのような人生を歩むことになっただろうか。(引用おわり)
これは、ドイツでの国際学会に参加した主人公が、ロンドンに立ち寄って昔の恋人に会い、幸せなその暮らしを祝福して後、帰国途上の機中で懐古と感慨にひたる場面である。
この小説の99%は創作であり、私自身の体験はせいぜい1%しか入っていないが、「技術者としての人生の多くを盛り込んだ」ような気がしている。中学生以上の若い世代に読んでもらえたらと願っているが、成績不振に悩む子供をもつ親の世代にも、参考にしていただけるのではないかと思っている。
注1 昨年の8月23日に投稿した記事「成績劣等生から技術者への道のり」に、私自身の体験を記してある。
注2 小説「防風林の松」
特攻隊員を主人公とする小説「造花の香り」とともに、アマゾンの電子書籍であるキンドル本になっている。
付記
7月28日に、この記事に関連する「理系人間は頭が良いと思うのは勘違い」を投稿しています。
偏差値教育の時代に大器が晩成できる可能性はあるのか [教育]
著名な物理学者であった長岡半太郎や、磁石の研究で有名な本多光太郎は、いずれも小学校時代の成績が悪かったことで知られる。初代の文化勲章受章者となった長岡半太郎だが、小学校では落第しているほどである。
長岡半太郎や本多光太郎が今の世に生をうけていたなら、どんな人生を送ることになっただろうか。小学校で落ちこぼされたなら、その影響が後のちまで尾を引き、偉大な業績をあげる学者にはとうていなれないだろう。落ちこぼれと称される子供たちの中にも、長岡半太郎や本多光太郎に続く人材がいないとは限らない。今のような偏差値教育が続けられたなら、将来はノーベル賞を受けるに至るべき人材が、小学校での成績不良の影響により、未完の大器に終わる可能性がある。
偏差値教育においては、知識・学力で生徒を序列化し、そのほかの能力は評価の対象にしていない。さらに言えば、偏差値なる数値はその試験が行われた時点のものであり、生徒が将来において示すであろう能力を予測して評価するものではない。小学生に対して偏差値を適用した場合、知的な能力がゆっくり上昇する子供に比較して、早熟な子供が圧倒的に有利である。晩成型の子供と親を不安と自信喪失に追い込み、小器のままに終わらせる可能性がある。3月に生まれた子供と前年の4月に生まれた子供は、生育年数に1年ほどの差があるにもかかわらず同学年となる。小学生にとって1年の差が大なることを思えば、親や教師がそのことに配慮すべきだろうが、現実にはどうであろうか。偏差値教育の時代にあってはとくに、この点を考慮した教育がなされるべきであろう。さもなければ、「3月に生まれた子供は入学を1年ほど遅らせた方が得をする」ことになる。
親や教師がどんなに諭しても、興味を覚えない学科の勉強には身が入らないため、成績が低迷している小学生も多いであろう。算数に興味を持つ生徒もあれば、算数にはまったく興味を持てない代わりに国語や音楽を好む生徒もあるはず。当然ながら生徒にはそのような個性があるわけだが、偏差値教育ではそのような点を考慮しようとしない。個性豊かで才能あふれる人材となるべき卵が、卵のうちにレッテルを貼られたことで、自らを卑下して大鵬となるを諦め、社会にさしたる貢献もなさずに終わる。そのような結果をもたらす教育を、いつまでも続けていてよいのだろうか。
偏差値教育には様々な問題が指摘されながらも、早急な是正策は期待できそうにない。そうなると、教育を受ける側としてできることは、その弊害をできるだけ避けるように努めることである。9月24日の記事「子供を学習塾に通わせるより読書の喜びを教える方がよい」に記したごとく、小学生の頃から書物に親しませ、読書の喜びを教えることも、その手段のひとつではなかろうか。このことについては、もう少し考えたうえで投稿したいと思う。
私は決して大器ではないが、成績劣等生から抜け出して、技術者としての人生を生きることができた。小学生や中学生の時代に偏差値教育が導入されていたなら、私は進学を諦めていたのかも知れない。小説「防風林の松」(注)の中で、主人公たちに偏差値教育を論じさせ、このブログでも繰り返しこの問題を取り上げるのは、私自身の想いがそれだけ強いということである。
8月23日の記事「成績劣等生から技術者までの道のり」にも引用したが、「防風林の松」に出てくる偏差値教育に関わる部分を、あらためてここに引用したい。主人公が友人との会食中に交わす会話である。
小説「防風林の松 第一章」より引用
・・・・・・僕の話を聞いて坂田は言った。
「今の日本では、小学校や中学校で落ちこぼされたら、そこから這い上がるのに苦労するわけだが、落ちこぼされている子供の中には、お前みたいなのがたくさんいるのかも知れないぞ。先生の話をろくに聞かずに、自分が興味を持っていることだけを考え続けているような子供が。そんな子供はほんとうは普通以上に集中力があっても、勉強する気も能力もないと決めつけられるんじゃないのかな、いまのような偏差値教育の中では」
「長岡半太郎や本多光太郎も、小学校時代には勉強ができなかったそうだから、今の日本に生まれていたら、世界的な学者にはなれなかっただろうな」
「今の日本では、小学校でつまずいた子供は催眠にかかってしまって、自分には能力がないと思い込むようになると思うな。そうなると、たとえ努力をしたところで、催眠にかかっているために勉強は身につかないわけだ。お前の場合には運が良かったんだよ。オーディオ装置に興味を持ったおかげで、うまい具合に催眠から醒めることができたんだからな。・・・・・・」
「詳しいんだな、教育のことに」と僕は言った。
「本を一冊読んだだけだよ。偏差値教育と詰込み教育の問題をとりあげた本を」
・・・・・・坂田はさらに続けた。「こんなことも書いてあったな。小学校の低学年では理科好きな子供が多いのに、高学年になると理科嫌いが多くなるというんだ。好奇心を満たすことより、知識を詰め込むことが重視されたり、友達と成績を競わされたりするんだからな、そんな理科がおもしろいはずがないよ」(引用おわり)
「防風林の松」は、青春小説とも呼べる恋愛小説であり、教育を主題とするものではないが、主人公の若い技術者が元は落ちこぼれだったとされているので、学業成績や偏差値教育に関わる記述が幾度か現れる。この小説の序章にも、おわりのところに次のような文章がある。
「防風林の松 序章」より引用
・・・・・・あれから十六年の歳月が流れて、僕は今ここにいる。日本を遠く離れたロンドンで、ようやくにして絵里に祝福の言葉を贈ることができた。自分の未熟さを意識し続けることから、どうにかこれで決別できそうな気がする。・・・・・・それにしても、人生とはほんとうに不思議なものだ。僕は中学校の一年生まで成績劣等生だった。その僕が、今は技術者としてこんな生き方をしている。あのオーディオ装置が僕の部屋になかったならば、そして、あの時期に僕が音楽につよく惹かれなかったならば、僕はどのような人生を歩むことになっただろうか。(引用おわり)
これは、ドイツでの国際学会に参加した主人公がロンドンに立ち寄り、かつての恋人に会ってその幸せを祝福した後、帰国途上の機中で懐古と感慨にひたる場面である。
この小説の99%は創作であり、私自身の体験はせいぜい1%しか入っていないが、「技術者としての人生を多分に投入できた」との想いがある。非才に拘わらず小説に取り組み、非才がために苦労したゆえの、きわめて個人的な感慨かも知れないのだが、少しでも多くのひとに読んでもらいたいと願っている。
(注)防風林の松
私が書いた最初の小説です。特攻隊員を主人公とする小説「造花の香り」とともに、アマゾンの電子書籍であるキンドル本として公開しています。
子供を学習塾に通わせるより読書の楽しみを教える方がよさそうだ [教育]
小学校4年生の秋に肝臓を患い、数週間ほど学校を休んだことがあります。病床についてまもなく、父から一冊の書物を渡されました。昨年帰省したおりに自宅に持ち帰り、今は手元にあるその書物を調べてみると、昭和3年3月に改造社から発行されたもので、「現代日本文学全集第三十三篇 少年文学集」とあります。著者15人による作品45篇が収録されており、文語調で読みにくい「小公子」や、アンデルセンの「おやゆび姫」など、幾つかの翻訳ものもあります。
病気から恢復するまでの数週間、私はその本を読んで過ごしましたが、これが私の読書事始めであり、読書の楽しみを知るきっかけになりました。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や「杜子春」、鈴木三重吉による「古事記物語」などを印象深く読みましたし、長編の「小公子」を苦労しながらも読みおえました。
この記事を書こうとして、久しぶりにその書物を開いてみたら、小さな活字で三段組に印刷されており、どのページも文字で埋め尽くされています。それだけでなく、どの作品にも漢字が異様なほどに多用されていますが、すべての漢字にふりがなが付けられています。漢字にふりがなが付いていようと、この本を読むこと以外にやれることがあったなら、小学4年生の私は眼を通そうとはしなかったに違いない。今の私にはそのように思えます。
その頃の私の家にはラジオすらなかったので、病床にあっては読書しかできない状況でした。今のようにテレビがあったなら、もっぱらテレビを見て過ごすことになり、書物を開こうとはしなかったでしょう。あるいは、父か母が適切な手をうって、読書に導いてくれたのでしょうか。いずれにしても、小学生時代に読書の味を覚えたことは、私の人生に大いに役立っているはずです。
8月23日の投稿記事「成績劣等生から技術者までの道のり」で、鉱石ラジオや自動木琴演奏装置から始めて、ついには真空管ラジオの独学へと進んだことを書き、勉強ができないにも拘わらずそのようなことができたのは、私が偏差値教育に毒されていなかったからであろうと書きました。今も無論そのように思っているのですが、今日のブログを書いているうちに、さらに気づいたことがあります。もしかすると、書物を読み慣れていたことが、難解な参考書(注)に取り組む勇気を与えてくれたのではないか。そうだとすれば、小学校4年生で病気になったことはむしろ幸運なできごとであり、私が成績劣等生から抜け出せた要因のひとつは、病床で読んだ文学全集にあったということになります。
典型的な理系人間と呼ばれるひとであろうと、多くの読書を通じてそこに至っているはず。どのような分野で生きてゆくにしろ、文章を読む能力はきわめて重要なものです。小学生の頃から読書に親しんでいたなら、中学校や高校で学ぶうえでそれが役立ち、ひいてはその後の人生を益することになるでしょう。もしかすると、中学生になってから塾に通わせるよりも、小学生時代から読書に親しませておく方が、はるかに好ましい結果をもたらすかも知れません。
誤解のないようにつけ加えると、学習塾の存在価値を否定するつもりはありません。学ぶことの意義を塾で知る可能性があります。子供の個性に合わせて教える塾もあるでしょう。目標を呈示して意欲を高め、努力を促す塾もありそうです。とはいえ、学校に加えて学習塾で学ぶ生活は、子供たちには過酷に過ぎると思います。子供たちにとって望ましいのは、学校の授業で充分な学力を得ることでしょう。そのための下地を養ううえで役立つことのひとつが、小学生時代に書物に親しむことではないか。私にはそのように思えます。
私の場合は数週間も床に臥すことになり、仕方なしに本を読み始めた感がありましたが、読書の喜びを教えてくれた父には感謝せずにはいられません。随分と待たせることになりましたが、父の歌集(9月9日投稿の記事「父の歌集」参照)をまとめることで、その恩返しをしたいと思う次第です。
(注) 難解な参考書
ここで言う難解な参考書は「NHKラジオ技術教科書」です。8月23日の記事「成績劣等生から技術者までの道のり」にでてくるその書物は、中学生だった私には難解でかなりの努力を強いましたが、どうしても理解したいという気持ちが強かったため、苦労しながらも苦になることはなく、むしろ楽しみながら学ぶことができました。
自分にとって本当に面白いもの、あるいは強く惹かれるものであれば、苦労を押しても挑戦できるのだと思います。子供にそのようなこと、あるいは書物を呈示できたなら、親としての役割の大きな部分を果たしたことになる、と言えそうな気がします。
成績劣等生から技術者までの道のり(私の体験) [教育]
先日投稿した「『必要は発明の母なり』につけ加える言葉」の中に、かつては成績劣等生だった私が技術者になれたのは、偏差値教育に毒されずにすんだおかげだと書いた。
中学一年までの成績が良くなかったことは、通知表を見れば明らかである。小学校時代の成績表には、優や秀などあるわけもなく、<良上>なる評価が最上のものだった。
そのような状況にあろうと、当時の私は成績のことにはほとんど無頓着だった。両親からも先生からも、勉強をせまられることはなかったし、私のまわりの遊び仲間たちも、成績を気にしているとは思えなかった。戦争が終わって間もない頃だったから、誰もが生きることに精一杯で、学校の成績を云々するどころではなかったのかも知れない。
そんな時代であろうと、子供たちが旺盛な好奇心を失うはずはなく、理科クラブにはたくさんの生徒が入っており、好奇心が強い私もそのひとりだった。先に記した「電気は怖い……感電事故の体験」はその頃のできごとである。
今の子供たちは学校に加えて塾に通うなど、まさに勉強に追われるような日々を送っているわけだが、私の子供時代は、遊びが中心であって勉強はむしろ二の次だった。そのことが、その後の人生にとってマイナスになったとは思えない。今の日本は子供たちから遊びを奪い、勉学の意義だけを説いているように見える。子供の生きがいは遊べることにあるはず。今のようなあり方を続けていて良いのだろうか。
私の小学生時代に話をもどす。ある日のこと、教師である父が保管していた書物の中に、「子供の科学」という古い雑誌を見つけた。掲載記事の内容を思い返してみると、昭和の初期に発行されたものと思われる。電磁石など電気に関わる記事が多く、電気に関する技術の未来予測なども載っていた。そのうちのピアノ自動演奏機に関する記事が、小学生の私を強くひきつけた。私は思った。学校にはまだピアノはないが、木琴ならたくさん置かれている。木琴を自動で演奏する機械を作れば、それを使って音楽を楽しめるはずだ。この雑誌の記事を参考にすれば、そんなに難しくはなさそうだ。
木琴自動演奏機を開発すべく、私はいくつもの図面を描いた。それがどんなものであったか、手書きの図面を今でも思いうかべることができる。しばらくは熱中した木琴自動演奏機だったが、やがてそれをあきらめた。今にして思えば、簡単な原理であって、さほどに費用を要しないものではあるが、小学生の私にしてみれば、金銭的には手が出せないことが明白だった。木琴自動演奏機から離れたもうひとつの理由は、関心が鉱石ラジオに移ったからであろう。
やがて私は鉱石ラジオを作るのだが、父がラジオを買ったのを機に、関心はさらに真空管ラジオへと移り、ついには独学でラジオの勉強を始めるに至った。小学校6年生では鉱石ラジオの知識しか持たなかった私だが、中学3年生になった頃には、真空管の原理や5球スーパーラジオの動作原理まで、基本的なところは理解できていた。様々な書物を読んでそこに至ったのだが、中でも大いに役立ったのが、同級生の大国君から借りた「NHKラジオ技術教科書」だった。御令兄の蔵書だったというその書物を、ひと月以上も借り続けたように記憶している。中学生の私には難しかったけれども、それが少しも苦にならず、夢中になって書物を読み進めていった。
私の成績はいつの間にか良くなり、成績劣等生から抜け出していた。私がそのように変われたのは、ラジオを勉強したからではないか。そして、成績が悪いことを気にもしないで、自動演奏機やラジオに取り組むことができたのは、偏差値教育が導入される以前であったため、その影響を受けずにすんだからではないか。断言するほどの自信はないものの、私にはそう思えるのである。私自身のそのような体験が、小説「防風林の松」に反映されている。
今の落ちこぼれと称されている子供たちにも、そこから抜け出すチャンスが訪れるだろうか。偏差値教育に毒された子供は、成績劣等生の烙印をおされたならば、そこから脱却すべく努めるよりも、早々に諦めてしまうような気がする。
先日投稿した「『必要は発明の母なり』につけ加える言葉」(8月19日投稿)に引用した文章を、くどいようだが再度引用したい。
私が書いた小説「防風林の松」(電子書籍として、forknとDLmarketにて公開中)に、次のような文章がある。主人公が友人と交わす会話の一節である。
小説「防風林の松 第一章」より引用
「今の日本では、小学校でつまずいた子供は催眠にかかってしまって、自分には能力がないと思い込むようになると思うな。そうなると、たとえ努力をしたところで、催眠にかかっているために勉強は身につかないわけだ。お前の場合には運が良かったんだよ。オーディオ装置に興味を持ったおかげで、うまい具合に催眠から醒めることができたんだからな。・・・・・・」
「詳しいんだな、教育のことに」と僕は言った。
「本を一冊読んだだけだよ。偏差値教育と詰込み教育の問題をとりあげた本を」
・・・・・・坂田はさらに続けた。「こんなことも書いてあったな。小学校の低学年では理科好きな子供が多いのに、高学年になると理科嫌いが多くなるというんだ。好奇心を満たすことより、知識を詰め込むことが重視されたり、友達と成績を競わされたりするんだからな、そんな理科がおもしろいはずがないよ」(引用おわり)
「防風林の松」は、青春小説とも呼べる恋愛小説であり、教育を主題とするものではないが、主人公の若い技術者が元は落ちこぼれだったとされているので、学業成績や偏差値教育に関わる記述が幾度も現れる。この小説の序章にも、おわりのところに次のような文章がある。
「防風林の松 序章」より引用
・・・・・・あれから十六年の歳月が流れて、僕は今ここにいる。日本を遠く離れたロンドンで、ようやくにして絵里に祝福の言葉を贈ることができた。自分の未熟さを意識し続けることから、どうにかこれで決別できそうな気がする。・・・・・・それにしても、人生とはほんとうに不思議なものだ。僕は中学校の一年生まで成績劣等生だった。その僕が、今は技術者としてこんな生き方をしている。あのオーディオ装置が僕の部屋になかったならば、そして、あの時期に僕が音楽につよく惹かれなかったならば、僕はどのような人生を歩むことになっただろうか。(引用おわり)
これは、ドイツでの国際学会に参加した主人公がロンドンに立ち寄り、かつての恋人に会ってその幸せを祝福した後、帰国途上の機中で懐古と感慨にひたる場面である。
この小説の99%は創作であり、私自身の体験はせいぜい1%しか入っていないが、「技術者としての人生を多分に投入できた」との想いがある。非才に拘わらず小説に取り組み、非才がために苦労したゆえの、きわめて個人的な感慨かも知れないのだが、少しでも多くのひとに読んでもらいたいと願っている。
偏差値教育に関わる記事を続けて投稿したわけだが、この件についてはまだ書きたいことがある。もう少し考えたうえで、続きをさらに投稿したいと思う。
2016年4月12日 追記
「防風林の松」の公開先を変更し、アマゾンの電子書籍であるキンドル本に変更した。
2020年7月29日 追記
小説「防風林の松」と「造花の香り」は、小説投稿サイトの「カクヨム」や「小説家になろう」で読むことができる。
付記
2015年9月24日に投稿した「子供を学習塾に通わせるより読書の楽しみを教える方が良さそうだ」なる記事では、私が小学生時代から読書に親しんだことも、成績劣等生から抜け出せた理由のひとつだろうと書いた。
「必要は発明の母なり」につけ加える言葉 [教育]
その頃の田舎には、ラジオすらない家が多く、テレビや洗濯機の存在も知ることはなかった。パソコンはむろん携帯電話やカーナビなども、この世にはまだ存在していなかった。そんな時代の小学生が、すでに発明すべき物はないのだと言ったのである。実のところ、私はその言葉を聞いて、もしかするとそうかも知れないと思ったのだった。
その友人は比較的に若くして亡くなったから、パソコンを個人が使う今のような時代を知るよしもなかったろうが、テレビを楽しみ、車の利便に浴することはできた。その友達の存命中に、小学生時代の話題について語り合ったなら、どんな会話になったことだろう。
かつての私の友と同じような想いを抱く子供は、今の日本にいくらでもいるような気がする。そんな子供たちに伝えたいと思う。「これからも、たくさんのものが発明されるだろう。君も立派な発明家になれるかも知れないよ」
「必要は発明の母なり」と言う。その言葉に異存はないが、私はさらにつけ加えたいと思う。「とはいえ、発明がなされてから、その必要性が理解される発明もある」
そのような発明がなされるのは、偶然の結果か、あるいは誰かが夢を追い続けた結果ではなかろうか。夢を追い続けるそのひとは、どうしてその夢を抱いたのか。気がかりなのは、偏差値教育の中からは、そのようなひとが育ちにくいのではないか、ということである。
私が書いた「防風林の松」(電子書籍として、forkn と DLmarket にて公開中の青春小説・恋愛小説)の中に、次のような文章がある。主人公が友人と交わす会話の一節である。
小説「防風林の松」より引用
「今の日本では、小学校でつまずいた子供は催眠にかかってしまって、自分には能力がないと思い込むようになると思うな。そうなると、たとえ努力をしたところで、催眠にかかっているために勉強は身につかないわけだ。お前の場合には運が良かったんだよ。オーディオ装置に興味を持ったおかげで、うまい具合に催眠から醒めることができたんだからな。・・・・・・」
「詳しいんだな、教育のことに」と僕は言った。
「本を一冊読んだだけだよ。偏差値教育と詰込み教育の問題をとりあげた本を」
・・・・・・坂田はさらに続けた。「こんなことも書いてあったな。小学校の低学年では理科好きな子供が多いのに、高学年になると理科嫌いが多くなるというんだ。好奇心を満たすことより、知識を詰め込むことが重視されたり、友達と成績を競わされたりするんだからな、そんな理科がおもしろいはずがないよ」 (引用おわり)
「お前の場合には運が良かったんだよ。オーディオ装置に興味を持ったおかげで、うまい具合に催眠から醒めることができたんだからな」は、まさに私自身のことである。もっとも、私の場合はオーディオ装置ではなくラジオだったが。中学1年生まで成績劣等生だった私が、大学まですすんで技術者になれたのは、時代が少し早かったために、偏差値教育の犠牲にならずにすんだからだと思っている。
2016年4月12日 追記
小説「防風林の松」の公開先を、アマゾンの電子書籍であるキンドル本に変更した。