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日本心霊科学協会に集う学者たち [人生]

本ブログで幾度も取り上げてきた日本心霊科学協会は、大学教授や医師たちが理事を務めるなど、心霊に関わる団体としては珍しい存在である。Wikipediaにはどのように記されているのか調べてみたら、興味深いことがわかった。


Wikipediaの「日本心霊科学協会」には、「学術的研究活動」と題された項があり、次のような文章が記されている。


20世紀以降、科学技術は、人間を月に送るほど、また原子一つ一つを識別できるほど、急速な進歩を遂げた。PET(ポジトロン断層法)やMRI(核磁気共鳴画像法)などの技術により人間の大脳の構造や機能に関する知見は豊富になった。しかし人間の意識や思考、心の源泉は、未だ科学には解明できていない。謙虚な立場に立って、諸々の分野から学者、研究者、大学教員、企業人が集まり、学際的研究を継続している。研究成果は、公開月例講演会、心霊科学研究発表会、夏期講座などを通して広く社会に公開している。


その文章に続いて、研究に関わる大学教授たちの名前が列記されているのだが、興味深いのは、電気・電子工学・情報工学などの、電気に関わる分野の研究者が多く、8名の名前が記されている。そのうちの2名は、私も以前から知っている名前である。


思想・哲学・心理学・人間科学分野は計5名、生物学・農学・環境学分野と医学分野はそれぞれ4名づつとなっている。2名の名前が記されているのは、機械工学と文学と法学の分野であり、物理学者は1名である。


日本心霊科学協会に関わってきた学者や医師は、日本全体から見ればごく少数と言えるが、著名な学者を含めた27名の名前が見られるのだから、心霊に関わる団体としては異色な存在と言えるだろう。ことに興味深いのは、電気に関わる分野の学者が多いことである。


上記のWikipediaには名前がでていないが、電子レンジに使われるマグネトロン(真空管の一種)の発明者である岡部金治郎(東北大学の元助教授、大阪大学、近畿大学などの元教授 )も、霊魂の実在を主張した学者のひとりであり、関連する著作がある。霊魂の実在を説く書物を書いた電気関係の技術者は多く、生まれ変わりに関わる著作で著名な森田健氏(元富士通のコンピューター技術者)や、霊界に関わる著作の多い坂本政道氏(東大出身の電子工学者)、天外伺朗のペンネームで霊界に関わる幾つもの著作がある土井利忠氏(東京工業大学出身の電子工学者であり、元ソニーの社員)など、錚々たる顔ぶれである。


霊魂の実在を説く学者や技術者の中に、電気に関わる者が比較的に多いように思われる。どうしてだろうと思ったとき、学生時代の友人の言葉が思い出された。機械工学を学んでいた友人は言った、「俺は電気のように目に見えないものが嫌いだから、機械工学科を選んだのだ」と。


電気に関する理論と技術的な基盤は整備され、現代文明の基幹となる存在ではあるが、目に見えないだけでなく、その根源的なところは未解明のままである。そのような電気と同様に、霊魂の実在を実証することは簡単にできるけれども(2015年12月7日投稿の記事「霊魂が実在していることを知る簡単な方法がある」参照)、その本質は未解明のままである。霊魂の根源的なところは、おそらく永久に解明できないだろう、という気がする。


私のように子供の頃から電気に魅せられる人には、もしかすると、霊魂に興味を抱く傾向があるのかも知れない。電気もまた、子供のみならず大人にとっても、不思議で興味深いものだから。

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お薦めしたい書物 「自分を知る力・・・・・・・・『暗示の帽子の謎を解く』」 [人生]

「自分を知る力・・・・・・・・『暗示の帽子の謎を解く』」なる書物が刊行されたので、じっくりと読み進めている。著者は、「読むことにより人生観が変わる書物(2016.11.27投稿)」と「綱引き競技におけるリンゲルマン効果(1016,12.7投稿)」で紹介した書物と同じ高橋佳子先生である。


著作を読んで感動し、講演会を聴くようになった妻にさそわれているうちに、私もまた、高橋佳子先生を尊敬し、心酔するに至って、今では多くの著作に目を通している。


「自分を知る力・・・・・・・・『暗示の帽子の謎を解く』」のプロローグを読んだだけでも、この書物が並みの処世指南書とは次元を異にするものだとわかる。


人はみな、様々な思い込みやこだわり、どうにもならないクセを持ち、それぞれに価値観と判断基準を持っている。そうなるように仕向けるもとになっている、各人に与えられている暗示を、著者は「人は暗示の帽子をかぶっている」と表現している。


プロローグにこのような文章がある。
(人はそれぞれに価値観と判断基準を持っているわけだが)では、その判断基準、価値観は、本当に正しいと言えるのでしょうか。それらは、なぜあなたのものになったのでしょう。あなたは、それらを自分で吟味したのでしょうか。そうではなく、気がついたら、そう考えるようになっていたのではないでしょうか。それが「暗示の帽子」をかぶっている証拠です。私たちは皆、「暗示の帽子」の国の住人にほかならないのです。
 はっきりさせておかなければならないのは、「暗示の帽子」をかぶったままでは、人は本当の人生を生きることはできないということです。
 帽子をかぶった私たちは、あるがままの世界の姿に触れることはできません。
 出会いや出来事の意味を理解することもできません。
 そればかりか、自分が本当に感じていること、本当に願っていることも見出すことができなくなってしまうのです。
 「暗示の帽子」が暗示する生き方をどれほど繰り返しても、あなたが本当に求める人生と現実を手に入れることは叶いません。
 でも、もし、その帽子を脱ぐことができたらどうでしょう。
 それまでとはまったく違う世界が見えてくるはずです。
 
プロローグの終わりの部分に、次のような文章がある。


「自分を知る力」が、私たちにとってどれほど大切なものなのか。それは、人生最強の力と言っても過言ではありません。
 人生とは、願いと目的を見出し、それを手にするためのクエスト(探求)です。
 しかし、自分を知ることがなければ、私たちは自分が本当に求めていること、本当に願っていることさえ見出すことはできません。
 人生で出会うことになる多くの人々と深く理解し合い、友情を結ぶことを何より大切に思っている人も少なくないでしょう。でも、自分を知ることなく、人と本当に理解し合うことは困難であり、ましてや真の友情を結ぶことなど不可能です。・・・・・・
 自分を知る力とは、人間を知る力。そして、人間を知る力とは、世界を知る力にほかなりません。自分を知り、人間を知ることによって、私たちは、自分の中に複雑で予測不能な世界を生きる最大の手立てを手にすることになるのです。
 本書は、本当に人生を変えようと願っている人々のための本です。
 本書によって、1人でも多くの方が、自分を知る力を養い、「暗示の帽子」を脱いで、善我を育み、さらに真我――オリジナルな自分を発見してゆかれることを心から願ってやみません。


まだ途中までしか読んでいないのだが、多くの人にお勧めしたいと思い、そのプロローグの部分を紹介した次第である。


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武本昌三氏のホームページ「ともしび」に掲載された記事の紹介 [人生]

元大学教授武本昌三氏のホームページ「ともしび」には、様々な分野に関する記事が掲載されているのだが、武本氏が最も心血を注いで記されているのは、精神世界に関わる記事である。


武本氏の願いを応援させていただくべく、昨日10月28日に投稿された「黄昏の道を歩みつつ想うこと」なる記事を、ここで紹介することにした。武本氏の了承は得ていないのだが、お咎めはないはずである。


武本昌三氏のホームページ「ともしび」より


       黄昏の道を歩みつつ想うこと(10月28日投稿になる記事の全文 )


  生と死については、人々は、昔も今も無明の闇のなかで悩み苦しみ、ひたすらに死ぬことに怯え続けてきた。かつて空海は、それを、「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し」と嘆じた。(『秘蔵宝鑰』) しかし今は、その気にさえなれば、私たちは誰でも容易に、シルバー・バーチの「人は死なない」という単純明快で極めて重大な霊的真理に接することができる。それは、現代の奇跡と言っても決して過言ではないであろう。
   私は、これまでの一六年間、それらの奇跡のことばをホームページの「学びの栞」に分類し、「霊訓原文」や「叡知の言葉」、「今日の言葉」などを添えて紹介してきた。「メール交歓」で数多くの質問にも私なりに答えてきた。私個人の転生を含む霊的体験についても、「霊界からのメッセージ」や講演集、著書などで伝えようとしてきた。それでも世間にはまだ、シルバー・バーチに気がつかない人も多いし、私のことばを耳にしても、妄言の類いとして聞き流されてしまうこともあるのかもしれない。
  かつてアメリカのシカゴ大学精神医学部教授を勤め、末期がん患者のターミナル・ケアの世界的な権威として有名であったエリザベス・キューブラー・ロス博士 (1926ー2004) は、患者の臨死体験の例を二万件も集めて、生命は不滅であり、人間は「死んでも」永遠に生き続けることを人々に説いてまわったことがあった。
  しかし、やがて、彼女は悟るようになる。人間は死後も生き続ける、本来、死というものはないのだということは、聞く耳を持った人なら彼女の話を聞かなくてもわかっている。だがその一方で、その事実を信じようとしない人たちには、二万はおろか百万の実例を示しても、臨死体験などというものは脳のなかの酸素欠乏が生み出した幻想にすぎない、と言い張るのである。そこで彼女は、臨死体験の例を集めて「死後の生」を証明しようとする努力をついに二万件でやめてしまった。その彼女が、少し自嘲気味にこう洩らしている。「わかろうとしない人が信じてくれなくても、もうそんなことはどうでもよいのです。どうせ彼らだって、死ねばわかることですから。」(『死ぬ瞬間と臨死体験』鈴木晶訳、読売新聞社、1997年、p.129)
   同じく医師で、2011年に 『人は死なないーある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索』を出版して以来、熱心に霊的真理の啓蒙活動を続けている東大名誉教授の矢作直樹さんは、私にとっては力強い同調者であるが、その彼も、「人間は死ぬと終わり、この人生が唯一の人生と頑なに信じている人に、あの世の話や転生の話をしたところで、その人との関係が悪化するだけである。わかろうとしない人にわからせる方法はない」と匙を投げている。(『悩まないーあるがままで今を生きる』ダイヤモンド社、2014年、p.114ー115 )
  やはり、霊的真理を受け容れる魂の準備が整うためには、厳しい試練が必要なのであろうか。しかし、それでも真理は真理である。まわりに生と死について悩み苦しんでいる人があれば、私はその真理を伝えていこうと努めてきた。
  ただ、それは決して平坦な道ではなかった。世間の常識からはみ出して、霊界とか死後の世界などのことを語り続けていくうちに、大学教授としてあるまじきことであると私から去っていった教え子たちもいる。人のために尽くすことが宗教であるという信念で、貧しい人々を金銭的に援助し続けるというのも、家族への配慮が欠けるようなことがあれば、深刻な軋轢を生みだしかねない。世間は甘くはないのである。「わかろうとしない人にわからせる方法はない」と、私もまたつぶやきそうになりながら、今は、この人生最後の「教材」に向き合っている。
 おそらく、このような霊的真理をめぐる周辺との齟齬・葛藤もまた、私にとっては残された必要な学びなのであろう。本欄のNo.187 (2019.07.15)でもすでに述べてきたように、「起こっていることはすべて良いことである」と受け止めていかねばならないと肝に銘じている。


 *(最近、「生と死の真実を求めて」と題する70ページの小著を書き、印刷・製本して遺すことにした。上記の文は、この小著の「おわりに」の一部に若干の修正を加えたものである。)


どうしたわけか、私にはもともと霊的なことがらに関心があった。そんな私が、30代の中頃に繰り返し不思議な体験をすることになった。そのために、精神世界に関わる書物をよみあさり、ついには日本心霊科学協会を訪ねるに至った(付記1参照)。そのようにして、霊魂が実在することを確信することになった私は、自分が書いた小説「防風林の松」「造花の香り」(いずれも本ブログの左の欄にて概要を紹介している)の中に、霊に関わる文章を加えることにしたし、このブログでも幾度か記事にしている(付記2参照)。とはいえ、武本氏が抱かれている使命感には遠く及ばないのが実情である。縁あってこの記事を読んでくださった方には、武本氏のホームページ「ともしび」を訪問して頂きたいと願っている。  


付記1

付記2

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命に関わる危機に幾度も遭遇しながら生きのびる人 [人生]

村上春樹の新作を読んだことがきっかけになり、思わぬ場所で知人と出会うことの不思議さについて、幾度も投稿することになった(付記1参照)。どういうわけか、私はそのような体験を繰り返してきたのだが、私にはもうひとつ繰り返し体験したことがある。「命の危機に遭遇する体験」である。


小学生のとき、友人たちと海に入って浅瀬で遊んだときのことである。しばらく遊んでから波打ち際に戻ろうとしたところ、途中の深さは私の背丈を超えていた。幸いにも友人が私より背が高かったため、無事に連れ戻してもらえることになった。浅瀬で過ごしている間に、潮が満ちてきたのであろうが、忘れられない思い出である。


小学校4年生のとき、私は重い肝炎に罹った。皮膚は黄色になり、大便は白くなった。身体は極端に弱って、便所まで歩くだけでも苦労した。後年にある医師にその体験を話したところ、「よく助かりましたね」と言われたものである。かなりの期間を自宅療養したのだが、その間の体験を書いたのが「子供を学習塾に通わせるより読書の楽しみを教える方がよさそうだ(2015.9.24)」である。


小学生時代の私は肺結核に感染し、父に連れられてしばしば保健所を訪ねた。戦争が終わって数年後であったが、保健所にはX線装置があり、幾度も胸のX線写真をとられたものである。微熱がかなりの期間続いていたから、発病寸前の状況にあったのかも知れない。近所に住んでいた従姉が肺結核で亡くなったので、両親はずいぶん心配したはずである。肺結核が不治の病と懼れられていた時代であった。それから60年後に、その体験を小説の中に書くことになった(本ブログの左側欄に、その長編小説「造花の香り」の概要を紹介している)。特攻隊員として出撃基地で待機中の主人公が、仲間の隊員と交わす会話がそれである。


小説「造花の香り 第6章 若葉の季節」より引用


  吉田と並んで歩きだすと、校舎の中からオルガンの音が聞こえた。音楽に素養のある隊員が弾いているのか、聴きなれた文部省唱歌の旋律が、少しも滞ることなく流れた。
「ところで森山、貴様は自分の寿命について考えたことがあるか」と吉田が言った。
「考えたことはないな、そんなことは」
「俺はモーツァルトが三十五歳で死んだことを知って、せめてそこまでは生きたいと思ったよ。その頃の俺は、二十歳までには死ぬと思っていたからな。中学に入ったばかりの頃だった」
「何かあったのか」
「肺浸潤になったんだ。残りの人生が数年しか残っていないような気がして、三十五まで生きたモーツァルトを羨ましく思った。三十五年も生きたなら、自分なりに何かをやれるだろうに、このまま死ぬのは悔しいという気持ちになったんだ。まだ十二だったからな」
「悔しいよな、たしかに。俺たちは日本のためどころか、人類全体のために役立つことができるかも知れない。そんな気持にもなるじゃないか。今の俺たちは死んで役に立つことしかできないが、この特攻がほんとに役に立ってほしいもんだよな」
「俺たちは実を結ぶどころか、花も咲かせずに散るんだ。俺たちの特攻が何の役にも立たないなんてこと、そんなことがあってたまるか」
「そう言えば、小林が歌を作ったことがあったな。嵐に散る花の歌。おぼえているか、あの歌。特攻が有意義なものであってほしいという、そんな願いをこめた歌だった」(引用おわり)


小学校の6年生(中学1年生になっていたかも知れないのだが)の頃、自宅の屋根の上で感電したことがある。助けを求めて声を出そうとしたが、痙攣する身体からはうめき声しか出せなかった。極めて危険な状況に陥りながらも、奇跡的に助かったのだが、その体験を書いたのが、2015年7月6日に投稿した「電気は怖い・・・・・・感電事故の体験」である。


その感電事故から10年ほどは、どうにか無事に過ごしたのだが、大学ではグライダー事故に遭遇し、2ヶ月ほど入院するほどの怪我をした。忘れもしない10月13日のできごとであり、今日からちょうど61年前のことである。医学部の学生だった航空部の部長によれば、脳内に出血した血液はやがて吸収されて消えるとのことだったが、左眼の視力は今に至るもかなり低下したままである。この事故について書いた記事が「親の恩・・・・・・グライダー事故を振り返って思うこと(2018.8.23)」である。


奇跡的に肺ガンが見つかったおかげで(見つけて頂いたと言うべきだが)、手術後15年以上が経過した今も、こうして無事に日々を送っている。その数ヶ月前に受けた人間ドックでは異常なしと知らされていたにも拘わらず、肺がんはステージ2Bになっていたのである。手術可能な段階ということで切除手術を受けたのだが、主治医からは再発防止のための抗がん剤を薦められた。薦められるままに服用していた抗がん剤により、かなり重い肝臓障害を生じたために、服用を中止することになった。再発防止対策はやめることになったけれども、転移も再発もなく現在に至っている。肺がんが見つかった経緯を書いたのが、「肺ガンが見つかった経緯(2015.11.3)」である。


私よりも多くの危機を体験しながら、それを通り抜けて生きる人もいることだろう。そのような人には、その危機で命を失ってはならない理由があったのではなかろうか。そのような人のひとりかも知れない私には、事故や病気を切り抜けるべき、どんな理由があったのだろうか(あるのだろうか)。偶然の出会いを繰り返した理由がわからないのと同様に、考えたところで答はでそうにないのだが。


人は魂を向上すべく転生を繰り返すという。もしかすると、あの世に還るには私の魂が未熟に過ぎたため、幾度も危険な状況に陥りながらも助かってきた(助けられた)のかも知れない。グライダー事故からさらに10数年が経った頃から、私は幾度も不思議な体験をして、結果的には霊魂の実在を識ることになった。幾度も助けられながらも目覚めなかった私を目覚めさせるために、不思議な体験をさせられたのだろうか。そうだとすれば、危機から私を救い、霊魂の存在を知らしめてくださった誰かに、私は深く感謝しなければならない。


今の私は、どんな人にもその人を扶け導く存在がある、ということを知っている。私は感謝の気持をこめて、霊魂の実在に関わる記事を書き続けてきた。その幾つかを付記2に列挙しておく。



付記1 思わぬ所で知人と遭遇することに関わる記事




付記2
霊魂の実在を識っている私は、そのことを知ってもらいたいがために、関連する記事を繰り返し投稿してきた。その幾つかをここに列挙しておく。




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体外離脱の体験から霊的真理を感得する人たち [人生]

元大学教授武本昌三氏のホームページ「ともしび」に、東京大学医学部教授矢作直樹氏の著書「人は死なない」の文章が引用されている。「対外離脱の体験から霊的真理を感得する」と題されたその記事(10月7日投稿)を、ここに引用させてもらうことにした。


武本昌三氏のホームページ「ともしび」の記事「対外離脱の体験から霊的真理を感得する」を引用


  米国の成功した実業家であるロバート・アラン・モンローや、東京大学で物理学を専攻した坂本政道のように臨死体験がなくても偶然に体外離脱を経験し、その後自分の意思で体外離脱できるようになった人々や、後述するエマヌエル・スウェーデンボルグのように霊的体験の後に自由に体外離脱できるようになった人物の報告もあります。
  坂本政道は、自著『体外離脱体験』の中で、自分は徹底した物質論者であり精神活動も含めてすべての現象は物質とエネルギーで説明できると固く信じていたが、自ら体外離脱を何度も体験したことから、自分の考えが間違いだったこと、人間の本質は肉体から独立して存在する非物質のものであることを感得した、と述べています。彼の客観的かつ詳細な記述には、非常に説得力があります。(矢作直樹『人は死なない』パジリコ株式会社、2013、p.106)


矢作氏が紹介している坂本政道氏は、東大理学部の大学院を終了した人である。ソニーやアメリカの企業に在籍した後、現在はアクアヴィジョン・アカデミーという組織の主宰者として、ヘミシンクなる変成意識状態に導く技法の普及に努めている。


肉体から魂が抜け出し、霊魂の状態で自由に行動できる状態を体外離脱という。臨死体験に伴う現象として知られているが、坂本氏のように、ヘミシンクによって意識的に体外離脱できる人もいる。坂本氏はそのような体験を通して霊魂の実在を知ったようだが、そんな体験をしなくても、「霊魂が実在していることを知る簡単な方法がある(2015.12.7投稿)」に書いたように、霊魂の実在を簡単に知ることができるのである。


言うまでもないことだが、霊魂の実在を知ると、人生観が大きく変わることになる。多くの人が霊魂の実在を知ることになれば、今よりも住み良い社会になるだろう。本ブログへの訪問者は少ないけれど、そのような社会となるよう願って、霊的真理に関わる記事を書き続けようと思っている。


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結婚する相手は運命的に決まっているのかもしれない [人生]

偶然の出会いに関する記事を書いていると(付記参照)、普段は意識していなかった記憶が次々に思い出された。これまで書いてきたように、私には不思議な出会いの経験が多いのだが、もしかすると、妻もその相手のひとりではないか、という気がする。


妻との仲を取り持ってくださった方は、私と妻の双方と親しかったのだが、私は自分が出雲出身だとは伝えたことがなかった。妻が東京生まれで東京育ちだということは、すでに知っておられたようだが、その両親が出雲の出身であることはご存知なかった。


付き合い初めて間もなく、結婚したいと思うようになったそのひとの両親が、私と同じ出雲の出身であると聞かされ、偶然とはいえおもしろい巡り合わせだと思った。


それまでに、不思議な偶然の出会いを経験していた私だが(7月20日に投稿した「村上春樹の新作を読んで」参照)、妻の両親が出雲の出身だったということを、特別に不思議なこととは思わなかった。というわけで、これまではさほどに意識しなかったのだが、不思議な出会いに関する一連の記事(付記参照)を書いた今では、妻とは出会うべき運命だったのではないか、という気がしている。そうだとすれば、私たち以外の多くの人にとっても、そのように言えるのではなかろうか。


もしも結婚相手が運命的に決まっているとしても、ただ待っているだけでは、出会えるはずの相手に出会えないかも知れない。やはり、出会いを強く願ったり、そのための行動を起こすなど、それなりの努力を必要とするのではなかろうか。


不思議な出会いには様々な形があるわけだが、いずれにしても、縁とは不思議なものであると言えそうである。

 

付記 1   これまでに投稿した偶然の出会いに関する記事
村上春樹の新作を読んで(2019年7月20日)


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偶然の出会に関する忘れがたいもうひとつの思い出 [人生]

偶然の出会いに関する記事を投稿し続けてきて(付記1参照)、体験の全てを書いたような気がしていたのだが、もうひとつ、印象に残っている思い出があった。実に不思議な出会いだったが、相手は人間では無く、私自身の名前である。


このブログの「教育」カテゴリーには、中学1年生までの私が成績劣等生のひとりだったことを、少なくとも3回は投稿している(付記2参照)。そんな私だったが、すでに書いてきたように、中学3年時にはむしろ成績は良い方だった。そのためであろうか、生徒会の役職の一端をになうことになった。そんなある日のこと、近隣の中学生の代表が集まる行事があって、私も参加することになった。会場は山陰本線で一駅ほど西の中学校で、私は一度も訪れたことがない学校だった。


その日その学校に集まったのは、幾つかの学校からきた代表の生徒だけであり、学校は森閑としていたから、おそらくその日は休日だったと思われる。何を目的とした集まりが休日に行われたのか、今ではまったく思い出せないのだが、決して忘れられない思い出が残ることになった。


集まった10人ほどの生徒は、会場とされた教室に案内されて、席を選んで腰を下ろすようすすめられた。


椅子に腰掛けると、机の右上隅に張られている名前が見えた。めいめいに席をとるよう勧められたのだから、そこが私に指定された席ではないことは明らかだったが、驚いたことに、張られている縦長の紙に記されていたのは、まぎれもない私の姓名だった。


私の姓は比較的に珍しい方だが、出雲地方ではよく知られており、高校を卒業するまでは、同学年に数人は同姓の生徒がいたものである。そうであろうと、同姓同名の知人はひとりもいなかった。ところがである、初めて訪れた学校のひとつの教室で、偶然に選んだ席が同姓同名の生徒の席だったのである。その隣の席を選んでもよかったのに、どうして私はそこに腰を下ろしたのだろうか。私とほぼ同年齢のその人は、どこでどんな暮らしをしているのだろうか、と思いつつこの記事を書いている。


偶然の出会いを繰り返しながらも、私はそれが意味するところを考えたことはなかった。考えてみたところで、「それは人智の及ばないところだ」との結論しか得られないかも知れないのだが、一連の記事を書いて思うのは、「人智の及ばないこととはいえ、人が経験することには何らかの意味があるに違いない」ということである。その意味が今世の間にわかればよいのだが、と願っている。


付記 1   これまでに投稿した偶然の出会いに関する記事
村上春樹の新作を読んで(2019年7月20日)
                                                                                                                                                
付記2   教育に関わる投稿記事の例
                    

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偶然の出会いに関するさらなる思い出 [人生]

今年になって幾度も投稿したことに、「思わぬ所で知人と遭遇する不思議さ」に関する記事がある。すでに4回も投稿しているのだが(付記参照)、私には思いがけない出会いの経験がまだあった。


20年あまり以前のことだが、愛知県芸術劇場で行われた演奏会に妻と一緒に出かけたことがある。楽団がアンサンブルオーケストラ金沢(今は「オーケストラ・アンサンブル金沢」になっているらしい)だったのか、名古屋フィルハーモニー交響楽団だったのか、今では記憶にない。演奏されたのはベートーベンのバイオリン協奏曲ロマンスで、ソリストは千住真理子だった。その前に別の曲目が演奏されていたのだが、曲名は思い出せない。


どうしたわけかその日の席は最前列で、私と妻は中央ブロックの右端だった。演奏する千住真理子は指揮者側に身体を少し廻しているので、その姿を真正面から見上げるようにして聴くことになった。演奏が始まる直前の、千住真理子の緊張した表情が印象に残っている。


最初の曲目の演奏が終わり、千住真理子の登場を待っていたときである、ふと隣席に眼をやると、座っていたのは同じ職場の仲間であった。その人も夫婦で聴きに来ていたのだが、かなりの時間が経過しておりながら、私たちは互いの存在に気づかなかった。気がつかなかったのは、先に座っていたそのひとの右側の座席に、その人に眼をやることなく座ったからである。私と妻が会話を交わしていたならば、その声で気づかれたと思われるのだが、座席についてから間もなく演奏が始まったからであろうか、私と妻は会話を交わさなかったようである。
                                                                        
その知人が音楽を好んで聴いていることは知っていたのだが、その日の演奏会に出かけることを、私たちは互いに知らなかった。私はと言えば、音楽は主にCDで聴いており、演奏会を聴きに出かけることはまれだった。そんな私たちが、偶然にも隣席同士で演奏を聴くことになった。私たちが共にその日の演奏会を聴くことになっていたなら、隣席同士になる確率を、聴衆の人数にもとづいて計算できるかも知れないのだが、その日のできごとは、ユング提唱になる共時性の一例としか考えようがない。名古屋でのクラシック演奏会は毎年数十回はあるはずだが、その頃の私は年に2回程度しか演奏会に出かけなかったのだから(それも多くの場合、名古屋音楽大学の知人からプレゼントされた招待券によるものだった)。


現役時代の後半を大学で過ごすことになった私は、ある年の空気清浄協会の会合に参加するため、八王子市と日野市の境界にある首都大学東京(東京都立大学に改称)に出かけたことがある。その場所にはかつて牧場があり、過去に勤務していた工場はその隣接地にあった。工場でストライキが行われた際には(付記2参照)、牧場脇の草の上で職場集会を行うことがしばしばだった。


久しぶりに訪れてみると、工場の跡地には団地のビルが建ち並び、牧場の跡地は大学のキャンパスになっていた。


空気清浄協会の会合が終わった後、サラリーマン時代に乗り降りしていたバス停でバスに乗り、名古屋に帰るために八王子駅に向かったのだが(横浜線で新横浜に向かうため)、バスの後方をふと見ると、昔の職場にいた女子社員の姿があった。十数年を経ても明らかにそれとわかったのだが、その固い表情を見たら声をかけることができなかった。その女性とはそれ以前にも、思わぬところで会ったことがある。電機会社の社員だった頃、休日に東京都内に出かけたある日、帰宅すべく電車に乗ったら(京王電鉄の新宿駅で)、同じ車両にそのひとの姿があった。偶然の邂逅を繰り返してきた私だが、同じ人と2度も出会ったのはその女性だけである。それもまた、「同時性」に関わる謎であろうか。


村上春樹の新作を読んで(7月20日)」なる記事を書いたことが、これまで思い出すことのなかった不思議な出会いを、次々に思い出させることになった。偶然の不思議な出会いを繰り返してきた私だが、もしかすると、このブログに書いた以外の体験もありそうな気がする。
                                                                             
ユングの提唱になる「共時性(同時性とも呼ばれる)」の考え方に信憑性があると考えるべきか、あるいは、人智を超えた理由によるものなのか、いずれにしても、私の場合にかぎらず、確率的には極めて起こりにくい偶然の出会いが、現実にはかなりの頻度で発生している。ネットに投稿しているひとの体験記すべてが、必ずしも事実とは限らないわけだが、偶然の出会いを繰り返し体験する人は、さほどに珍しくはなさそうである。


付記

これまでに投稿した偶然の出会いに関する記事


村上春樹の新作を読んで(7月20日)





付記2




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偶然の出会いに関わるある思い出 [人生]

先ごろから繰り返し投稿した記事に、思わぬところで偶然に知人と出会うことの不思議さを書いたものがある。「村上春樹の新作を読んで(7月20日)」「旅先で知人と遭遇することの不思議さ・・・・・・その高い頻度を科学では説明できない(7月27日」「共時性あるいは同時性と呼ばれる現象について(8月18日)」である。


それらの記事で、私には不思議な出会いを過去に3度も経験したと書いたのだが、実はもうひとつ、忘れられない思い出がある。


召集されて中国に渡った父は、終戦を奥地の長沙で迎えたという。復員できたのは、終戦の翌年である昭和21年の初夏だが、私たち家族はそれまで、父がどこでどうしているのかわからなかった。

その日、私と母は出雲今市駅(今の出雲市駅)へ向かうべく、山陰本線のプラットホームで列車を待っていた。私の生家からは歩いて30分ほどの所にある駅で、利用者が少ない今では無人駅になっている。


煙を吐きながら近づいてきた列車が止まると、私たちのすぐ目の前にドアがあった。すぐにドアを開けて男が現れると、母が驚きの声をあげた。降りてきたのは、2年ぶりに還ってきた父だった。むろん父も驚いたはずだが、私はただ呆然としていた。私と母がもっと離れた場所で列車を待っていたなら、あるいは、父が別のドアから降りたのであれば、私と母は別のドアから列車に乗ったに違いなく、その場で出会うことはなかったはずである。


その日のそのできごとは、母にとっても極めて印象的な思い出になった。晩年の母と昔の思い出を語り合うと、母は幾度もその日のことを語ったものである。
                                                                    
小学校3年生時に体験したそのできごとを含めるならば、不思議な出会いを私は4度も経験してきたことになる。これまでに投稿した「村上春樹の新作を読んで(7月20日)」「旅先で知人と遭遇することの不思議さ・・・・・・その高い頻度を科学では説明できない(7月27日」「共時性あるいは同時性と呼ばれる現象について(8月18日)」に書いたように、旅先などで知人と不思議な邂逅をした人は、意外なほどに多いようである。それどころか、そのようなことを繰り返し体験する人も、さほどに珍しくはなさそうである。私もそのひとりと言うことになる。


ユングが提唱した共時性なる概念には信憑性があるとしか思えないのだが、現在の科学はそれを説明できそうにない。アインシュタインの相対性理論は、科学の常識とは相容れないものとして、それが発表されてしばらくは、それを否定できる理論を求めた物理学者も多かったようだが、様々な実験や宇宙に関わる観測結果によって、正しい理論として受け入れられるに至った(科学発展の歴史を思えば、新たな理論によって相対性理論に修正が加えられないとは限らないのだが)。


共時性に関わる事例と同様に科学で説明できないとはいえ、多くの例証があるだけでなく、簡単に実証可能なところから、霊魂が実在することは明確と言えるのだが、多くの人は霊魂の話題に不快感を露わにし、拒絶反応すら示す。


30代の中頃までの私は唯物論者のひとりで、心とは脳内の化学反応によって生じるものだと思っていた。そんな私ではあったが、霊に関わる話題に興味を抱くことはあっても、不快な感情は抱かなかった。もしかすると、そのような私だから、不思議な体験を繰り返し(体験させられた?)、霊魂の実在を識る道に導かれたのかも知れない。かたくなに唯物思想にとらわれていたなら、未だに霊魂の実在を識ることはなかったであろう。私に不思議な体験を与え、霊魂の実在を知らしめてくれた誰かに、深く感謝している。

                                         

付記(2022.5.3)

偶然の出会いに関わる記事を記すうちに、同様の思い出が次々に思い出された。

これまでに投稿した記事(2022.5.3時点)








                                          

付記 2(2022年5月5日)

本ブログに「父の歌集」なるカテゴリーを設け、2021年8月から2022年5月まで、「父の歌集より」なる記事を連載している。その最終回である「父の歌集より 26(2022.5.3)」は、中国から復員した日に関わる父の手記だが、その中に、駅のプラットホームでの邂逅が記されている。





                                         

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共時性あるいは同時性と呼ばれる現象について [人生]

7月20日に投稿した「村上春樹の新作を読んで」と、7月27日に投稿した「旅先で知人と邂逅することの不思議さ・・・・・・その高い頻度を科学では説明できない」に関連する記事です。


旅先などで偶然に知人と邂逅することは、確率的には極めて起こりにくいはずだが、「村上春樹の新作を読んで」に書いたように、私には3度も経験がある。ネットで調べたところ、「旅先で知人と邂逅することの不思議さ・・・・・・その高い頻度を科学では説明できない」に書いたように、そのような体験を繰り返した人に関わる記事が見つかった。

確率的には極めて起こりにくいことでありながら、それが頻繁に生ずるのであれば、「旅先で知人と邂逅することの不思議さ・・・・・・その高い頻度を科学では説明できない」で紹介した、ユング提唱の「意味のある偶然の一致(一般には「共時性」あるいは「同時性」と呼ばれるらしい)」なる概念に、かなりの真実性があることになる。本当にそれが真実だとしても、今の科学でそれを説明することはできそうにない。たとえ今の科学で説明できなくても、数多くの実例が、多くの人に「共時性」 の考え方を受け入れさせるだろう。

多くの例証や霊能力者に関わる事例から、霊魂の実在は実証されている。共時性に関わる例証より多い事例があるだけでなく、有能な霊能力者の協力を得ることで、実験的に実証できるにも関わらず、霊魂の実在を信じようとしない人が多いのはなぜであろうか。科学的な手法で確認すればよいものを、頭から否定するひとが多いのが実情である。子供の頃から勉強を重ねた結果、科学至上主義の考え方がこびりつき、科学で説明できそうにないことを受け付けることができなくなっているのだろう。


あれほどの事件を引き起こしたオーム真理教だが、いまだに信者が修行しているという。人間の意識の持ちようの不思議なところだが、霊魂の話に拒絶反応を示す人(おそらく多くの人がそうであろうが)たちも、科学至上主義から離れられないということである。このような文章を書くと、「相変わらず非科学的なことを主張している」との批判が聞こえてきそうだが、それに対して私ば、「真実か否かを確かめてから批判してくれ」と言いたい。確かめようと思えば簡単に確かめられるのだから。(付記参照)


付記

科学至上信仰に洗脳されているためであろうか、霊魂の存在をあたまから否定する人が多い。科学技術の世界に身を置くことになった私自身も、30代の中頃まではそのひとりであった。霊魂の実在を識っている今でも、科学では説明できない霊魂の存在が不思議なものに思える。とはいえ、霊魂が実在することを実証することは、実はさほどに難しいことではない。そのことを知ってもらいたいがために、霊に関わる記事の投稿を繰り返してきた。その幾つかを以下に列挙しておくので、眼を通して頂けるよう願っている。、




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旅先で知人と邂逅することの不思議さ・・・・・・その高い頻度を科学では説明できない [人生]

先日投稿した「村上春樹の新作小説を読んで」は、思わぬ時に思わぬ場所で、知人と出会う不思議さを書いた記事である。私は3度も経験しているのだが、もしかすると、私以外にもそんな経験をした人がいるのかも知れない。というわけでネットで調べてみたら、やはりそんな体験を書いているブログが見つかった。千葉県在住の主婦「ぴぃちゃん」さんのブログ「ぴぃちゃん 日々のできごと日記」の記事「旅行先で知人に会う確率?!2017-08-25 」である。旅行先で知人と邂逅した経験を、私と同じように3度も経験しているといい、その経緯が記されている。そのブログには、同じような経験を繰り返した人たちからの書き込みも記されている。


さらに検索してみたら、「教えて!goo」にこんな質問があった。


私は思いがけないところで人にばったり遭遇することが多いです!
  例えば海外に行ってその先で小学校の友人に会ったり、乗っている新幹線でたまたま同級生に遭遇したり、ふらっと立ち寄ったお店で長く会っていなかった高校の同級生と再会したり、、など色々あります!特に旅行中などに知人に遭遇することが多く、その数も一般の人より多いと思います。会う人は知り合い程度から、仲の良い友達、あまり好きでない人まで様々です。
  最近なんでこんな事がよく自分には起こるのだろう、この出会いにはどんな意味があるのだろうかと疑問を持つようになりました。
  どなたか同じ様な体験をされてる方、この様な現象に詳しい方!このパワーは一体なんなのか、回答いただけると嬉しいです。


それに対して幾人かが回答しているが、ベストアンサーに選ばれた回答は次のようになっている。


シンクロニシティという言葉をご存知ですか? 共時性なんて言われ方もしますが。
  これは、良い事だけでなく、悪い事でも起こると言われています。仲が良い人だけでなく、あまり好きではない人とも遭遇するのもそのためかもしれません。
  よろしければご参考にしてください。
    http://www.eccentric-i.com/guuzen.html
    http://www.jp-spiritual.com/syncro1.htm  


シンクロニシティについてWikipediaで調べてみると、解説は次のような言葉で始まっている。


 シンクロニシティ(英語:synchronicity)とは、ユングが提唱した概念で「意味のある偶然の一致」を指し、日本語では「共時性」「同時性」「同時発生」と訳される。例えば、虫の知らせのようなもので因果関係がない2つの事象が、類似性と近接性を持つこと。ユングはこれを「非因果的連関の原理」と呼んだ。
   シンクロニシティは日本語では「共時性」と訳され、複数の出来事が意味的関連を呈しながら非因果的に同時に起きることである。しかし、因果関係自体が哲学的議論になってくるため、正確な理解は難しく、解釈の余地が大きいとする考えがある。シンクロニシティは、それが起きることで意味を生成しているともいえ、ユングはシンクロニシティに現われる意味は、もっぱらユング心理学の中核概念である「元型」であると主張した。・・・・・・・・


ユングはそのように考えたらしいが、それが真理かどうか私には理解できない。ユングの主張はともかくとして、旅先などで知人と邂逅することは、極端に珍しいことではなさそうである。起こり得る可能性がゼロに近いことでありながら、ある程度の頻度でそれが発生していることになる。ということはやはり、そのような出来事が起こるのは「シンクロニシティすなわち意味のある偶然の一致」によるのであろうか。


確率的にはゼロに近いできごとを3度も体験したのだから、私の体験は意味のある偶然の一致(「共時性」あるいは「同時性」)によるものかも知れないのだが、ユングに関わる上記のような文章をよんでも、私にはすっきりとした判断ができない。


ささやかな同時性なら、私はかなりの頻度で経験している。新聞などを読んでいると、家族が観ているテレビから、私が読んでいる単語の音声が聞こえることがある。私がその文字を読むのと同時ゆえ、それまで全く意識していなかったテレビの音声が聞こえるのである。わずかでも時間がずれたなら、テレビの音声を意識しないはずである。これを同時性と呼べるかどうかわからないが、多いときには、月に数回も起こることがある。きょうの記事を書いていたら、そのことを思い出した次第である。
                                                  

私の旅行先での体験などが、共時性によって説明できるのであれば、不思議な邂逅を繰り返す人もさほどに珍しくはないのかも知れない。心理学者が調査すれば、案外に面白い結果が得られるかも知れないのだが。


確率的には極めて起こりにくいことでありながら、それが頻繁に生ずるのであれば、ユングが提唱した「意味のある偶然の一致(一般には「共時性」あるいは「同時性」と呼ばれるらしい)」なる概念に、かなりの真実性があることになる。本当にそれが真実だとしても、それを今の科学で説明できるだろうか。本ブログに幾度も書いてきたように、霊魂が実在することは簡単に実証できるのだが、今の科学で説明することはできない。高名な心理学者ユングが提唱した共時性の概念も、科学での説明は難しそうである。


科学技術の世界で生きていた私は、30代の中頃に至るまで、霊魂が実在するなどとは思えなかった。そんな私であったが、今の科学では起こり得ないはずの事柄を幾度も体験したために、科学で説明できないことであろうと、あたまから否定することなく、不思議な出来事を調べたいと思うようになった。私は強い好奇心に押されるままに、精神世界に関わる多くの書物に眼を通しただけでなく、公益財団法人日本心霊科学協会にでかけて、霊能者に会う体験をするに至った。


その結果、霊魂の実在が確かなものと識った私は、そのことを多くの人に伝えたいと願って、本ブログに繰り返し霊に関する記事を書いてきた。その幾つかを、先日の投稿記事「村上春樹の新作小説を読んで」にて紹介したのだが、再度ここに列挙しておく。その中には、日本心霊科学協会を訪れた日のことを書いた記事もある。






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高齢者の記憶力・・・・・・・・認知症になっても魂は向上し続ける可能性がある [人生]

私の母は記憶力に勝れ、百歳になっても前日のできごとなどを事細かにおぼえていたから、認知症とは対極の世界で生きていたと言えよう。その母は百歳を超えたころから、昔の思い出を語ることが多くなった。私は帰省するたびに、母に寄り添ってその聞き役になった。


母は出雲の地主の家に生まれたのだが、小学生時代に生家が没落する悲運に見舞われている。私はかなり以前にそのことを聞かされていたのだが、晩年になってからのある日、母はその経緯を語るとともに、昔の家の間取り図を描き、そこでの生活を語ったことがある。鉛筆で書かれたその間取り図は、まだ私の手元に保存されている。屋敷は広く、米蔵など3つの蔵が並んでいる。使用人や来客用などのトイレをふくめると、家には3カ所にトイレがある。家族が寝起きしていた部屋は、屋内の周囲にある廊下に接している。私は子供の頃から幾度も母の実家を訪れたのだが、昔の痕跡がいくらか残されているだけだった。母がどんな想いを胸にそれを描いたのだろうと想うと、メモ用紙に書かれたその見取り図を捨てることができない。


高齢者が昔を語るときには、過去を美化したがる可能性がありそうだが、晩年の母が幾度もたんたんと語った事柄にも、私の質問に応えた事柄にも、なにひとつ矛盾したところがなかった。母には過去の真実を語りたいとの思いしかなかったのだろう。


母は生家から20Kmほど西に住んでいた教師の父と結婚したのだが、そこに至る経緯を聞かされたのも母が高齢になってからだったと思う。最晩年には年に2回づつ帰省していたのだが、父とのなれ初めを幾度も聞かされた。今になってみると、聞くだけでなく質問などすれば、母にはもっと嬉しかったであろうと思えるのだが、ほとんどの場合、私は黙って聞くだけであった。親にかぎらず、人が思いを込めて語るときには、真剣に聞くだけでなく、その思いに応えるべきだという気がする。母の思いに充分には応えていなかったと、後悔している次第である。


霊魂の実在を識っている私は、いわゆるスピリチュアリズムの考え方を受け入れている。それによれば、人はこの世に目的を抱いて産まれ、魂を成長させてふたたび霊界に還るという。記憶力がなければこの世で学ぶことはできないはずだから、記憶力に恵まれない人は、この世に産まれた目的を達成しにくそうだが、おそらく、そうとはかぎらないだろう。勝れた催眠術師によって失われていた記憶が蘇る現象を思えば、記憶力の衰えにより記憶を失っているように見えても、魂には記憶が残り、この世での経験を通して魂は成長していると思われる。晩年を認知症で過ごす人は気の毒と言えるが、そのような病気をも含めて、この世に産まれた目的を達成するのではなかろうか。


母ほどには記憶力に恵まれていないが、現在の能力を維持しつつ、そのことを感謝しながら生きてゆきたいと願っている。


母は102歳で霊界へ移ったのだが、存命ならばきょうで104歳になっている。というわけで、珍しく個人的なことを書いたが、霊界の母に気持が伝わればと願っている。

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村上春樹の新作を読んで [人生]

図書館に並べられている雑誌を眺めていたら、「文学界」の表紙に「村上春樹」の文字が見えた。新作の短編小説が掲載されているという。興味を惹かれるままに開いてみたら、「ウイズ・ザ・ビートルズ」と「ヤクルト・スワローズ詩集」なる2作の短編が載っている。


2作とも読んだが、いずれも小説と言うより、作者の懐古談といった趣の作品である。それなりに興味深くよんだ「ウイズ・ザ・ビートルズ」の中に、思わぬ場所で偶然に、旧知のひとと邂逅したことが記されている。それを読んで、私にはそのような経験が幾度もあったことを思い出した。


最初の経験は、同じ大学に通っていた島根県出身の先輩(私とは異なる高校の出身。東北大学には島根出身の学生が少なかったので、島根出身の在学生の集まりがあり、一度だけ会っていた―――ように記憶している)と、新宿の駅で偶然に出会い、誘われるままに食事をしながら飲んだことである(飲食代をおごってもらいながら、それ以来一度も会っていない。これを書いている今、失礼なことをしたという気持になっている)。その人はすでに卒業していたのだが、私はまだ在学中のことで、帰省する途中だったように記憶している。早朝に上野駅に着き、夕方の急行出雲(東京駅始発の出雲市駅行き急行列車で、19時頃の発車であった。かなり以前に運行中止になった。)に乗るまでの時間を東京見物をして過ごしていたのであろう。まことに失礼ながら、その人の名前すら思い出せないのだが、この記事がその人の眼にとまればと願っている。その可能性はかぎりなくゼロに近いけれども。


次の経験も60年ほど昔のことである。中央線の四谷駅で電車を乗り換えることにして、ドアが開くなりホームに降りたところ、すぐ目の前に、共に寮で暮らしていた友人の顔があった。大学を卒業してから数年後のことだが、その日私はどこへ行こうとしていたのか、今ではまったく思い出せない。まだ独身だったその頃、私は電機会社に就職して調布市に住んでおり、シチズンに就職したその友人は西武鉄道の沿線で暮らしていた。そのとき、私が次の電車に乗っていたなら、あるいは、別のドアから出たならば、私たちが出会うことはなかったはずである。私が出たドア以外のドアの前で友人が電車に乗ろうとしていたならば、やはり私たちが出会うことはなかった。


そして、もっとも不思議な偶然の出会いは、平成5年の夏に、妻と2人でヨーロッパを訪れたときのことである。11日間のパックツアーで、フランスとスイスおよびドイツを観光する旅行だった。


ドイツの有名なノイシュバンシュタイン城を訪れ、城の1階で内部に入れてもらう順番を待っていたときである。辺りを見回してみたら、少し離れたところに知人の姿があった。同じ大学の学長であり、御夫妻で並んでおられた。周りのほとんどが日本人だったということもあり、学長は私から声をかけられてはじめて私に気づかれたようである。学長はずいぶん驚かれたが、ありえないほど不思議な邂逅に、私も驚愕と呼べるほどの境地にいた。私たちはお互いに、相手がヨーロッパにいることを知らなかったのだが、そのことが、私たちの驚きをより大きなものにしたと言えるだろう。


私と妻はパックツアーだったが、学長夫妻はレンタカーでヨーロッパ各地を回っているとのこと。車を駆って自由に旅行できるのは、国際学会に幾度も参加して外国の国情にも慣れ、語学にも堪能だからできること。自分の語学力の不足を思うとともに、うらやましく思ったものである。私が初めて書いた小説「防風林の松」(本ブログの左サイドバーに、その小説の概要を紹介している)の序章に、「主人公の友人がヨーロッパをレンタカーで観光した」ことが書かれている。小説を書き進めているうちに、学長のレンタカー旅行が思い出されて、そのような文章を加えることになった。


それにしてもである、ヨーロッパを旅行中の旧知の人同士が、同じ場所で出会う確率はどれほどのものであろうか。私と妻の見学が1時間ほど早かったなら、あるいは学長たちの到着がもう少しだけ遅かったなら、出会うことはなかったはずである。私たちがその場所で出会う確率は、宝くじに当選する確率よりはるかに低いはずである。
                                                                    
ヨーロッパでのその邂逅は不思議なできごとと言えるが、先に記した東京での2度の邂逅も、めったに起こらない珍しいできごとだと思える。そのような体験を繰り返してきたことは、私にとってどんな意味があるのだろうか。そのような体験もまた、霊魂の実在を識るに至った経緯とともに(付記参照)、私には何らかの意味がありそうな気がするのである。


村上春樹の長編小説「国境の南太陽の西」の後半に、主人公がかつて捨てた恋人と偶然に顔を合わせる場面が描かれている。「主人公の目の前に赤信号でタクシーが止まると、車内から主人公を見つめている元恋人の姿があった」とされる場面である。もしかすると、「ウイズ・ザ・ビートルズ」に描かれた体験以外にも、村上春樹は不思議な邂逅を経験しているのかも知れない、という気がする。私が3度も体験したのだから、そんな体験を繰り返すひとがいても不思議ではない、という気がしないでもない。確率的には極めてまれなことだが。


付記
科学至上信仰に洗脳されているためであろうか、霊魂の存在をあたまから否定する人が多い。科学技術の世界に身を置くことになった私自身も、30代の中頃まではそのひとりであった。霊魂の実在を識っている今でも、科学では説明できない霊魂の存在が不思議なものに思える。とはいえ、霊魂が実在することを実証することは、実はさほどに難しいことではない。そのことを知ってもらいたいがために、霊に関わる記事の投稿を繰り返してきた。その幾つかを以下に列挙しておくので、眼を通して頂けるよう願っている。(青い部分をクリックすれば、その記事を読むことができます)


                                                                                                                       
付記2(8月18日)
旅先で知人と邂逅することの不思議さ・・・・・・その高い頻度を科学では説明できない(7月27日投稿)」 は、上記の記事に関連するものです。
                                                                                                                                                
                                                                                                                                                 
追記(2019年10月18日)
偶然の不思議な出会いに関わる記事を書いた結果、そのような体験を次々に思い出すことになり、関連する記事を幾度も投稿するに至った。それらをここに列挙しておく。


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大阪夏の陣は私の半生の5倍ほど昔のできごと [人生]

パソコンに向かっていたら、テレビからの音声が聞こえた。「大坂夏の陣からおよそ400年になるので・・・・・・・・」


その言葉を聞いて思った。大坂夏の陣ははるか昔のできごととはいえ、81歳の私には、これまで生きた期間のおよそ5倍ほど昔のことになる。102歳の天寿を全うした私の母にとっては、生きた人生の4倍ほど過去のことにすぎない。その400年の間に、この国の有り様は全く異なったものになっている。


400年どころか、過去80年の間に日本の社会は激変している。私が小学校に入学した頃の日本は、軍国主義そのものの国であり、言論や思想の自由もない国だった。天皇を神としてあがめるよう教えるためか、天長節(天皇誕生日)の儀式はものものしく、何かを捧げ持って登壇し、教育勅語を読む(それが教育勅語だったと知ったのは、ずいぶん後になってからだが)校長の姿が印象に残っている。そのような日本が、敗戦を機に様変わりして、今に続く社会になった。


私の小学生時代には、電話のある家はめずらしく、ラジオのある家も少なかった。テレビやエアコンなどの家電製品が普及し、パソコンやインターネットさらには車の普及が社会に変革をもたらし、携帯電話やスマホを個人が使える日が来ることを、数十年まえの日本人(日本人に限らず)には想像すらできなかった。


科学の発展とその応用技術が、100年後の社会を大きく変えていることだろう。物質文明は進化し続けるだろうが、政治ははたしてどの程度まで進化するのだろうか。長期政権を担っている自民党の有り様を思えば、そして野党の現状を思えば、むしろ退化する虞すらありそうに思えるのだが。


これまで幾度も投稿してきたように、私は霊魂の実在を識っている(注)。20年先の世界もずいぶん変わると思われるから、できればそこまで生きて観たいものだが、それがかなわなくても、あの世から眺めることができるはずである。20年先さらには100年先に、どんな日本が存在していることだろう。幸福度ランキングが先進国中で最下位の現状から脱して、すばらしい国になっているよう願っている。  

 

(注)霊魂の実在等に関する投稿記事






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靖国神社と仏壇・・・・・・霊魂の居場所について [人生]

2月3日の朝日新聞連載小説「ひこばえ」に、こんな会話がでてくる。「仏壇はありません。女房の位牌は、息子が持っています。だから私は、女房に手を合わせることができないんです」


霊魂の実在を識っている私は、霊魂が仏壇や墓に居着いていないことを識っている。同様に、戦死者の霊が靖国神社の中に鎮まっていないことも識っている。霊魂の実在を識る人たちも墓や仏壇に向かうことはあろうが、それは霊に心を向ける手段の一つに過ぎず、霊魂が墓や仏壇に居るとは思っていないはずである。そのように考えている私は、小説「造花の香り」(本ブログの左側サイドバーにて概要を紹介)の中に、次のような文章を書いた。特攻隊員として待機中の主人公が、親友に書き遺す言葉の一節である。


小説「造花の香り 第六章 若葉の季節」より引用


  ・・・・・・今日は一緒に出撃する仲間たちと散歩にでかけ、辺りの景色を眺めながら雑談のひとときを過ごした。お前には信じがたいだろうが、仲間の冗談には思わず笑い声が出た。出撃を目前にしていながら、自分でも不思議な程に落ち着いてこれを書いている。
靖国神社を話題にしたとき、出撃に際して交わされる「靖国で会おう」という言葉は、気持を通い合わせるうえでの合言葉の如きものだと仲間が言った。軍とは関わりのない忠之にも理解できると思う。俺の隊にはキリスト教徒がいるのだが、その仲間ですら言うのだ。自分は靖国神社に祀られるつもりは全くないが、出撃に際しては靖国で会おうという言葉を口にするかも知れない。かく言う俺自身の気持を言えば、その言葉を残して出撃することになろうと、神社に留まるつもりは少しもない。神社の中に閉じこもっているより、俺の家族とお前や千鶴の気持にいつでも応えられるよう、宇宙の中で自由に羽ばたいていたいと思う。俺自身は靖国神社を必要としないが、家族にとっては靖国神社が俺の墓標の如き存在になるだろう。俺が英霊として崇敬されていることを確認できる場所にもなるだろう。それは俺の場合に限らないわけだが、キリスト教徒の場合にはどうであろうか。殉国の至情に燃えているその仲間のことを思えば、国に命を捧げた者のための象徴的な墓標は、靖国神社のほかにも必要ではないかと思う。日本人が過去を振り返り、未来を考えるためにも、空襲の犠牲者などをも対象にした、大きな墓標をしっかりと打ち建てるべきではないか。これを記しているうちに、俺はその実現を強く願うに至ったのだが、忠之はどう思うだろうか。(引用おわり)


主人公が特攻隊員になる小説「造花の香り」を書くためには、多くの参考資料に眼を通す必要があった。その結果、特攻隊員のなかには幾人ものキリスト教徒がいたことを知った。神道を受け入れない彼らも、当然のように靖国神社に祀られたわけだが、その遺族たちはそれを受け入れることができないとして訴訟したことがある。そのような事実を知って、小説の終盤に上記のような文章を書くに至った。2017年4月9日の記事「小説の神様に扶けられて書いた小説」に記したように、走る筆に引きずられるままに上記の文章を書いたのだが、ブログを開設してからは、靖国神社や追悼施設についての記事を、繰り返し投稿することになった。その幾つかを以下に列挙しておく。




新聞小説の言葉に触発されて、霊魂が存在する場所について書こうとしたのだが、戦争犠牲者追悼施設に関わる記事を書く結果になった。靖国神社などに関わる上記の記事を、多くのひとに読んでもらえるよう願っている。

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三浦雄一郎の行動に喝采できる人 [人生]

三浦雄一郎氏は86歳の身でありながら、南米最高峰アコンカグアに登頂して、スキーでの滑降を目指している。新聞やテレビの報道でよく知られていることだが、最近の報道によれば、同氏には90歳でのエベレスト登頂願望があるという。心臓の手術を受けた身体でありながら、80歳でエベレストに登頂した三浦雄一郎氏である。予想外のことを成し遂げるかも知れない。


高齢社会となった今、三浦雄一郎の存在は多くの人の励みになると思われるが、その一方で、それと比較して、自らの不幸を嘆く人も多いにちがいない。とはいえ、後者の人たちと同様な境遇にありながらも、三浦雄一郎氏に喝采の思いを抱く人も多いはず。先日投稿した記事「『最高の人生のつくり方』なる最高の書物」で紹介した書物を読んだ人なら、そのような思いを抱く可能性があると私は思う。


かく言う私は81歳になったのだが、やりたい事ややらねばならない事が多々あって、さらにがんばりたいという気持がある。若いときから努力して、なすべきことを成しとげてきた人ならば、のんびりと余生を楽しみたいと思うのかも知れないのだが、そうではない私は、これまで怠惰に過ごしてきたゆえに、やり遺してきたことが多いということであろうか。三浦雄一郎の存在が励みになるのは、私のような意識を持つ人であろう。


4月1日には新しい年号が発表されるという。平成時代最後の年が明けてまだ3日とはいえ、1年の1%に近い時間はすでに過ぎている。怠惰な性分で三日坊主になりがちな私だが、やりたいことがあれば、さっさと開始しなければならない、という気持になっている。


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「最高の人生のつくり方」なる最高の書物 [人生]

平成30年をしめくくる記事として、最近読んだ書物について書くことにした。高橋佳子著「最高の人生のつくり方」である。


その書物の第2章に、「最高の人生」に関わる次のような文章がある。


・・・・・・・・。最高に関するもう一つの誤った考えは、「最高」は他の99の「平凡」から抜きん出ることによって初めて実現できるというものです。周りの99人と比較競争し、それらを上回れば最高------。もしそうならば、100の人生の中から、「最高の人生」はたったひとつしか生まれないことになってしまいます。
 しかし、本当の「最高の人生」とは、100の人生すべてが「最高の人生」になり得るものなのです。100の人生に100通りの「最高の人生」が用意されている。
 それは、どのような人生なのでしょうか。
 私たちは、この世界で、それぞれが果たさなければならない使命を抱いています。その使命は、その人の魂の内に、人生の設計図、青写真として刻まれているものです。
 「最高の人生」とは、誰かと比較して最高なのではない。その人の内なる青写真を具現することによってこそ、「最高の人生」に至ることができるということです。(引用おわり)
          
日々立ち現れる現実への対処を積み重ねつつ、人は人生を構築してゆくわけだが、その人生をその人における最も望ましいものにする方策が、実に分かりやすく説かれている。今の人生の中に眠っている最高の人生をいかにして引き出すか。どんな人にとっても、それは可能である。


2016年12月5日に投稿した「子供の心理と学校での成績・・・・・・注目すべき実験の結果」では、同じ著者による「魂主義という生き方」なる書籍を紹介したのだが、この「最高の人生のつくり方」も、多くの人に読んでもらいたいと願っている。先日訪れた書店には、まだ数冊ほど並んでいた。

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日本心霊科学協会で行われる心霊治療 [人生]

心霊治療という言葉を耳にした人の多くは、「非科学的なオマジナイのようなもの」と受け取るにちがいない。その一方で、霊魂の実在を識っているひとの多くは、心霊治療を受けたことがなくても、その有用性を否定しないと思われる。


最も信頼できる心霊に関わる団体は日本心霊科学協会である。歴代の理事長を大学教授が勤め、理事にも大学教授や医師が名を連ねるなど、心霊に関わる団体としては極めて異色な団体だが、そのホームページによれば、そこでも心霊治療が行われているようである。というわけで、日本心霊科学協会のホームページから、心霊医療研究会に関わる文章の一部を引用させていただくことにした。


日本心霊科学協会の心霊医療研究会より引用


  直接心霊医療と遠隔心霊医療を行っています。会員は心霊学についての理解を深めて、これらの心霊医療を受けることができます。
  協会では直接医療、遠隔医療の二種の試みが行われております。(直接医療は現在一時休止中、遠隔医療は常時受け付け)。医師のもと霊的能力者、医療霊的能力者などが参加して行います。

 〈心霊医療を受けたい方のために〉
   当協会が心霊医療を行うのは、あなたが健康になり、人の為、世の為にお尽し下さるようになれることを願っての為であることは勿論ですが、最大の目的は、心霊医療を受けた方が心霊医療により病気がなおることによって、『成る程、霊魂は存在するものである』ことを納得し、知って頂きたいが為です。
  では、何故霊魂の存在を知って頂きたいのか、と申しますと、それは私達が現在生活している此の世の中の「争い」「不幸」「事件」といった悪い現象は、「怒り」「恨み」「欲望」といった悪い想念を清算し切れずに死んだ人が、死んで霊魂となってからも、それらの悪い想念を此の世の者に放射しているのが原因となっている事が多いからです。
  そして此の世で生活している私達が、此の悪しき想念の発信霊と同じ心境になると、その霊と波長が合い、ラジオのダイヤルを合せると声が聞えて来るのと同じ事で霊の放射した悪しき想念にふさわしい悪い現象(人と争ったり、不幸になったり)を起します。
  ですから霊魂の存在を知り、霊魂の住む世界と私達の住む現界との関係を研究して下されば、あなた御自身も不幸から脱却出来ますし、また不幸を予防することも出来ますし、それがひいては社会の平和につながり、社会や子孫の繁栄につながります。
  あなたが申込みをなさいますと同時に医療霊団(霊界の医師グループの意味)はそのことを知り直に活動を開始致します。あなたの因縁が浅く、あなたの背後霊が医療を受けることを希望して居られる時は、申込まれただけで全快する場合もあります。と、同時に研究会の事務局から各心霊医療者に連絡し、申込者の記入した処置票を配布します。連絡を受けた医療者は直ちに処置票によって祈念を行います。
 そうしますと医療者の背後霊は貴方の背後霊に対して、貴方の病気をなおしても良いかどうかとお尋ねになります。貴方の背後霊が承諾なさいますと、医療者の背後霊は協会の医療霊団に連絡をなさって医療が開始されることになります。
  霊界は非常に折目正しいところで、背後霊同志がお話し合いをされている姿を優秀な霊的能力者達が霊視致して居ります。(此の事は極めて優秀な霊的能力者達が確認して居ります。)その結果承諾があれば医療団に連絡して医療が開始される運びになります。
  申込者は毎月処置票を協会宛に送り、医療者はそれによって毎月祈念を致しますが、霊医の医療はその時以後、常時行われて居るのです。

   此のようにして医療は間断なく行われているのですが、「治り」の早い人遅い人、「治り切らぬ」人も出て来ます。その主な理由は、
(一)いわゆる因縁や前世の業の深いか、浅いか。
(二)あなたを病気にすることによってあなたや、あなたに関係のある霊達を向上させようという霊界の意図のある時。
(三)病気をしているあなたに罪にありませんが、その御家族や関係者等にあなたの面倒を見させることによってそれ等の人々の因縁等を解除させようとの霊界の計画がある時。  医療の効果を統計的に見ますと、全快なさる方は六ケ月以内という例が非常に多いので、六ケ月を一つの目標として祈念を続けて居ります。先程の治りの遅い早いの原因等も考慮して医療担当者を交替して見たり、因縁や業を見ることの上手な霊的能力者にお宅の状況を視てもらうこともしたいと思って居ります。
(四)前記の理由の合併されている場合。勿論あなたの心構え、日常の生活態度も大いに影響します。
  ・・・・・・以上極めて簡単な説明で、意を尽しては居ませんので充分おわかりになったかどうかと思いますが、心霊医療でなりればなおらぬ病も多く、しかも百発百中治ると断言出来るものでもないことを御承知頂けたと存じます。「治る」ということはあなたと霊界の高級霊との連絡状態によるものであり、また申込後のあなたの心の修業如何の問題でもあります。・・・・・・・・(引用おわり)


ネットで調べて見ると、心霊治療を行う霊能者は日本中にいるようだが、このブログで幾度も書いてきたように、霊能者と称す者には多くの偽物がいるとのこと。医学治療では難治の病気で苦労しており、心霊治療に頼ろうとする人には、日本心霊科学協会に相談されるようお勧めしたい。


付記
2015年10月8日に投稿した「浅田次郎の小説『降霊会の夜』を読んで」に書いたように、私はかつて日本心霊科学協会教会を訪ねたことがある。




 

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武本昌三氏のホームページ「ともしび」より記事を引用 [人生]

10月22日の「ともしび」に、武本氏に寄せられたメールと、武本氏からの返信メールが掲載されている。「このHPを読んでくださっている方々にお礼を」と題されたその返信メールをここに引用させてもらうことにした。多くの人に「ともしび」を知ってもらうためだから、無断でのこの引用を容認して頂けると思う。


武本昌三氏のホームページ「ともしび」の「メール交歓」より、「このHPを読んでくださっている方々にお礼を(2018.10.22)」を引用


 N. M 様
  メールを拝見しました。友人の方が、亡くなられる前にこのホームページや飯田さんの本に親しんでおられたことをお伺して、少し救われたような気がしています。霊界へ移る時に、霊的知識をもっていれば、不必要な恐怖心を抱かなくてもすみますし、環境の変化にも容易に順応できると考えられます。私も、いまではそういうこともわかりますから、いろいろと曲折を経て、霊的真理の一端でも知り得たことを、たいへん有難いことだと思っています。

  私は、飯田文彦さんとは、彼が『生きがいの創造』を出す前から文通していました。お互いに大学に籍をおく者としての親しみもありました。彼に言わせると、私は彼の「ソールメイト」なのだそうです。私は、国立大学に長くいましたので、霊魂とか霊界とかの話を持ち出すことは、大学社会では「禁忌」であることをよく知っていました。私自身も、長い間、霊的真理からは遠いところにいましたから、それだけに、彼が大学の紀要に霊界について触れているのを知ったときには、批判を受けるのではないかと少し気になったことを覚えています。ご承知のことかと思いますが、いまでは彼も、大学を離れて、自由の立場で活躍の場を大きく広げているようです。

  東大医学部教授の矢作直樹さんが、2011年に出した『人は死なない』も、世間に対しては大きな刺激になったと思います。評論家の立花隆氏などから、東大教授ともあろうものが、このような本を出すなんて、「開いた口が塞がらない」というような厳しい批判を受けたりしましたが、矢作さんは、あまり気にしていないようです。翌年には、ヘミシンクによる霊界探訪の実践者である坂本政道さんとの共著で、「あの世」をめぐる対談集『死ぬことが怖くなくなるたったひとつの方法』(徳間書店、2012)を出版し、その後も、同様の本を次々と出版しています。あなたも言われているように、1980年代の後半あたりから、死後の生についての本がいろいろと出まわりはじめて、求めようとさえすれば容易に手に入るようになりました。私などは、「科学で解明できるものだけが真理である」というアカデミズムの世界にあまりにも長く、どっぷりと漬かっていましたから、霊的真理に目覚めたのは、かなり遅い方です。

  世の中には、昔も今も、愛する家族を失って嘆き悲しんでいる人々が数多くいます。老齢になって、迫りくる死の恐怖に怯えている人々も、決して少なくはありません。そういう悲嘆や恐怖を乗り越えることができる「たったひとつの方法」は、おそらく、霊的真理を理解すること以外にはないでしょう。私は自分自身の体験からもそう確信しながら、いままで、その体験を講演会で話し、本にも書き、このようなHPでも、訴えてきました。私の前世では、何度も霊的真理を疑い忌避してきたことがあったといわれていますから、今世で、このように霊的真理を普及するために微力を尽くすようになったのも、おそらくそれが私に与えられた使命なのでしょう。私は、その使命を私なりに、なんとか果たそうと努めながらいままで生きてきました。このようなHPも、あなたが言ってくださっているように、読者の方々に、少しでも、なんらかのお役にたってきたとすれば、大変有難いことだと思っています。あなたにも、私のほうからこそ厚くお礼申し上げます。 (引用おわり)


武本昌三氏のホームページ「ともしび」を、少しでも多くのひとが訪ねるよう願っている。そんな気持に押されて幾度も取り上げてきたわけだが、訪問者の少ないこのブログゆえ、大なる効果は期待できない。このブログを読んでくださる方には、武本昌三氏のホームページ「ともしび」を訪ねるとともに、そのホームページを宣伝して頂きたい、と願っている。

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寿命を迎えるまでになすべきことは [人生]

8月23日に「親の恩・・・・・・グライダー事故を振り返って思うこと」なる記事を投稿したが、その事故は60年前の10月13日であった。忘れがたい10月13日とはいえ、事故に関する記事は先ごろ投稿したので、きょうは寿命について書こうと思う。グライダー事故のほかにも、命に関わる体験を幾度もしてきたからである。


振り返ってみると、私はそのような体験を小学生時代から繰り返している。小学生時代の感電事故(その事故については、2015年7月6日の記事「電気は怖い・・・・・・感電事故の体験」と、2018年9月7日の記事「安全教育としての理科教育」に書いている)と溺れかけたこと。小学生時代に患った肝臓病(その病気のことは、2015年9月24日に投稿した「子供を学習塾に通わせるより、読書の楽しみを教える方が良さそうだ」に書いてある)も、成人後にその体験を伝えた医師からは、「よく助かりましたね」と言われことがある。


結核に感染したのも小学生時代で、父に連れられてしばしば保健所に行き、X線検査を幾度も受けた。両親からも医師からも、感染のレベルは知らされなかったのだが、微熱を意識することが多かったから、きわどい状況にあったと思われる。その当時の結核は不治の病と呼ばれ、私の村でも肺結核で命を失う者が少なくはない時代であった。


そのような体験を持つ私は、特攻隊員を主人公とする小説「造花の香り」(本ブログの左サイドバー参照)の中に、次のような一節を加えた。出撃基地で待機中の主人公が、仲間の隊員と話し合う場面である。


「造花の香り第六章 若葉の季節」より引用

   ・・・・・・吉田と並んで歩きだすと、校舎の中からオルガンの音が聞こえた。音楽に素養のある隊員が弾いているのか、聴きなれた文部省唱歌の旋律が、少しも滞ることなく流れた。
「ところで森山、貴様は自分の寿命について考えたことがあるか」と吉田が言った。
「考えたことはないな、そんなことは」
「俺はモーツァルトが三十五歳で死んだことを知って、せめてそこまでは生きたいと思ったよ。その頃の俺は、二十歳までには死ぬと思っていたからな。中学に入ったばかりの頃だった」
「何かあったのか」
「肺浸潤になったんだ。残りの人生が数年しか残っていないような気がして、三十五まで生きたモーツァルトを羨ましく思った。三十五年も生きたなら、自分なりに何かをやれるだろうに、このまま死ぬのは悔しいという気持ちになったんだ。まだ十二だったからな」
「悔しいよな、たしかに。俺たちは日本のためどころか、人類全体のために役立つことができるかも知れない。そんな気持にもなるじゃないか。今の俺たちは死んで役に立つことしかできないが、この特攻がほんとに役に立ってほしいもんだよな」
「俺たちは実を結ぶどころか、花も咲かせずに散るんだ。俺たちの特攻が何の役にも立たないなんてこと、そんなことがあってたまるか」    ・・・・・・(引用おわり)


命に関わる病気の最たるものはガンだが、私はそのなかでも危険な肺ガンを患い、手術を受けたことがある。ある女医さんの勘によって比較的早期に見つけてもらい、今に至るまで元気に過ごすことになった。その経緯を書いたのが、2015年11月3日の記事「肺ガンが見つかった経緯」である。


命に関わるような状況を幾度もくぐり抜け、長寿に達する人がいる一方で、本人には何らの落ち度がないにも拘わらず、若い命を失う人がいる。中には戦争犠牲者のように、政治の過ちによって犠牲にされる人もいる。病気で亡くなった人には「それが寿命だったのだ」と言えるけれども、不慮の事故などで亡くなった人については、「運が悪かったのだ」としか言えないような気がするのだが、スピリチュアルリズムに関わる人の中には、「それもやはり寿命なのだ」という見方をする人がいる。


スピリチュアルリズム的な解釈によれば、人がこの世に生をうけるのは、生きる過程を通じて霊的に成長し、魂を磨くことにあるらしい(注1)。若くして世を去る人がいるのは、「生まれた目的をすでに果たしたからである」ということらしい。私が幾度も危ういところを助かってきたのは(助けられてきた?)、この世で果たすべきことが残っていたためなのか、魂がまだ未熟に過ぎるゆえに死んではならなかったのか。「この世で果たすべき最も重要なことのひとつが、自らの魂を磨くこと」であるなら、元気で81歳を迎えようとしている私には、まだまだ未熟なところが多いということかも知れない。


未熟なところが多々あると自覚し、やり残していることも多々あるという気持がある私は、寿命を迎えるもう少し先までに、生まれる前にたてた目標レベルを目指して、魂を磨くべく努めたいものである。とはいえ怠惰で惰性に流されやすい私ゆえ、努力を怠る可能性がある。もしかすると、「怠惰で惰性に流されやすい弱点を克服すること」も、私がこの世に生をうけた目的のひとつかも知れないのだが。


(注1

この考え方は生まれ変わり(転生)を前提にしている。生まれ変わりに関する学術的な調査が行われ、現在の科学では説明できないものの、その真実性が確認されている。


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