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「人生の暗号」なる興味深い書物 [人生]

「人生の暗号」なるおもしろい書物を読んだ。著者は世界的に著名な分子生物学者であり、元筑波大学教授の村上和雄氏である。

 

村上氏が定年を間近にして著されたこの書物には、分子生物学者として関わった学問に関する記述や、研究のあり方や研究者の心構えに関わる記述が多いのだが、最も伝えたかったのはSomething Greatの存在と思われる。表紙に記されている書物の副題は「あなたを変えるシグナルがある Something Great」となっている。

 

人の設計図は32億もの科学文字で書かれており、それを書物にたとえると、1ページ1000語で1000ページの大百科事典3千2百冊分に匹敵するほどの分量になるとのこと。その膨大な情報が書き込まれたDNAによって人は生かされている。その遺伝子暗号は、顕微鏡で一億倍に拡大しても読めないような超微細な文字で書かれているという。村上氏はこの書物とは別のところで、「この万巻の書物に匹敵する情報は誰かの手によって書かれたはずだが、書いたのは人間ではない。人間を遥かに超えた何ものか、つまりサムシング・グレートによって書かれたとしか言いようがない、というのが私の実感です。それゆえに生命の神秘を司る存在を、サムシング・グレートと私は呼ぶことにしたのです。」と書いておられる。

 

村上氏によるこの「人生の暗号」は、研究者を目指す人の参考になり、研究に関わる人を励ますはずの書物だが、科学研究と関わりのない人にもお薦めしたい書物である。


20年あまり以前に出版されたこの書物を、私は図書館で借りたのだが、この書物を蔵書にしている図書館は、ネットで調べた内の半分ほどである。「人生の暗号」以外の村上氏の著作は、多くの図書館が蔵書にしている。そのうちのどれかを、近いうちに読みたいと思っている。       


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人生の目的について 2 [人生]

7月24日の投稿記事「人生の目的について」と、5月10日の記事「『2つの扉』なる書物の紹介」に関連する記事です。
                                                                                                                                                 
「2つの扉」の第3章は「人生の目的を探す」となっており、その章には次のような前書きがあります。
                                                                                                                                                 
心に生まれた願いを実現しようと生きるのが人間。
こうしたい、これが欲しい。
こうであったらどんなにいいだろう。
そして、日々生まれる小さな願望から出発して
人生全体を貫く願いを探している。
なぜなら、それは、私たちに「人生の目的」を教えるからである。
人生は、生きる目的を探し、それを果たそうとする旅路。
問題は、誰もがすべてを忘却するところから
生き始めなければならないことである。
でも、それを成し遂げようとするのは自分だけではない。
人生そのものが、私たちをその目的地に導こうとしているのである。
                                                                                                                                                 
「心に生まれた願いを実現しようと生きるのが人間」であり、人は魂の願を抱いて生まれるものであって、その実現が人生の目的である、ということです。
                                                                                                                                                 
著者の著作には、「人は死んだら終わりではなく、永遠の時を生き続ける魂の存在であり、その人生に目的と使命を抱いて生まれる」なる文章が頻出します。そして、魂とは人生を超えて持続する智慧持つ意志のエネルギーであると記されています。

                                                                                                                                                 
霊魂の実在を知っている私には、上記の文章をそのまま受け入れることができるのですが、そうでない人は、著書の一部を抜き出した上記の文章を読まれても、信じ難く思われるかもしれません。そうであろうと、「2つの扉」を通読されたならば、深く納得されるはずです。得られるところ極めて大なる書物ですが、ここで全容を紹介することは困難です。その書物を、多くの人に読んでもらいたいと願っています。


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人生の目的について [人生]

まだ独身だった数十年前のことだが、ある知人が言った、「人生の目的は幸福になることだ」と。単純な私は思った、「人生の目的は幸福になること・・・・・・たしかにその通りだ」と。
                                                                                                                                                 
知人とそんな会話を交わしてから10年が経った頃、私は幾度も不思議な体験をした。私は心霊に関わる多くの書物を読み、さらには日本心霊科学協会を訪ねた。その結果、霊魂の実在を疑わなくなった。本ブログを開設してからは、幾度も霊に関わる記事を投稿することになった。(「浅田次郎の小説「交霊会の夜」を読んで」「霊魂が実在していることを知る簡単な方法がある」「日本心霊科学協会について」など)
                                                                                                                                                 
霊魂の実在を知った人のほとんどは、人生観が変わるはずである。霊魂の実在が社会の常識になったなら、凶悪犯罪は激減する可能性がある。それゆえに、日本心霊科学協会など精神世界に関わる組織や人が、様々な形で啓蒙活動を行っている。私も本ブログを開設する以前から、機会があれば知人に霊魂の実在を語ったものである。興味をもって聞いてくれる人は少なく、中には嫌悪感を露わにする人もいた。知人に話しかけるだけでなく、初めて書いた小説「防風林の松」(本ブログの左サイドバーにて概要を紹介)に次のような文章を書いた。主人公が伯父に悩みを打ち明け、相談に乗ってもらう場面である。伯父と話し合ったことが、結果的には主人公の生き方に大きく影響することになる。
                                                                                                                                                 
小説「防風林の松 第5章 迷路」より

                                                                                                                                                 
「おれの友達がよく言うんだよ。人生の目的は幸福になることだから、幸福になるための努力をしなくちゃならないし、人を不幸にしないように気をつけるべきだ。確かにその通りだと思うけど、むつかしいことだね」
「人生の目的は幸福になること、か。そういう考え方もあるだろうな」と伯父は言ってタバコを口にくわえた。
 ゆっくりと煙をはきだしてから伯父が続けた。
「ついでだから、人生の目的とは何か、ということを考えてみないか。もしかすると、ジロちゃんが困っている問題を考えるうえで、参考になるかも知れないからな」
 その言葉が僕に期待を抱かせた。今の自分に必要な何かが、これから始まる話し合いの中で、ようやく見えてくるような気がする。
「幸福とは何かということから考えるべきだが、今はそれは措いとくことにしよう。ここではひとまず、自分は幸福だと思う人は幸福であり、不幸だと思う人は不幸だということにしておこう。そこでだな、人生の目的が幸福になることだとしたら、不幸だった人は、あるいは不幸だったと思っているような人は、せっかく生まれてきたのに、その目的をはたせなかった、ということになるんじゃないのかな。どんなに努力をしても幸福になれなかった、と思う人もいるだろうし、何かの事情でそのための努力すらもままならなかった、という人もいるだろう。運の悪い人はこの世に生まれた目的を果たせないというのでは、どこかおかしいとは思わないか。幸福とはいえなかったと思う人にも、生れてきた目的があったはずなんだよ」
 黙って耳を傾けている僕に向かって、伯父はさらに続けた。
「そこで、人生の目的ということだが、生きるということ自体が人生の目的だと考えたらどうだろうか」
伯父は灰皿にタバコを押しつけて火を消した。灰皿の中で重なっている二本の吸い殻を見ながら、生きること自体がどうして目的になるのだろうか、と思った。
「生きること自体が目的って、どういうことだろう」
「人生を生きる過程で学んだことに意味がある、ということだよ。だから、どんな生き方をするのか、そしてどんな考え方で生きるかということが大切なんだ」
「たとえば、生きがいのある人生になるように努力する、というようなことかな」
「生きがいというのはたいせつなことだが、そのような生き方をすることが、人生の目的だとは言えないだろうな。いまの世の中には、生きがいを感じられない者がたくさん居るということだが、そういう人にも人生の目的はあるはずだからな。それで、生きること自体に目的があるということの意味なんだが、これはつまり、人生を生きるということから得られた結果に、なんらかの価値があるということなんだよ。どんな価値があるかということだな、その人が生きた結果に」
「自分が学んだり成し遂げたりしたことが、他の人のために役立つならいいけど、そうじゃない場合には人生の目的を充分に達成したことにはならない、というようにも聞こえるけど、多分そういうことじゃないよね」
 伯父は新しいタバコをとりだしたが、口にくわえるかわりに、ライターと並べてテーブルの上に置いた。ライターの横には、灰皿とビールで満たされたコップがあった。中身が半分ほど残ったビールのビンは、テーブルの中ほどに置かれたままだった。
 僕は眼の前のコップをとって一口だけ飲んだ。コップを手にしたまま泡の消えたビールに眼を落としていると、話しかける伯父の声が聞こえた。
「こんな話を聞いたことがないかな。人が生まれてくる目的は、この世での修業を通して魂を向上させることだ、という話を」
 意外な言葉だったが、それを聞いても僕は驚かなかった。伯父と父が霊魂の実在について議論したことがあったからだ。(引用おわり)


                                                                                                                                                
上記の文章に続いて、「この世での修業を通して魂を向上させること」の意味が語られるのだが、長くなるのでここまでにする。
                                                                                                                                                 
「防風林の松」は20年あまり以前に書いた小説である。筆が走るままに上記のような文章を書いたのだが(「小説の神様に扶けられて書いた小説」参照)、久しぶりに読み返しても、書き直そうとは思わない。とはいえ、5月10日に投稿した「「2つの扉」なる書物の紹介」で紹介した書物「2つの扉」を読んだ結果、「人生の目的」をあらためて考えさせられた。近いうちに、「人生の目的について 2」として投稿したいと思っている。




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ティッシュペーパーを選ぶ基準 [雑感]

ティッシュペーパーには幾つものメーカーがあり、価格にもかなりの幅があります。高価格であってもそれなりに売れているのは、ティッシュペーパーとしての価値が高いからでしょうか。私が比較したかぎりでは、高価格品が安価なものより勝れているとは思えなかったのですが。
                                                   
5箱づつ束ねられたティッシュペーパーを持ってみますと、製品によって重さが異なります。ティッシュペーパーの素材はパルプだけだから、重い製品の方がパルプの量が多く、使い勝手が良いのではないか。というわけで、製品を手のひらに乗せて重さを比較し、価格あたりの重さが重い商品を買っています。そのようにして、かなり以前から、有名メーカーではない会社の製品を使っています。比較的に安価なのは、広告に費用をかけていないからでしょうか。その製品の使い勝手は高価な製品に劣らない、と私には思われます。


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学徒兵の遺稿に戦前の大学生の知的レベルを思う [雑感]

先日投稿した「若い世代に読んでもらいたい『きけわだつみのこえ』(2022.7.5 )」と「『きけわだつみのこえ像』が伝えること( 2022.7.9  )」に関連する記事です。                                                                                                                                                


本ブログでは幾度も、特攻隊や学徒出陣に関わる記事を投稿してきた。ブログ内を検索してみたところ、付記に列挙したように17回も取り上げている。私が特攻隊に関心を抱き続け、小説「造花の香り」を書くに至った経緯を書いたのが、「特攻隊要員の搭乗機を見送った日のこと(2015.10.16)」と「特攻隊員穴沢利夫少尉の悲恋に想を得た小説(2021.2.28)」である。                                                                                                                                                    


敗戦必至の状況にあった昭和20年の4月以降、日本は多くの特攻隊を出撃させた。その主力とされたのは、学業半ばで徴兵された学徒兵だった。そのひとりである佐々木八郎は、沖縄戦が始まって間もない4月に特攻隊で出撃した。その遺稿集「青春の遺書」に記されているのは、二十歳過ぎの若者が書いたものとは思えない文章である。終戦直前の7月末に戦死した林尹夫も、佐々木八郎とともに学徒出陣で徴兵された学徒兵だが、特攻隊ではなく哨戒機の乗員として戦死している。その遺稿集「わがいのち月明に燃ゆ」に記されているのは、二十歳そこそこの青年によるものとは思えないレベルにある。彼ら戦没学徒たちの遺稿を読むと、佐々木八郎や林尹夫にかぎらず、戦前の学生たちの知性と教養は、現代の学生たちより優れていた、と思わされる。


今では大学への進学は普通のことだが、戦前の日本では、高校どころか中学へ進学する者すら少なかった。私が高校生だった昭和30年頃には、中学校を卒業してすぐに就職する同級生が、高校に進学する者よりずっと多かったものである。戦前には大学に進む者はごく少数だった。私の父は教師だったが、師範学校で教師の資格を得ている。伯父と叔母にも三人の教師がいたが、いずれも師範学校で学んでおり、大学で学んだ者はいなかった。そのような時代の大学生たちには、現代の学生たちとは異質な意識があったにちがいない。社会からエリートと見られ、自らもそれを意識していたであろう彼らは、意欲をもって学ぶべき責任を意識しつつ、約束された将来に向かって真摯に励んだことだろう。そのような彼らが学徒兵にされ、人生を奪われ、夢を絶たれた。

                                                                                                                                                 
時代が変わった今の日本にも、戦前の学生に劣らぬ意識を持って努力している学生はいると思われるが、そうではない学生の方が多いような気がする。私自身も怠惰な学生のひとりだったのだが、だからこそ、今の学生たちに読んで貰いたいと思う、学徒兵たちの遺稿を(図書館の多くが「きけわだつみのこえ」等を蔵書にしている)。私が学生時代に読んでいたなら、少しはまじめに学んだのではないか、と思うからである。
                                                   
付記  特攻隊あるいは学徒出陣に関わる投稿記事
                                                   
特攻隊員の心情(2021.1.17)




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戦争を憎む感情を伝える憲法 [政治および社会]

 7月9日に投稿した「『きけわだつみの声像』が伝えること」は、このような文章で終わっている。<憲法改正論者は言う「現憲法はアメリカに押しつけられたものである」と。憲法改正の核心は9条だが、その条項を発想して盛り込んだのは日本(幣原喜重郎内閣)だった。戦後間もないその頃、戦後の政治を担うことになった政治家たちは、あの戦争を悔い、戦争を憎む感情を強く抱いていたはずである。時代の推移に伴い、必要であれば憲法も改正されてしかるべきだが、戦争を憎む憲法であり続けてほしいものである。>
                                                   
「時代の推移に伴い、必要であれば憲法も改正されてしかるべきだが、戦争を憎む憲法であり続けてほしいものである。」なる文章を、幾度も本ブログに書いてきたのだが、それよりかなり以前に、小説「造花の香り」(本ブログのサイドバーにて概要を紹介)の中で書いている。
                                                   
「造花の香り」の序章より引用
                                                   
「そんな俺たちは、心の底から戦争を憎んでいるわけだが、将来の日本人どころか、今の若い連中にとっても、あの戦争は歴史上のできごとなんだ。ずいぶん遅くなったが、俺たちがまだ生きているうちに」と忠之は言った。「良太が願った大きな墓標を作らなくちゃな。将来の日本人がいつまでも、反戦と平和を願い続けるうえでの象徴になるわけだから」
「それを眼にするだけで、日本があんな戦争をしたことを思い起こさせますからね。それに」と千鶴が言った。「二度と戦争をしてはいけないという私たちの気持ちを、将来の日本人に伝えてくれますからね。そのように願って作るんですもの」
「いまの憲法には、俺たちのそんな気持ちがこめられていると思うが、憲法がいつか改正されるようなことがあっても、戦争を憎む気持が伝わるようなものにしてほしいよな」
「いつまでも伝えたいわね、戦争を禁止する憲法が公布されたときに感じた、私たちのあの気持を。戦争というものが無くなるようにと祈った、私たちのあの気持を」(引用おわり)
                                                   
「造花の香り」は戦時中の青年たちに関わる物語だが、序章は戦後60年の平成時代に、そして終章は戦後6年に設定されており、どちらにも、上記のごとき憲法に触れる文章がある。
                                                   
引用した文章中の「大きな墓標」は、2020年8月15日に投稿した記事「全国戦没者追悼式に思う」で主張した記念碑(祈念碑)である。
                                                   
安倍元首相は悲願とした憲法改正を果たせなかったが、拙速に改正を押し進めなくて良かったと思う。必要であれば憲法も改正されてしかるべきと思うが、その憲法は、「日本国に戦争を禁じるとともに、その憲法を有する日本に戦争を仕掛けることを、いかなる国に対してもためらわせる憲法」であってほしいものである。そのような憲法を持つ日本を侵略したなら、その国は世界から孤立し、危うい立場に置かれる。そのような憲法であってほしいものである。


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「きけわだつみの声の像(わだつみ像)」が伝えること [雑感]

7月5日の投稿記事「若い世代に読んでもらいたい「きけわだつみのこえ」」に関連する記事です。
                                                   
立命館大学に設置されている「わだつみ像」は、 立命館学園の教学理念「平和と民主主義」の象徴だという。東大に設置すべく計画されながら許可されず、立命館大学に設置されたようである。立命館大学のサイト史資料センターには、そこに至る経緯が記されている。
                                                   
わだつみ像の除幕式が挙行されたのは、1953年(昭和28年)12月8日で、学生の代表によって「不戦の誓い」が宣言されたという。
                                          
                     
「不戦の誓い」
                                                   
わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、愛する人々から引きさかれ偽りの祖国の光栄の名の下に、或いは南海の孤島に、或いは大陸の荒野に空しい屍をさらしました。その悲しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。再び銃をとらず、再び戦いの庭に立たぬことを。
                                                   
わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、何の憎しみももたぬ他国の青年と偽りのアジア平和の名の下に、愚かな殺し合いの中で尊い血を流しました。その嘆きのかたみであるあなたの前に私達は誓います。再び他国の青年と戦わず、共に組んで世界の平和を守りぬくことを。
                                                   
わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、魂のふるさとである学園で考える自由も学ぶ権利も奪われ、なつかしい校門から戦場へ送り出されました。その苦しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。学問の自由と学園の民主々義の旗を最後まで高く高く掲げることを。
  一九五三年十二月八日
                                                   
わだつみ像が設置された1953年(昭和28年)は、戦争が終わって8年が経った時期だから、国民の間には、愚かな戦争への悔恨と戦争を憎む感情が満ちていたはずである。「不戦の誓い」の文言に、その感情が示されている。「偽りの祖国の光栄の名の下に」「偽りのアジア平和の名の下に」「私たちは誓います。再び銃をとらず、再び戦いの庭に立たぬことを」「私達は誓います。再び他国の青年と戦わず、共に組んで世界の平和を守りぬくことを」「私たちは誓います。学問の自由と学園の民主々義の旗を最後まで高く高く掲げることを」
                                                   
除幕式で不戦の誓いを読んだ学生の気持ちが伝わるのだろうか、「わだつみ像」を眺める今の学生たちに。
                                         
憲法改正論者は言う「現憲法はアメリカに押しつけられたものである」と。憲法改正の核心は9条だが、その条項を発想して盛り込んだのは日本(幣原喜重郎内閣)だった。戦後間もないその頃、戦後の政治を担うことになった政治家たちは、あの戦争を悔い、戦争を憎む感情を強く抱いていたはずである。時代の推移に伴い、必要であれば憲法も改正されてしかるべきだが、戦争を憎む憲法であり続けてほしいものである。

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若い世代に読んでもらいたい「きけわだつみのこえ」 [政治および社会]

「きけわだつみのこえ」が出版されたのは、今から75年前の昭和24年(1949年)10月である。戦後間もない頃であり、戦争を憎む感情が強かった時代である。
                                          
私が所持しているのは、昭和34年(1959年)発行のカッパブックス版だが、あとがきによれば、内容は初版とほぼ同等のものらしい。その書物の巻頭に記されているのは、「なげけるか いかれるか はたもだせるか きけ はてしなき わだつみのこえ」なる歌である。Wikipediaの「きけわだつみのこえ」には、この歌に関わる次のような文章がある。
                                                   
学徒兵の遺稿を出版する際に、全国から書名を公募し、応募のあった約2千通の中から京都府在住の藤谷多喜雄のものが採用された。藤谷のそもそもの応募作は「はてしなきわだつみ」であったが、それに添えて応募用紙に「なげけるか いかれるか はたもだせるか きけ はてしなきわだつみのこえ」という短歌が添付されていた。なお、この詩は同書の巻頭に記載されている。(Wikipediaより)
                                                   
昭和20年の4月から8月にかけて、多くの特攻隊が沖縄に向けて出撃しているが、その主力となったのは、学業半ばに徴兵された学徒兵だった。彼ら学徒兵が遺した書簡や日記が、戦後に遺稿集として出版されているが、「きけわだつみのこえ」は、数ある遺稿集の先駆けとして出版されたものである。
                                                   
「きけわだつみのこえ」を久しぶりに開いて、掲載されている遺稿の幾つかを読み返し、まえがきとあとがきに眼を通した。そのあとがきによれば、「きけわだつみのこえ」は戦後の若い世代の聖書となっただけでなく、国境を越えて、英・独・仏・エスペラント・朝鮮など、諸国語に翻訳出版されたという。
                                                   
あとがきにはこのような文章が記されている。
                                                   
<本年(昭和34年)はまさに本書初版以来十年目の秋である。その間の戦後十年の歳月は、日本の民主化と平和運動、学生青年運動、あるいは戦後思想史の光栄と苦渋とにみちた波乱激動きわまりない流れであるが、しかも今日、戦争の危機は依然としてなくなってはいない。そして、この危機のなくならぬかぎり、本書の生命は、いつかな消えることなく、「わだつみのこえ」は呼びかけをやめず、つねに不死鳥のごとく新たによみがえらずにはいない。>
                                                   
あの戦争から80年に近い歳月を経たいまでは、「きけわだつみのこえ」なる言葉を耳にしても、それが何を意味するのかわからない人が多いと思われる。そうであろうと、「きけわだつみのこえ」は版を重ねて、最新刊は1997年に岩波書店から出版されており、ほとんどの図書館で、「きけわだつみのこえ 第2集」とともに蔵書になっている。将来の日本が戦争を起こさず、戦争に巻き込まれず、平和国家であり続けるうえで、「きけわだつみのこえ」などの遺稿集は大きな力になり得るだろう。将来にわたって戦争を防ぐために、戦争を憎む感情が社会に(他国をも含めて)行き渡るよう願っている。
                                                   
付記(7月6日)
「きけわだつみのこえ」が出版される2年前(昭和22年・1947年)に、東京大学戦没学徒兵の手記集「はるかなる山河に」が出版されている。東京大学協同組合出版部により編集出版されたという。


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「宮城まりこについて書かれた武本昌三氏による記事」を再掲 [人生]

本ブログで幾度も紹介した記事に、武本昌三氏(元大学教授)のホームページ「ともしび」の記事がある。その中に「宮城まりこ」について書かれたものがあった。そのことを思い出して読み返してみたら、ここに再掲したくなった。2020年3月30に投稿した「宮城まりこについて書かれた武本昌三氏による記事」である。
                                         
「宮城まりこについて書かれた武本昌三氏による記事(2020.3.30)」の再掲
                                          
武本昌三氏のホームページ「ともしび」の記事「肢体不自由児たちの教育について考える」を紹介


 肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を設立した宮城まり子さんが、先日、悪性リンパ腫のために亡くなった。彼女は1927年3月21日生まれだが、亡くなった日は彼女の93歳の誕生日でもあった。この宮城まり子さんを偲んで、元中学校教員の藤原孝弘氏が、朝日新聞の「声」欄(2020.03.27)に、「教育とは まり子さんに教わった」と題する一文を寄せている。そのなかで氏は、こう書いている。


 《40年ほど前、教員を志していた学生時代、ゼミの仲間とねむの木学園に見学に行った。まり子さんの音楽の授業はすさまじいものだった。
 障害のある身体のリハビリも兼ねて、楽器をたたかせたり、踊らせたりしようとまり子さんがリードするのだが、全身から「あなたたちはそのままで素晴らしい」「私はあなたたちを心の底から愛している」という思いがほとばしる。その心に応えて生徒さんたちが動かない身体を必死に動かそうとする。少しでも出来ると、全身で喜びを爆発させる。
 見ていた僕らは泣けて泣けて仕方がなかった。人が人を信じ、愛することのすごさと、それは必ず相手に伝わるという絶対の信頼とを教えて頂いたのだと思う・・・・・・》

 肢体不自由の教え子たちを愛し信じ切っているまり子さんの姿勢、すさまじい音楽の授業、少しでも出来ると全身で喜びを爆発させている子どもたち、そして、それを見て、人が人を信じ愛することのすごさに、「泣けて泣けて仕方がなかった」という見学者たち、――教育とは何か、そして特に、肢体不自由児たちにはどう向き合うべきかという人間のあり方の原点を深く考えさせられるような一場面である。
     


 私も、この藤原氏と同じように、40年ほど前、「泣けて泣けて仕方がなかった」体験をしたことがある。札幌駅前のデパートの会場で肢体不自由児たちの絵の展覧会を見た時のことであった。何気なくふと入った展覧会場であったが、画用紙の上に鮮やかな原色で力いっぱいに描き出されている絵の一枚一枚を見ているうちに、涙が止めどもなく流れ出してきた。自分でも意外であった。まわりの人々のなかでは恥ずかしい気持ちもあって、一度絵の前から離れて少し気を落ち着かせてからまた絵を見始めたのだが、どういうものかすぐに涙がはらはらと落ちてしまう。一枚一枚の絵から生命が躍動する強力な磁力が迫ってくるようで、それに圧倒されて、感動というよりもただ涙だけが流れ出るのである。

 私は、それまで、国内だけではなく、アメリカやヨーロッパのいろいろな美術館で数多くの名画にも接していたが、感動することはあっても、涙を流したことは一度もなかった。この投書の「泣けて泣けて仕方がなかった」というのを読んで、そのことを改めて思い出した。肢体不自由児たちは、肢体の一部に不自由があるかもしれないが、人の本性である魂はあくまでも健全・無瑕疵で、決して不自由ではない。奮い立てば奇跡のような才能も発揮する。あの絵を描いた肢体不自由児たちも、おそらく、宮城まり子さんのように、「あなたたちはそのままで素晴らしい」「私はあなたたちを心の底から愛している」という愛の人たちに囲まれていたのであろう。だからこそ、あの子たちは、むしろ「肢体自由児」以上に、のびのびと力強く、純粋無垢な命の輝きを画用紙の上に散りばめることが出来たのではなかったかと、いまの私は、当時の体験を振り返っている。


できることなら「ともしび」を訪れ、高邁とも呼べる多くの記事に眼を通してもらいたいものである。 (再掲おわり)

                                                   


私が記憶している宮城まりこは、昔のラジオ番組で「毒消しやいらんかね」を歌っていた歌手である。調べてみたら、NHKの紅白歌合戦に8回も出演した歌手であり、女優であって監督でもあったという。そしてなにより、あの「ねむの木学園の宮城まりこ」であった。

                                                   


Wikipediaの「宮城まりこ」には<上皇明仁・上皇后美智子とは皇太子・皇太子妃時代から40年の親交があり、両者は度々ねむの木学園やねむの木学園の美術展を訪問して宮城まり子と対面し、非常に懇意だった。>なる文章がある。明仁上皇と美智子上皇后に対して、あらためて敬意を覚える次第である。


 







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